落語の中の言葉116「たらちね」

          三代目三遊亭金馬「たらちね」より

 金馬師匠の「たらちね」では、言葉の難しいお嫁さんが名前を聞かれた時、「たらちねの胎内出でしときより健やかに、鶴女と申し侍りしがそは幼名、成長ののちこれを改め清女と申し侍るなり」と答えている。
「たらちね」は広辞苑には〔足乳根・垂乳根〕(乳を垂らす女、また乳の足りた女、満ち足りた女の意などという)
①女親。母。たらちめ。
②ふたおや。父母。
③(母を意味する「たらちめ」の語が生じたことから)父親。
とある。
 「たらちね」から「たらちめ」(母)、「たらちを」(父)が派生したともいう。「たらちを」など本来あり得ない言葉だと思うが、古くから使われているという。
たらちねは、万葉集に垂乳根とかきて母の称也。諸註に、乳を足らしめて子をはぐゝむ故にしかいへり。又乳をたれて子にのましめて養ふ故ともいへり。しかるに、後世には、たらちねを母の事とし、たらちをを父の事とす。かく分ちいひて父母の事とす。されど、父が乳をたらはする事なければ、誤なる事は論ずる迄にもあらねど、此誤も中世よりの事とおもはる。そは元輔集に、
    たらちをの帰る程をもしらずしていかですてゝしかりのかひこそ
又壬二集に、
    浮世にて身はみなし子となりはてぬわれ迷すな法のたらちを
かく見ゆ。俊頼口伝にも、たらちねは母、たらちをは父と見え、いにしへよりたらちねは母の事也といふより。其言葉の心をも不暁、たらちをといふ名目さへ、中世よりいできし也。(「天野政徳随筆」)

 ところで武士の場合には成長後、幼名から名を変えるが、女性の場合にも一般的だったのであろうか。それとも珍しいケースなのであろうか。「誹風柳多留拾遺」二篇には

   初かねに乞食のくれた名をかへる

とあるが、これは特別なケースであろう。子供の無事な成長を願っての呪いの一つに乞食に赤子の名を付けて貰う方法があったようである。子供の死亡率の高かった江戸時代には子が無事に生い立つよういろいろな呪いがあった。『梅園日記』(弘化二年(1845)刊)には
今子あまたまうけても、育ち難きに、男子をば、女の容(かたち)に作りて女の名をつけ、女子をば亦容をも名をも、男になして育つる者あり。(中略)
又子のそだゝぬもの、赤子を捨て、他人に拾はせ、やがてそれを乞うけて育るあり。

と書かれている。後者類似の例は「四十二の二つ子」で紹介した。
  

ちなみに、「初かね」は初めてつけるお歯黒のことで、お歯黒は結婚した時、江戸では結婚しなくても十八、九になるとつけたという。

 またお清さんは、米のことを「しらげ」といい、ネギのことを「ひともじ草」と呼んでいる。「しらげ」は「精げ米(しらげよね)」の略で白米のことである。ネギの呼び名について『物類称呼』(安永四年(1775)自序)には
にら○上総にて○ふたもじと云、是は葱をひともじと呼故ににらをふたもじと云
ねぎ○関西にて〇ねぶかと云、近江にてOひともじと云 ひともじは通称なれと共常に用ゆる所をさしていふ
関東にて○ねぎといふ ねぶか とは根ぶかく土に入こゝろ 胡葱(あさつき)は浅き葱(き)の意 根深に対したるの名なるべし つ は助字なり 和名 き といふ故に一ト文字と云 分葱(わけぎ)はわかちとる義 刈葱(かりき)は刈とる義とぞ

とある。

『見た京物語』(明和三年(1766)~五年の京の見聞)には江戸とは違う京での呼び名として次のものがあげられている。
昆布=みづから(水辛) 鰹節=ふし 茄子=なぎそう 生姜=はじかみ まぐろ=はつのみ ねぎ=ひともじ。

