落語の中の言葉123「お七夜」
十代目桂文治「子ほめ」より
隠居のところにタダの酒があると聞いてご馳走になろうと訪ねると「タダ」ではなく「灘」とわかりがっかり。酒でもご馳走になろうと思ったらお世辞がなくてはいけないと云われ、人の褒め方、赤ん坊の褒め方を教わり、長屋の付き合いで祝いを出した家へ行く。赤ん坊を誉めるのと年を若く云う大人へのお世辞がこんがらがる。赤ん坊に向かって「だまってないで何とかいえ」というと、「しゃべらないよ、まだ生まれて七日目だ」「初七日か」「お七夜てエんだ」。
生まれてから大人になるまで江戸時代にはいろいろな祝いがあった。武士、町人、公家では違いがあったであろうし、武士でも大名と御家人では違っていたであろう。徳川将軍家の場合を見てみよう。
四代家綱と十代家治の祝いを徳川実紀から拾うと次の通り。
四代家綱 十代家治
誕生 寛永十八年(1641)八月三日 元文二年(1737)五月廿二日
七夜 寛永十八年(1641)八月九日 元文二年(1737)五月廿八日
色直 元文二年(1737)九月廿五日
宮参 寛永十九年(1642)五月九日 元文二年(1737)九月廿七日
髪置 寛永廿年(1643)正月十一日 元文四年(1739)十一月一日
命名 正保元年(1644)十二月十七日 元文五年(1740)十二月十五日
袴着 正保二年(1645)正月三日 寛保元年(1741)正月廿一日
加冠 正保二年(1645)四月廿三日 寛保元年(1741)八月十二日
袖留 明暦二年(1656)五月三日 宝暦元年(1751)五月二日
執前髪 万治二年(1659)正月十一日 宝暦三年(1753)三月十八日
お七夜には幼名をつけている。ともに竹千代。「命名」は大人の名、家綱・家治の命名である。
なぜ家綱と家治を選んだかというと、徳川将軍家で長男が家督を相続することにきまったのは三代家光からで、四代から十五代の将軍十二人のうち世継ぎとして生まれた者は家綱・家治・家定の三人。そのうち将軍の子として生まれたのは家綱だけ。家治と家定は将軍の嫡孫として誕生しているからである。
姫の例も一つ。家光の長女、千代姫 年齢は数え
誕生 寛永十四年(1637)閏三月五日
七夜 寛永十四年(1637)閏三月十一日
宮参・魚味始 寛永十四年(1637)七月十六日 129日目 千代姫命名
定婚 寛永十五年(1638)二月廿日 二歳
尾張右衛門督光友(寛永二年七月十九日生)
入輿 寛永十六年(1639)九月廿一日 三歳
紐解 寛永二十年(1643)二月十四日 七歳
歯黒 慶安二年(1649)十一月十二日 十三歳
ついでに宮方はというと
七夜の祝について弓馬術礼法小笠原教場ホームページには次のように書かれている。
山東京山は『歴世女装考』(弘化四年(1847)刊)の中で「剃胎髪〔うぶぞり〕今の世出生の小児は貴賤とも出生より七日にあたる日胎髪〔たいはつ〕を剃〔そる〕事古き風儀〔ならはし〕なり。」と述べて「栄花物語」寛弘五年(1008)八月一条院の中宮彰子出産の王子の例をあげている。
ところで二宮尊徳は娘ふみの祝いをお七夜ではなく「十一日御祝儀」として行っている。
日記によれば長女ふみは文政七年七月十七日の「夜四ッ半九ッ迄之間」に生まれている。そして十一日目の二十七日のところに
一 二十七日上々天気、大暑、おふみ十一日御祝儀、御陣屋内御酒差上候、赤飯両長屋共、平次、杢兵衛、よて、平十
とある。(新井恵美子『江戸の家計簿』)
尊徳は小田原の栢山村の生まれであるが、ふみが誕生したのは桜町立て直しのため下野国芳賀郡の桜町陣屋にいた時である。どこの慣わしなのであろうか。
また、橋本経亮『橘窓自語』巻六には
寛政享和頃の京都では六日目に髪を剃っていたようである。
その他の祝についてもざっとみておこう。
○色直の祝・喰初の祝
同じく弓馬術礼法小笠原教場には喰初の祝としてこう書かれている。
同じ武家故実でも伊勢流では、
○宮参
伊勢貞丈は天明四年(1784)に没した旗本。
七五三の祝いである「髪置」「袴着」「紐解(帯直し)」は次回に。
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隠居のところにタダの酒があると聞いてご馳走になろうと訪ねると「タダ」ではなく「灘」とわかりがっかり。酒でもご馳走になろうと思ったらお世辞がなくてはいけないと云われ、人の褒め方、赤ん坊の褒め方を教わり、長屋の付き合いで祝いを出した家へ行く。赤ん坊を誉めるのと年を若く云う大人へのお世辞がこんがらがる。赤ん坊に向かって「だまってないで何とかいえ」というと、「しゃべらないよ、まだ生まれて七日目だ」「初七日か」「お七夜てエんだ」。
