落語の中の言葉124「七五三ーお七夜続き」
十代目桂文治「子ほめ」より
前回に続いて通過儀礼の祝いについて紹介する。江戸時代の中期以後、江戸の町方で行われた主なものは七五三の祝いである。
以下、髪置・袴着・帯直しについて目に付いた記載をあげる。
○髪置の祝

髪置は乳母も強気な髱を出し
誹風柳多留初編 明和二年刊
○袴着の祝
袴着にや鼻の下迄さつぱりし 誹風柳多留初編 明和二年刊
はかま着のどうだましてもぬがぬ也 誹風柳多留七編 安永元年刊
かたかたへ弐本ふんこむ十五日 誹風柳多留十七編 天明二年刊
○紐解(帯直しとも帯解ともいう)
帯解ハ濃おしろひのぬりはじめ 誹風柳多留初編 明和二年刊
以上見たところ、袴着と帯直しの祝いの年齢は区々で、昔から袴着五歳、帯直し七歳と決まっていた訳ではないようである。
鳥居清長の「風俗東之錦」(天明三、四年(1783・4)頃)に七五三が描かれているので紹介する。帯直しには化粧をした上に丈の長い着物と打掛を着せるため、ひきずってしまって自分では歩くことが出来ず、男性の肩にかつがれての参詣となっている。



清長の「風俗東之錦」より十五年ほど前の明和五年(1768)頃の鈴木春信「風俗 四季哥仙 神楽月」(右下)もほぼ同様の姿で描かれているので、少なくともこの頃には富裕な町家では「結構」なものに成っていたようである。
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前回に続いて通過儀礼の祝いについて紹介する。江戸時代の中期以後、江戸の町方で行われた主なものは七五三の祝いである。
七五三の祝 今月(十一月)十五日は嬰児の宮参りにて、男女三歳を髪置きの祝と唱え、男子五歳を袴着の祝と称し、女子七歳を帯解きの祝という。これ即ち七五三の祝なり。こは、月の初めより月の終わり迄に嬰児の衣類を新調し、氏子の産神へ詣ずるなり。元来武家に多かりしよりその華美を好まず、身分相応に出立ちしが、町家に移りしより、いみじく華奢を粧いて出立つ様になりしまま、天保度に及んでその華美を厳禁ありしより、武家は却ってこの祝は次第に廃(すた)れる中に、ただ身祝とて産神へ詣ずるも、告朔の儀極めて質素にしてその印を挙ぐるのみ。当日永田馬場山王宮・同宮御旅所・茅場町薬師仏の境内・神田明神社・芝神明宮・深川八幡宮・市ガ谷八幡宮・赤城・築土の両社・赤坂氷川宮・湯島天満宮・浅草三社権現等は殊の外なる賑わいにて、神楽殿にて神楽あり。諸所露店商人出でし中に、祝飴並びに手遊び物の店は特に繁昌す。(以下略)(『絵本江戸風俗往来』)
以下、髪置・袴着・帯直しについて目に付いた記載をあげる。
○髪置の祝
髪置きの祝は現在では、男女とも3才の11月15日に行われています。11月は一陽来福の月であり、15日は満月の日であるといわれます。髪置きの親として両親から子孫繁盛であり寿命長き目出度き人を依頼します。
この髪置きというのは胎髪を取りこの日より髪を伸ばし始める儀式を行うものです。髪置きの親は鋏を取り左の鬢を三度、右の鬢を三度、中の鬢を三度、挟むまねをし、(女子の場合には右から始めます。)綿を額より後ろに撫でかけて、熨斗と共に水引で結びます。綿を白髪に見立てて、小児の長寿を祈願したものです。(弓馬術礼法小笠原教場HP)
髪置の祝は。菅糸(すがいと)にてしらがを作り、ひろぶたにすえ、松山・たち花の作り枝を本の方紙に包み〈木の花包につつむ〉、しらがの上に置き、打乱箱(うちみだりばこ)にびん具を入れ持出して小児を吉方へ向わせ、しらがをかぶらせ申し、櫛を取りて左のびん三かき、右のびん三かきかく体をして〈ゆい付くるにはあらず〉櫛を納め退く。扨御祝あり。小児三のとしの祝なり。(伊勢貞丈『貞丈雑記』)
『日次紀事』云、「民間三歳小児置髪令蒙綿帽子、是謂白髪挿松枝幷多知波那於其上」といへり。『綾錦卅六番句合』、「かみ置、左 笠おもき雪のしだりや花元結 青里、右 かみ置やしだり初めの糸柳 布仙」。これを思ふに、もと綿ぼうしを着せて白髪といひしが、綿帽子はすたれて白髪といふより麻苧をかつがせしなるべし。或老女の語りけるは、余が髪置の時、扇を開きたるに、麻を長くさげて色水引にて扇に結付て笠に着て、産土神まうでせし。祖母は京師の人なりければ、これ上方風なりし歟(か)といへり。そは宝暦の末の事也。前の発句に笠重しといひしは是也。されば京師のみにもあらず。七、八十年已前迄もさる事にてありし也。(喜多村筠庭『嬉遊笑覧』巻之一下)

さて生(はゆ)ればはさむ事二歳までなり。かやうにするは小児は熱を以て育(そだつ)事天性なれば盛んなる熱をもらさん為に二歳までは髪を生(はや)しおかず(中略)さて三歳の春より髪を生す、是を髪置とて祝ふ。〔割注〕此時魚味の祝儀といふ事あり。(山東京山『歴世女装考』)
髪置は乳母も強気な髱を出し
誹風柳多留初編 明和二年刊
○袴着の祝
袴着は古くは男子7歳のとき着初めといいましたが、現在では5歳の年に行われています。因みの親には子孫繁昌にして、寿命長久な人を頼み、袴の腰をあてさせ、紐を結んだものです。小人は紐付きの着物で出て碁盤に乗り吉方に向かい、紋服等に着替え角帯を締め袴をはかせます。袴は因みの親が腰をあてさせ、紐を結びます。
この日から、自分で袴を穿けるようになるというけじめの儀式です。(弓馬術礼法小笠原教場HP)
袴着の事【1】 はかま着は小児七のとしなり。小きすおうを広ぶたにすえて持参し、小児を吉方に向わせ申してはかまばかりを取りてめさするなり。はかまばかりめさするは、おさなき人なる故、上をば略するなり。これ、すおうの着初なり。大名などの子息、すいかん・長絹などをもめさするなり。この時も下ばかりなり。これは男子ばかりなり。
〔頭書〕はかまぎの時えぼしはかぶらせず。えぼしは元服の時かぶり初むる事なり。
『貞久記』に「はかまぎの事、たぶん五の時はかまきせ申候。はかま・かたぎぬの紋、松竹 鶴亀を付申候」とあり。又云う「家の紋をも付るなり」。
『水左記』「承保二年八月十六日、今日東宮御着袴時三歳」。『玉蔡』「承久二年十一月五日、 此日皇太子御着袴二歳」。
袴着の事【2】男子袴着の事、三歳本式なり。しかしその人のかっこう(格好)に依りて五歳七歳にもせし事と知るべし。(伊勢貞丈『貞丈雑記』)
『東鏡』巻卅四仁治二年十一月廿一日の所に「今日若君御前(ごぜ)御袴着魚味也中略着始綿衣給」とあり。前に引たる如く此年二月十七日生髪(かみおき)ありて同年十一月廿一日袴着の祝ひあり。此若君といふは前にも申ごとく鎌倉四代頼経卿の御子後に五代目頼嗣卿なり。延応元年十一月廿一日鎌倉に生れ玉ふ。仁治二年十一月廿一日は三歳正当の誕生日ゆゑ袴着の位ひありしなるべし。袴着の日より長絹の袴ばかり着はじめ玉ひて児姿(ちごすがた)になり玉ふ。(中略)「魚味也」とは出生以来此日のを始として魚(いを)を喰(しょく)すを魚味祝ひといふ魚の喰初(くひぞめ)なり。むかしは三歳になりて始て魚味をゆるす風儀(ならはし)なる訳は次にいふべし。 (山東京山『歴世女装考』)
袴着にや鼻の下迄さつぱりし 誹風柳多留初編 明和二年刊
はかま着のどうだましてもぬがぬ也 誹風柳多留七編 安永元年刊
かたかたへ弐本ふんこむ十五日 誹風柳多留十七編 天明二年刊
○紐解(帯直しとも帯解ともいう)
帯直しの祝
帯直しは女子7歳の11月15日に行います。つけ紐を除いて帯をする所から帯解きの祝いともいわれます。帯親には目出度い女の人を頼みます。帯は帯の親より贈られる、白地一筋、紅梅一筋または色は好みの物二筋、模様は宝づくし、鶴亀等のお目出度い物を縫い織りにし、常の帯より細くし(厚板の付け帯とくけ帯とする)たものです。
帯の親は小人に小袖を着せ、帯を取り二重回して後ろで両締めに結びます。この日から一人で帯が結べるようになっていくというけじめの儀式です。(弓馬術礼法小笠原教場HP)
【帯なおしの祝】帯なおしの祝を今は帯ときの祝と云う。これは小児を吉方に向わせ申し、付け帯なき小袖をめさせ帯をして参らするなり。広ぶたに小袖帯をすえて出してめさするなり。殊なる儀式もなし。小児五のとしの祝なり。男女同じ〈『大草殿御伝書』に帯直の祝とあり〉。
(伊勢貞丈『貞丈雑記』)
帯解ハ濃おしろひのぬりはじめ 誹風柳多留初編 明和二年刊
以上見たところ、袴着と帯直しの祝いの年齢は区々で、昔から袴着五歳、帯直し七歳と決まっていた訳ではないようである。
(十一月)十五日には子供悦び髪置とて、末広扇子に奉書に包、麻苧をさげ、しらがと名付る物を頭にかぶらせ、生土神へ参詣したる也、男子袴着とて、かちんの上下に子持筋付、紋処には宝来を付たる也、女子の七歳帯解の祝儀も、大方上着下着白むくかい取こし帯、凡は絹郡内加賀絹位のもよふ物にて有し、縮緬紗綾羽二重の縫入等は、殊に稀にて有し、近年の其結構言葉に不及、衣服数も七つも九つも着し、上着の丈は四尺餘なれば歩行あたわず、大の男の肩車にかつがせあるきし事に成り侍る、
今は大人の婚礼のしたくよりも大そうに成りたる事にて、身上不相応なる事共なり、(『寛保延享 江府風俗志』寛政四年(1792))
鳥居清長の「風俗東之錦」(天明三、四年(1783・4)頃)に七五三が描かれているので紹介する。帯直しには化粧をした上に丈の長い着物と打掛を着せるため、ひきずってしまって自分では歩くことが出来ず、男性の肩にかつがれての参詣となっている。




清長の「風俗東之錦」より十五年ほど前の明和五年(1768)頃の鈴木春信「風俗 四季哥仙 神楽月」(右下)もほぼ同様の姿で描かれているので、少なくともこの頃には富裕な町家では「結構」なものに成っていたようである。
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