落語の中の言葉117「伊勢の壺屋の煙草入」

          六代目三遊亭円生「城木屋」より

 この咄はお客から出された三つの題、「評判娘」「東海道五十三次」「伊勢の壺屋の煙草入」を一つの咄にまとめた、いわゆる「三題咄」だという。題に出されるほどであるから「伊勢の壺屋の煙草入」は江戸でも有名だったのであろう。
『守貞謾稿』は各種の煙草入について記したあと、名物煙草入について次のように云う。
画像
勢州稲木村壺屋烟草入は、厚紙に油をもって製したる物なり。荏油製なり。紙製諸方にあれども、これを名物とす。合羽烟草入とも云ふなり。その製種々ありて袂落とし・提げ・腰差しともにあり。なかんづく、提げタバコ入第一図の形を専らとす。他色も製すれども黒を第一とす。その膚は黒皮のごとく、手に馴るゝ時は光沢を出し黒塗のごとくなる。
金具真鍮打ち出し。中に壺形にやの字、左右に稲木とあり。
 江戸四日市町大竹屋烟草入、これまた荏油製紙烟草入なり。その製種々ありて、壺屋よりは価貴く上製なり。
 また近年、大鷹紙を油製して、これまた提げ烟草入第一図の形にす。色も黒なり。その膚滑らかならず全くに小皺(こじわ)あり。天保中、江戸にても壺屋烟草入流布せり。大たか出て壺屋廃す。けだしこの形は小民の用なり。(後集巻之四)

また『わすれのこり』(明治十七年自序)には次のようにある
               壺屋たばこ入
画像勢州稲木村の壺屋清兵衛方にて製する、黒いろにして、すこし茶色を含みたる、紙面滑ならす、竪横の差別なく、強きこと革のごとし、其仕立るに至て質朴にして、皆くけぬひ也、ながくもてばすれてつやを出だし、あたらしきときより美なり、前金物は真鍮にて、かくのごとし、
 歌に、
   肝つぶし伊勢の稲木のたばこ入ふるなるひかるつよいかみなり


 煙草入れの形や素材は様々であるが、携帯の仕方で分けると次の三つになろうか。
一、袂落とし煙草入
 袂に入れて携帯するもの。落としやすいので工夫がされている。
袂落としの烟草入を持つに袂より落失しやすきが故に、より糸をもって図のごとく七宝形に編みて、両側を組緒にてこれを繋ぐ。一個に烟草入、一個に手巾を納れ、緒を背にして両袂に納る。あるひは片編み製に手巾を納れ、片方図のごとく緒を輪となし烟草〔入〕の胴に掛け、緒締をもってこれを締むるもあり。
 また水口駅に製しこれを売る。葛籠製をもって糸編みに代ふるもあり。(『守貞謾稿』)
画像画像







二、提げ煙草入
 根付を使って腰から提げるもの。
 一つ提げ煙草入 煙草入だけを腰から提げて、煙管は袂落としと同じ。
 提 げ 煙 草 入  煙草入と煙管筒をつなげ、一つの根付で腰から提げる。
三、腰差し煙草入
 煙草入と煙管筒をつなげ、根付を用いず煙管筒を帯に差す。

 袂落とし煙草入                        一つ提げ煙草入     
画像画像




  提げ煙草入
画像

  腰差し煙草入

画像 





 丈八の煙草入には狼の上顎の根付けが付いているといい、また煙管筒は出てこないので一つ提げ煙草入のようである。

 たばこの伝来の時期は諸説あってはっきりしないが、江戸時代の初期には禁令がだされていた。
烟草は天正の比蛮人舶載せしより。次第に世人好む者多くなりしかば。やがて各国にも栽培する者数そひたり。貴賤ともに烟管を懐にせざる者なきにいたれり。このものうゆるが為に。田畝を荒蕪すること少からす。又警火のためにもよろしからねば。元和二年十月始めてこの禁令を仰下さる。烟草植るもの。市人は五十日。農民は三十日獄に繋ぐべし。売買する者も是におなじ。植立し郷邑の民は過料として一人に銭百文づゝ収公せしめ。その地の代官は五貫文出さしむべしとなり。(「台徳院殿御実紀附属巻之三」)
「元和二年(1616)十月始めてこの禁令を仰下さる」とあるが禁令はもっと前から出されている。同じ徳川実紀に

慶長十年(1605)
蛮船はじめて烟草をのせ来る。京人その種をうへて。専らその烟を吸ふ事風尚となり天下にあまねし。この事益少く損多きをもて。令をくだし禁ぜらる。(「台徳院殿御実紀巻之二」)

慶長十七年(1612)八月六日
烟草は厳に禁制せらる。売買の徒を見しりうたへ出ば。売買の者の資財を。うたへし者に下さるべし。もし路頭にして見いだしなば。その売者を其所にとめ置うたへ出べし。烟草負せたる馬荷物共に訴人に下さるべし。各国にも烟草を植しむべからず。(「台徳院殿御実紀巻之二十」)

その後、禁止することはできないと諦めたようである。米作りの障りにならないように本田畑での煙草栽培の禁止と下馬所等供の者が集まるところでの禁煙と往還での禁煙が命じられるにとどまった。

寛文七未年(1667)閏二月
於諸国在々所々、本田畑ニたはこ作り候事、自今以後、可被致停止之、但野山を新規ニ切起、作り候儀は不苦候、右之趣、各御代官中堅可被申付候以上、(『御触書寛保集成』)

元禄六年(1693)十月
此月令せられしは。東西内外の下馬所にて煙草喫べからざるむね。前々令せられしに。このごろ犯すものあり。東は保科肥後守正容が邸辺。西は牧野備後守成貞が表門辺まで。小人目付して見廻らしめ。煙草用ふるものあらば。其主の姓名をも聞糺さしむべしとなり。(「常憲院殿御実紀巻廿八」)

元禄八年(1695)十月
二日町奉行に命ありて。所属の与力をして。昼夜ともに。途上にて煙草喫ながら往来するものあらば。見及ぶまゝにいましめしむべしとなり。(「常憲院殿御実紀巻之卅二」)

  らうそくの灯ですい付て足袋をぬぎ  誹風柳多留初篇 明和二酉年1765

 煙草を吸いたくても通りでは喫めないため、家に着くと上がり框に腰掛けたまま、まずは一服。それから道悪で汚れたのであろう足袋を脱いで家に上がる。

 また初期の禁令に関してはこんな話がある。
元和元年六月二十八日、天下一統に多波古御停止ありける。そのころ白木屋といふ者、柳原の封疆(どて)を通るに、つかれたる乞食の、菰(こも)の下にしのびて、たばこを呑を見る。渠がおもふは、かくきびしき御停止に、糧(かて)につきたる者だに、これを捨得ざる事、かほどに世の人好むなれば、近(ちかき)ほどにゆるやかならん事を考へ、江戸、京、大坂の捨(すた)れるきせる、其外たばこの器の当時用だゝざるを買求め庫(くら)に納む。はたして程なく此禁(いましめ)の弛(ゆり)けり。時に右の器物を売て、大きに利を得て富有と成りて今に栄ふ。(『本朝世事談綺』享保十八年(1733)序)

            落語の中の言葉 一覧へ

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック