落語の中の言葉118「羅宇屋煙管」
八代目林家正蔵「紫檀楼古木」より
羅宇屋について、『守貞謾稿』には
とあって、上の図をあげている。
江戸時代の後期には道端で作業をしたが、その前は呼ばれた家に入って行ったようである。
『享和雑記』には「らうのすけ替といふ者、天明(1781-89)の比より売始たり、夫迄は地張きせるとて呼て売あるくのみにて、別にらうの名をあぐる事無し、」とあるので、羅宇のすげ替の行商は安永末から天明初め頃に始まったようである。
「地張」というのは江戸近辺の製という意味である。
近世初期の風俗画を見ると煙草伝来の初期の煙管はかなり長かったようである。上図左は南蛮煙管と呼ばれたもののようである。また初期にはまだ煙草入はなく、煙草を紙や布に包んで煙管に結びつけて持ち運んでいた。(右図)
元禄三年(1690)刊の『人倫訓蒙図彙』にある煙管もかなり長い。
右図は幾世留(きせる)師、左は無節竹(らう)師
その文には
長大だった煙管が懐中できるほど小さくなったのは、いつごろからであろうか。二つ折りや振り出し式のものも作られている。
ただ、後にも特別に長い煙管を使った例もある。
尾張七代藩主徳川宗春は吉宗の倹約政策に反して各種の祭りを華美なものにし、藩士の芝居見物を自由化し、遊廓の開業も許可している。これによって名古屋は三都に肩を並べる程の賑わいをみせたという。自身も華美を尽くし、五尺もある長い煙管を使っている。
1・5メートルもあっては自分だけでは使えず、煙管の先を家来に持たせている。ちなみに宗春は元文四年(1739)、幕府から蟄居謹慎さらに隠居を命ぜられた。そして外出が初めて許されたのは廿二年後の宝暦十一年(1761)尾張家菩提寺への参拝であったという。
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羅宇屋について、『守貞謾稿』には
羅宇屋 烟管の竹をらうと云ふ。本字未詳。
三都ともに普通、烟管首尾ともに長け八寸を
定めとす。七寸を殿中と云ふ。らう価八文、
長き物は価十二文以上。
京坂にては、らうのしかゑと云ひ、道具らう
竹等二筥に納れて担ひ巡る。江戸は一筥に納
れて負ひ巡る。
文久元年より諸価高直に准じて、従来八銭の
らう十銭となる。
とあって、上の図をあげている。
江戸時代の後期には道端で作業をしたが、その前は呼ばれた家に入って行ったようである。
らうのすげ替、安永(1772-80)のすへより此商人来る、初の内は誰言となく、隠密と申触らし、悪るさする人達は恐れたり、此商人は内へ入て、らうすげ替る間、ゆるりと内へ入居る故に、右の沙汰に申なしたるもの、隠密の役には有らず、(山田桂翁『宝暦現来集』巻之一 天保二年(1831))
『享和雑記』には「らうのすけ替といふ者、天明(1781-89)の比より売始たり、夫迄は地張きせるとて呼て売あるくのみにて、別にらうの名をあぐる事無し、」とあるので、羅宇のすげ替の行商は安永末から天明初め頃に始まったようである。
「地張」というのは江戸近辺の製という意味である。
今世、三都の内、江戸製を良とす。昔は江戸にてこれを造らす、京都より桜張りと云ふ真鍮の粗製を下すを専用とす。今も客煙草盆のキセルのみこれを用ふ。また近年、奥〔州〕の会津よりも多く製して江戸に出す。今世、京坂にて江戸製を賞し用ふ。(『守貞謾稿』)
近世初期の風俗画を見ると煙草伝来の初期の煙管はかなり長かったようである。上図左は南蛮煙管と呼ばれたもののようである。また初期にはまだ煙草入はなく、煙草を紙や布に包んで煙管に結びつけて持ち運んでいた。(右図)
元禄三年(1690)刊の『人倫訓蒙図彙』にある煙管もかなり長い。
右図は幾世留(きせる)師、左は無節竹(らう)師
その文には
幾世留張 今二条通富の小路に、桜やといふ者あり。其先祖これをはじむとかや。むかしは葭(よし)をそぎて、それにてのみしと也。京間町(あいのまち)通二条の下、三条大橋の東、大仏におほく住す。近(ちかき)頃水口、坂本、団子や、これ名物なり。とある。
長大だった煙管が懐中できるほど小さくなったのは、いつごろからであろうか。二つ折りや振り出し式のものも作られている。
きせるも品々流行せり。されども大抵今もかはらず。京都桜ばりのみ万代不易の形にて、その比もおとなしき人は用ひたりしが、今もかはらず。又流行もせず。其外品々新作いづれとも、大同小異にて、さして目立たるもなし。しかしながら、昔は打のべのきせるを持者十人に三四人も有たり。又女は継らうとて、長きらうを二ツに切て、夫を相口をこしらへ、継て長きゝせるにして呑たり。仕舞時は二ツにして懐中するなり。〔割註〕其継目の相口を角にてするもあり。銀にてするもあり。ほり物など迄に物好したり。」又懐中きせるとて、打のべのきせるを三継にて入子にしてふり出せば、能きかげんの長ききせるになる様にして、納める時は、吸口より入子にして仕舞やうにして、みじかくなるなり。一旦はやりて、殿中御役人など専ら用ひたり。畢竟懐中の為なり。(森山孝盛『賤のをだ巻』享和二年(1802))
ただ、後にも特別に長い煙管を使った例もある。
尾張七代藩主徳川宗春は吉宗の倹約政策に反して各種の祭りを華美なものにし、藩士の芝居見物を自由化し、遊廓の開業も許可している。これによって名古屋は三都に肩を並べる程の賑わいをみせたという。自身も華美を尽くし、五尺もある長い煙管を使っている。
享保十六亥年(1731)
一近江にて白牛御買上に付、大代官飯島重左衛門御預りの手代罷越、求来る。右牛、殊の外、思召に入、御機嫌能、依之、右手代両人へ表立御褒美。
金二百疋ツゝ 渡辺宅左衛門
広田利右衛門
一諸寺諸社御参詣の節、右白牛に鞍・鐙置候て、猩々緋の装束、時々模様替り候へども、大方は右之通にて、御衣服、是又、時々替り候へども、毎迚も、御頭巾、唐人笠、五尺計の御煙筒御持(奥御茶道衆、其先をかつぐ)右白牛に被為召、定光寺へも、御道中、右の通にて御参詣、惣て、所々出御・還御の節、夜に入候へば、町々辻々、揚桃燈、家並に思ひ思ひのかけ行燈、尤、町々の境を立、夫々の物好致候。惣体、御在国の節、所々へ御成の節、御道筋、夜は、町々存付たる趣向の造物・揚桃燈・燈籠・掛行燈、美を尽、見物人群集す。(『遊女濃安都(ゆめのあと)』)
1・5メートルもあっては自分だけでは使えず、煙管の先を家来に持たせている。ちなみに宗春は元文四年(1739)、幕府から蟄居謹慎さらに隠居を命ぜられた。そして外出が初めて許されたのは廿二年後の宝暦十一年(1761)尾張家菩提寺への参拝であったという。
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