生まれてから大人になるまで江戸時代にはいろいろな祝いがあった。武士、町人、公家では違いがあったであろうし、武士でも大名と御家人では違っていたであろう。徳川将軍家の場合を見てみよう。
四代家綱と十代家治の祝いを徳川実紀から拾うと次の通り。
四代家綱 十代家治
誕生 寛永十八年(1641)八月三日 元文二年(1737)五月廿二日
七夜 寛永十八年(1641)八月九日 元文二年(1737)五月廿八日
色直 元文二年(1737)九月廿五日
宮参 寛永十九年(1642)五月九日 元文二年(1737)九月廿七日
髪置 寛永廿年(1643)正月十一日 元文四年(1739)十一月一日
命名 正保元年(1644)十二月十七日 元文五年(1740)十二月十五日
袴着 正保二年(1645)正月三日 寛保元年(1741)正月廿一日
加冠 正保二年(1645)四月廿三日 寛保元年(1741)八月十二日
袖留 明暦二年(1656)五月三日 宝暦元年(1751)五月二日
執前髪 万治二年(1659)正月十一日 宝暦三年(1753)三月十八日
お七夜には幼名をつけている。ともに竹千代。「命名」は大人の名、家綱・家治の命名である。
なぜ家綱と家治を選んだかというと、徳川将軍家で長男が家督を相続することにきまったのは三代家光からで、四代から十五代の将軍十二人のうち世継ぎとして生まれた者は家綱・家治・家定の三人。そのうち将軍の子として生まれたのは家綱だけ。家治と家定は将軍の嫡孫として誕生しているからである。
姫の例も一つ。家光の長女、千代姫 年齢は数え
誕生 寛永十四年(1637)閏三月五日
七夜 寛永十四年(1637)閏三月十一日
宮参・魚味始 寛永十四年(1637)七月十六日 129日目 千代姫命名
定婚 寛永十五年(1638)二月廿日 二歳
尾張右衛門督光友(寛永二年七月十九日生)
入輿 寛永十六年(1639)九月廿一日 三歳
紐解 寛永二十年(1643)二月十四日 七歳
歯黒 慶安二年(1649)十一月十二日 十三歳
ついでに宮方はというと
御幼稚の宮方は、御成長迄に種々の御祝儀あり。先御二歳の暮に御髪置あり。宮にしらが綿をかづけらる。老年を祝ふ心なり。次に御三歳の暮に御色直しあり。是は染色の御服に改めらるゝ也。次に御五歳の暮に御ふかそぎあり。是は宮吉方に向ひ、碁盤の上に立給ふ。大臣御髪親とて御鬘の末をそぐ也。古へ此年に着袴、或は御裳着の式あれども、今代はなかりし。次に御九歳の時に御粧直しあり。或は御紐落しともいふ。是は始めて帯を結ばる也。次に御十三の時御鉄漿始あり。是は七ヶ所のかねを集め御付初ある也。次は御十六の六月に御袖留め月見の事あり。古へ此時髪そぎの事あれども、霊元上皇御代より止めらる。皇子は御十六の比に御元服あり。御十七にて御眉拭あり。(勢多章甫『思ひの儘の記』)
七夜の祝について弓馬術礼法小笠原教場ホームページには次のように書かれている。
誕生から7日目で初めて新生児は産屋を出て他の人と対面をします。お七夜の祝いは産屋で行われ、産着として打掛を肌着のうえに着せますが、男子は左手より、女子は右手より通し、帯は結ばずに打ちかけておきます。またこのお七夜の日に名前をつけることが多く、書き方は檀紙または奉書紙に、向かって右に誕生年月日、中央に名前、左に年月日と命名者何の誰と記し印を押します。出生届は誕生から2週間以内に役所の戸籍係に提出しなければなりませんので、お七夜の命名については現代でも理にかなっております。
そして産婦の色直しは三七日の夜、21日目に行う枕直しで、この日より床上げです。欧米では産後すぐに立ち働いているようですが、医学的には3週間目には内部の傷も大体治癒していると言いますので、しきたりによって母体を保護していたとも言えましょう。
山東京山は『歴世女装考』(弘化四年(1847)刊)の中で「剃胎髪〔うぶぞり〕今の世出生の小児は貴賤とも出生より七日にあたる日胎髪〔たいはつ〕を剃〔そる〕事古き風儀〔ならはし〕なり。」と述べて「栄花物語」寛弘五年(1008)八月一条院の中宮彰子出産の王子の例をあげている。
ところで二宮尊徳は娘ふみの祝いをお七夜ではなく「十一日御祝儀」として行っている。