 宮中の女官は特殊な言葉を使っており、そこから市中へ広がったものもある。
今の女ばらの飯をおめし、汁をおつけといひ、鯛をあかまな、鱈をゆきといふ。このたぐひ甚おほし。蜑人藻屑に、内裡仙洞には、一切の食物に異名をつけてめさるゝ事なり。一向存知せざる者は、当座に迷惑すべきものなり。飯をば供御、酒は九献。餅はかちん、味噌はむし、塩はしろもの、豆腐はかべ、索麺はほそもの、松蕈はまつ、鯉はこもじ、鮒はふもじ、つぐみはつもじ、土筆(ノクノクシ)はつく、蕨はわら、葱(ヒトモジ)はうつぼ、かくのごとく異名をつけてめさるゝ。ちかき比は将軍家にも、女房達異名を申さるとしるせり。(『榊巷談苑』)
「女房詞」で広く使われているものに「おなか(腹)」「おでん(田楽)」「おしめり(雨)」「むらさき(醤油)」などがあるという(岩淵悦太郎『語源散策』)。
 ちなみに餅を「かちん」と呼ぶことについてはいろいろいわれている。
   ○舂餅(かちん)
海人藻芥(あまのもくづ)に、内裏仙洞には一切の食物に異名を付で被レ召事也、云々餅(もちひ)はカチンとあり、又尺素往来に、亥児(いのこの)舂餅(かちん)者十月之神楽など見えたり。餅をかちんといふことに数(あまた)説ありて、梅村載筆には、内裡女房の詞に餅をかちんといふことは、かちんの帽子かぶりたる女房の持来れる故也、また日次(ひなみ)紀事には、節分日、良賤詣五条天神社云々、買小(せう)団餅(だんべい)而帰家、此餅所供社傍勝軍地蔵也、故謂勝餅(かちのもち)、また俗説に、伊予守実綱が能因法師に雨ごひの歌よませたる時、もちひを贈りしよりもちひを歌賃といふ也といへる、みなとるにもたらぬ事ども也。東雅にカチヒとは擣飯(かちいひ)也と注せり、此説に従ふべし。(以下略)(『瓦礫雑考』文化十四年(1817)自序)

 女房詞のひとつに「もじ詞」がある。鯉はこもじ、鮒はふもじ、つぐみはつもじ、同様に其方はそもじ、御目見えはお目もじ、髪はかもじ、湯巻はゆもじ、杓子はしゃもじといった具合である。
 これと似たものに人の名前を何印(じるし)と頭文字に「印」をつけて呼ぶこともあった。ただしこれは遊女が使った言葉である。
凡て女郎の文の文体は皆同じ格にて、普通の婦人の文の文章とは聊(いさゝか)異なり、客の名も、御かた様御もと様、又は名の頭字或は俳名などかき、我名も名の一字或は御ぞんしより身よりなどとかく事通例なり。然るに近世客の名の頭字をとりて、小兵衛なれば小印様、彦兵衛は彦印様とかき、我名も染山なれば染印、瀬川なれば瀬印とかく女郎あり。是商人の売物を入る箪笥の抽匣(ひきだし)に、何印角印と張札するより、自然と朋輩の名も小兵衛なれば、小印と呼ならはして常となせり。是を女郎晒落なる事とおもひ、文にも詞にも何印様と呼は、私窠子(じごく)の類は論ずるに足らす、名(なだ)たる艶郷(いろざと)の遊君には甚雅(しとやか)ならす、意あれや。(『麓の色』明和五年(1768)刊)

八代目三笑亭可楽師匠の「文違い」では芳次郎からお杉に宛てた文に「お杉様参る」「芳印(じるし)より」とある。遊女からそこに通う客にも広がったのであろう。

ちなみに『麓の色』のなかにある「私窠子(じごく)」について少し注記すると
 地獄 坊間の隠売女にて、陽は売女にあらず、密に売色する者を云ふ。昔より禁止なれども、天保以来、特に厳禁なり。しかれども往々これある容子なり。
 地獄、京坂にて白湯文字と云ひ、尾〔張〕名古屋にて百花と云ひ、もかと訓ず。彦根にて麁物(そぶつ)と云ふ。皆密売女なり。
 江戸地獄、上品は金一分、下品は金二朱ばかりの由なり。自宅あるひは中宿ありて売色する由なり。(『守貞謾稿』巻之二十二)
 
(自宅に客を迎えているため)酒も飲ともさわく事ならす、遊び候へ共三味線引事ならず、ひそひそ参り、こそこそ遊ひ申候故に、誰いふとなく、しめころししめころしと申候が、此類所々にふえ申候てくらやみの色事故にぢごくのたのしみと申候が、いつとなく地獄の名所出来(以下略)(初代中村仲蔵『月雪花寐物語』)
隠売女の事は元来制禁なりといへ共、いつとなく江戸中所々数百ヶ所に出来て、悉くはかぞへ尽しがたし。是等の遊所ある所を岡場所と云。うき川竹のながれ同じからぬゆへとかや。牛込の内にも赤城明神、市谷八幡、愛敬いなりなどは、とし久敷売女有て、江戸にては勿論、諸国までもしる所なり。其外の宮寺門前境内に売女なきは稀なり。ころび芸者といふあり。料理茶屋貸座敷いづかたへも呼寄て、酒宴の相手とす。後には琴三味せんの調子も知らぬ芸者あり。また地獄といふあり。そのはじめ情を商ふものならぬを地者といふによりて、其地者を極密内々にて呼しゆへ、この名起れり。(『梅翁随筆』)

            落語の中の言葉 一覧へ

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック