落語の中の言葉127「凧」

          十代目柳家小三治「初天神」より

 あれ買ってくれこれ買ってくれと云わないという約束でいやいや初天神へ連れて行くと、心配した通りあれ買えこれ買えが始まる。飴を買い、団子を買い、凧まで買わされ、参詣もしないうちに凧を揚げたいという。子に手伝わせて凧を揚げるが、親の方が夢中になり子供には渡さない。こんなことならお父っアんなんか連れて来るんじゃなかった。

 江戸の男の子にとって新春の凧あげは最大の楽しみだったようである。
 男子の紙鳶遊び女子の羽根遊び 町方にては往来遊び多き中に、正月の紙鳶を上げて遊ぶは年一度、小児等無二なる楽しみ、殊には江戸の頃は立春の季には空に向くは養生の一とて、当時の人は皆経験あることにて、随分道路通行の邪魔になれども、兎角いうは野暮にして、田舎とは違い寸地あまさぬ町の習い、不足いうものなきのみか、高位の君達の御通行を妨げけることも比々とあれども、御用捨(ごようしや)下さるもありがたかりし。子供等、凧糸の多きを自負す。凧は常に二枚・二枚半張りを用い、またからめッ子とて、互いに凧と凧をからめ合わせて、敵の紙鳶を奪う。これには上手下手多く、上手なるは大人も足を止めて見物せり。このからませ凧に用いしは、堀竜(ほりりゆう)とて下谷の名物なり。(中略)

 大凧遊び 江戸にて大凧と称呼せしものは、六枚以上二十二枚張り位までなり。大風吹き起こるや、正月より二月中旬頃まで諸所に揚がりたり。空中に風筝(うなり)の響くこと日暮れまで休まず。大諸侯若殿方は、大凧を揚げさせ給い、十分に糸を出し、揚がり切りし頃手許より切り飛ばし給うこと往々ありけり。飛びし凧は風に従い上総(かずさ)辺に落ちしことも聞き及ぶ所なり。また日本橋魚がし・四日市・しんば辺・桶町・上槙(かみまき)町等の若者集まり、二十枚張り以上の凧を揚ぐるに、常盤橋御門外堀端より鍛冶橋御門外堀端にて揚げ、十分揚がりし時、町内へ持ち行く。その騒ぎ大方ならず。しかるにこの遊びより物争い・喧嘩の起こりしこともありし。従来江戸にて大凧を揚げることは禁制なり。(菊池貴一郎『絵本江戸風俗往来』明治三十八年刊)

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 たこ(いかのぼり)は、凧・紙鳶・師労之などと書い
 た。土地によって呼び方もさまざまである。
 いかのぼり○畿内にて○いかと云 関東にてOたこといふ 西国にて○たつ又ふうりうと云 唐津にては○たこと云 長崎にて○はたと云 上野及信州にて○たかといふ 越路にてOいか又○いかごといふ 伊勢にて○はたと云 奥州にて○てんぐばたと云 土州にて○たこと云う(上かたにては いかをのぼすといふ 江戸にて たこをあくるといふ 東海道にて たこをのぼすといふ 相州にて たこをながすと云)(『物類称呼』巻之四)

 江戸における凧の変遷を見ると、延享寛延の頃(1744~51)は武家方では十六枚張り、三十六枚張りという大凧を揚げた。安永の頃(1772~81)奴凧が出来、天明の頃(1781~89)には字凧を珍しがって喜んだ。寛政八年(1796)頃一枚張りで骨が七本の大凧仕立が売り出され骨の数が増し、骨が細くなった。それまでは四枚張り以下は横骨二本、筋違二本、立骨一本の計五本であった。そして天保(1830~54)の頃からは糸目も多くなったという。
やつこだこは、鳶だこの形をうつして、足を尻尾にしたるもをかし、是は安永の始より出来たり、其頃、木室卯雲(二鐘亭と号す、後白鯉館と改む )発句に、
 初午や地に白狐天にやつこだこ    (大田南畝『奴師労之』文政元年(1818)成)

翁が子どもの時は(延享寛延) 世上にて凧を上るに、様々の物好をして、尤大凧をも上たり、翁は生質余り凧を好まざりしが、夫へ西の内紙十六枚張にして、朱の洲浜(スハマ)を書きたる凧を、人の拵てくれたりしを、三河台へもち行てあげ付て、清水坂を引てかへる、屋敷のうちへ入れやうなかりければ、土(長か)屋の屋根へ両方より階子をかけ、若き侍ども糸を持て、長屋を持こして庭へ入たり、斎藤靭負(御小姓組、屋敷は三河台下)が所にては子供はなかりしかど、西の内紙三十六枚張の凧を拵へて上たり、畢竟は大人の慰にて、子どもの所作にてはなし、(森山孝盛『賤のをだ巻』享和二年(1802)自序)

凧も二枚ばり五十銭、絵は、杉の木立に片鳥居、浪に日の出、雲に舞鶴のるゐ、いかにもそまつなる絵なり、こはおのれが七ッ八ッの時なり(安永四五年、安永は九に改元)、そのゝち、十二三の頃(天明元年)にいたりて、字凧ととなへて、竜、蘭、鶴の字など、双鉤子(かごじ)のめぐりを、藍又は紫にいろどりたるを珍とし、宝として喜びけるに、今の字凧は下品として、子どもよろこびず、(山東京山『蜘蛛の糸巻』上巻 弘化三年(1846)序)

寛政比迄のいかのぼりは、今(嘉永)の如く横骨多く入れしはなし、八枚張い上ならでは、七本骨はなし、絵様は、京山翁が本書に云へるが如し、されば価も今より下直也、一枚張十六銭、二枚張三十二孔、四枚張、八枚張も一枚十六孔に価定りてひさげり、
然りしに、寛政八年の比、鉄炮洲船松町に、室崎屋といへるが、今の如き手を尽したる画様をなし、大凧仕立と唱へ、一枚張にても骨七本なるを売初しに、大にはやり、予もしばしば、家来にねだりてもとめさせし事ありき、価はむかしに一倍して、一枚張三十二孔なりしに、小児ら、此凧をあげざるを恥とせり、是予が居宅の辺、かの凧屋に近きゆゑ也、其後、京橋弥左衛門町と覚ゆ、和泉屋と云るに、室崎屋に同じ凧を商へり、是今の如く凧の奢侈になりし始也、
(山東京山編(天野三郎兵衛の父(隠居)追補)『蜘蛛の糸巻』下巻)

 ところでこの凧、江戸の初期には禁令が何度も出されている。たとえば

 慶安二丑年(1649)
一従前々如被仰付候、町中ニ而たこ上ケ候事、堅御法度ニ候間、家持子共之儀ハ不及申、借屋店かり之者迄念を入為申聞、たこ上ケさせ申間敷事
   丑正月廿三日

 万治二亥年(1659)
一町中ニ而子共たこ上候事、前々より法度ニ申付候処、頃日はみたりに候、向後堅可為停止、幷たこを仕商売仕候者可為曲事
   亥正月十七日

 万治三子年(1660)
一町中ニ而子供たこあけ候事、前々より法度ニ申付候所、頃日猥ニ候間、向後堅く可為停止、幷たこ作り商売仕者可為曲事
 子四月廿二日 (以上『江戸町触集成』第一巻)

 花火の禁止は火事を恐れてのことで、理解できるがなぜ凧揚げがいけないのか疑問に思っていたところ徳川実記に次の記載があった。

正保三年(1646)三月廿六日 昨夜切手門内に。何方よりか紙鳶に火をそへ投落してありければ。今より後紙鳶を禁制すべき旨令せらる。(「大猷院殿御実紀巻六十三」)

五代綱吉の時代頃まではまだまだ世の中不安定だったようである。慶安四年(1651)には由井正雪の事件も起こっている。明暦三年(1657)の大火の際にもただの火事ではないと思われたようである。亀岡宗山による明暦の大火体験私記には次のように書かれている。
是はたゞごとにあらず、いかさま、先年の丸橋忠弥、由井正雪一類残り、大風見合せしに火を付るとばかりおもはれ、(中略)
大手橋前は藤堂大学頭殿御固め、鉄炮のもの数百人、其外長柄のもの数々、御譜代大名中御堀端透間もなく詰歩、誠に馬の建場も無之、火事沙汰には不 相見驚申事のみ也、(『後見草』上)

 その後社会が安定すると凧揚げ禁止の町触は出されなくなり、年番名主の通達となる。その内容も騒がしいとか大凧は通行の邪魔になるという理由である。

延享五辰年(1748)二月廿八日
 町々ニ而子供たこ上ケ候儀、人集噪鋪有之、其上たこニ鳴物等附候故、別而噪敷相聞候ニ付、此節相止させ可然旨、年番名主通達

寛政九巳年(1797)二月
一町中ニ而大成たこをあけ、往来之邪魔ニ相成、別而御歴々御通行之節差障ニ相成候而ハ不相済事ニ付、右躰之義致間敷事
  巳二月
右之通町中江申渡可然旨、南北年番申合ニ而御達申候

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