日記によれば長女ふみは文政七年七月十七日の「夜四ッ半九ッ迄之間」に生まれている。そして十一日目の二十七日のところに
一 二十七日上々天気、大暑、おふみ十一日御祝儀、御陣屋内御酒差上候、赤飯両長屋共、平次、杢兵衛、よて、平十
とある。(新井恵美子『江戸の家計簿』)
尊徳は小田原の栢山村の生まれであるが、ふみが誕生したのは桜町立て直しのため下野国芳賀郡の桜町陣屋にいた時である。どこの慣わしなのであろうか。
また、橋本経亮『橘窓自語』巻六には
産婦の七夜の六日めを、六日たれといふは、出生の小児のうぶがみを、六日めに剃しよりのことなるべし。髪をそるといふを忌て、髪垂といへりしより、六日髪垂を略して、六日垂と称せしなり。とある。橋本経亮は文化二年(1805)に没した京都の故実家で梅宮社禰宜。
寛政享和頃の京都では六日目に髪を剃っていたようである。
その他の祝についてもざっとみておこう。
○色直の祝・喰初の祝
同じく弓馬術礼法小笠原教場には喰初の祝としてこう書かれている。
喰初の祝
古では生まれて100日目を色直し、120日目を喰初としていましたが、今日では110日目に色直しと喰初の祝を同時に行うのが一般的です。喰初は、箸揃え・箸初めとも称していましたが、これは武家で女子の用いた言葉です。
また、武家では喰初のことを「色直し」ともいい、これは色のある小袖を着せて祝ったことによります。
若子が男子の場合にはめでたい大形の家紋のついた色のある小袖を着せ、女子には姫小松・若菜・撫子の模様のある色のついた小袖を着せます。
色は十干により、甲乙は赤、丙丁は黄、戊己は白、庚辛は黒、壬癸は青とするのが相性の色と伝えられ、これは男女共通のことです。
男子には男、女子には女の人が親代わりとなって養親を務め、式は辰の刻(午前8時)に行うこととされています。
昔はお新香(ママ)で作った餅と軟らかく煮た大根で離乳食を始める日でしたが、今日では本膳を小さくした膳を新生児の前に並べています。この膳は離乳食としての初めての食事の式の後、家族とともに催す宴の時に出される飾り膳でもあります。
同じ武家故実でも伊勢流では、
喰初の祝、『四条流献方口伝書』に云う、「喰初は男女共生れたる日よりくりて百廿日に当る日也。月数は五ヶ月にて百廿日なり。是を箸初の祝共云。今流儀によりて男百十日、女百廿日とも覚えたる人あり。略議也。百廿日本式也。此時に能く立つ市場にて〈定市の事なり〉餅五つ買取、五度土器に盛出す。又足打に親子草〈鼠麹(ははこ)草の事なり〉かい敷にしても盛る也。是を歯固(はがため)の餅とも申也。白餅にも又は小豆餅にもする也。此餅は代物を過分につかはす法也」〈貞丈云う。公家にてはくいぞめを真菜の祝と云う。又魚味の祝とも云う。魚を用いる故なり。真菜(まな)とは魚の事なり。三歳の時に祝うなり。それ迄は乳を呑まするなり。内々にては飯を食わする事あるとも、おしあらわして飯をくわしむるは真菜の祝の日よりはじむるなり〉。(伊勢貞丈『貞丈雑記』)
○宮参
宮参りの事、本はうぶすな参りと云いしなり。『誕所記』〈伊勢貞衡が記されし〉云う、「百日の内は白小袖、百一日め色直しとて産婦児幷仕女も色小袖を着す。色直しの祝有べし。色直し有て三七日の後吉日次第宮参有べし」。又『祝言次第』〈『蜷川親孝記』天文・永禄比〉記云う「百日に色直しと云て赤き小袖をきさせてうぶすなへ参らする云々」〈既に天文・永禄の比はうぶすな参り又宮参りなど云う名は聞えしなり。その外は詳ならず〉。御宮参りと云う名目、義満将軍已来の事にや。又『東鑑』「建久三年八月九日、御台所御産気男子〈実朝公〉御産也。次有御名字定千万君云々。十日若公二夜事、武蔵守三浦介沙汰十一月五日若君御行(なり)始也云々」〈誕生日よりは十六日めなり〉。則ち名附も誕生日名附くる様に見えたり。御行始は宮参りか。
{頭書}『走衆故実』云う、「天文五年十一月廿八日。若君様(義輝公)始而御うぶすな参。 還御候て各御太刀参云々」。たん生在りて二百日余りなり。
宮参りの日定まらず、陰陽師のかもん(勘文)にまかするか。(伊勢貞丈『貞丈雑記』)
伊勢貞丈は天明四年(1784)に没した旗本。
七五三の祝いである「髪置」「袴着」「紐解(帯直し)」は次回に。
落語の中の言葉 一覧へ
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