落語の中の言葉114「吉原大門」

       八代目 桂 文楽「明烏」より

 お稲荷様へのお籠もりだと騙されて遊女屋へ連れてこられた若旦那が帰ると言い張った時、源兵衛と多助は次のように云ってさらに騙す。
「知らなかったかい、あすこの門のところへ髭のはえたこわいおじさんが五人ぐらい立っていたの。三人がどこの見世へあがってるって、みんなむこうの手帳へぴたりととまってるんだ。今時分一人でひょこひょこ出てごらんなさい、あれはたしか三人であがったやつなんだけれども、あいつがここで一人帰るからは、なんか胡散くせえことがあるなッてんで、あの大門で留めとくッてえのがこの吉原の規則だ。なア、おい」「そうさアー」

 大門の入口には番所と会所があって門の出入りを見張っていた。外から見て門の左側に番所が、門を入った右側に会所があった。
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左は歌川豊春「江戸名所新吉原之図」(安永頃1772ー81)、右は三代歌川豊国 版下絵(出版されなかった)(安政頃1854ー60)

吉原は何度も焼けているので時代によって大門も同じではないであろう。
左は大門を外から見た図で、左側の潜りのところが面番所で駕籠やが居る。右は大門内の図で右手前に少し見えているのが面番所で、向こう側の高張り提灯のあるのが会所である。夜明け前で大門はまだ閉ざされていて潜りから出入りしている。
 番所と会所について『江戸町方の制度』には次のように書かれている。
面番所について
堅固なる両扉を設けたる腕木門の渋墨くろぐろと金具もいかめしく黎明これを開きて引ケ四ツ(夜十時)これを銷し、側らに設けたる潜りによりてのみ夜中通行を自由ならしめたり。さてまた大門左腋に門番所を設けて通行を監せしがこの門番所は大門内外を見渡すことを得るため表面を格子に作り、門内は張番所の如くになし、この内には門番のみならず町奉行隠密廻りと称ふる与力同心、昼夜二人宛交替にて常に出張し居り、幾多の岡引(同心の手下也)をして張番せしめたり。この門番所はかねて隠密掛の出張所なりければ、ここをば特に面番所と称したりとなり。(中略)
 右隠密掛りの外町奉行附定廻り同心二人宛廓内を巡視することありたれども、こは唯だ表面上の観察に止まりたることにて、実際の警察は前記隠密廻りの面番所に在りしことゝ知らる。されば面番所の与力同心及び岡引の類はその威、廓中を震はしめたるものにして毎日三度の食事には廓内の町費もて立派なる会席料理の饗応を受け、紋日の五節句などには必らず一人千疋程の目録を廓内より贈られ、勤番交替のときは山谷より八丁堀まで船にて送られたりとぞ。
 面番所の役人は廓内に威福を弄する代りにまた廓内のためにも謀りたること多し。中にも妓楼営業時間のことは面番所にて取締をなし夜四ッ(今の十時)と九ツ(今の十二時)との両回に柝を撃ち、その四ッの撃柝(げきたく)をもて娼妓の店張りを終るものとする制規なりしが、実際正当の四ッ時にて店張りを罷(や)むるは営業上廓中の不利なればとて、ここに廓内の妓楼等はかの面番所の与力等と協議をやしたりけん、面番所は撃柝の猶予をなし縦令ひ金竜山の鐘は四ッを報ずるもなほ廓内に柝を撃たず、九ッの鐘を聞て始めて四ッの柝を撃ち廻り相踵(あいつい)でまた正九ッの柝を撃ち廻るを常とせり。而して前者を引け四ッと称し、後者を鐘四ッと称して区別したるも可笑しからずや。
   上記引用文のはじめの部分に「引ケ四ツ(夜十時)」とあるが、これは間違いである。誤植かどうかは分からない。同文の終わり近くにあるように、引ケ四ツは時の鐘の九ツすなはち午前0時である。

四郎兵衛会所について
(前略)(四人の)名主は各二人もしくは三人の書役を属使し、大門内右側の会所に出勤するを常とせり。尤も名主のうちにも外出、居残、出役待遇、明きの四課に分ち、四人にて順次輪番にこれを勤めたりしが、この「外出」といふは町奉行所に出張するを専務とし「居残」は会所に詰め「出役待遇」は隠密掛などの接待を専務とし而して「明き」は予備として閑散に居るものなり。さて名主の事務は町奉行へ対する願伺云へばさら也、廓中の人別帳を管理し、遊女の新たに入籍するものあればその身元など糺してこれを登録、廓中に故障公事等あれば百方勧解して事を公にせざるを勉め、あるひは桜の植付、仁和賀の催しには必らず奥書して願ひ出づるなどのことを取扱ひしが、殊に遊客の掛り合ひ、情死の取片付などにて町奉行所に出廷すること多く、殆んど寧日とてはなかりしとなり。(以下略)
 会所の任務にはこの他に遊女の逃亡を防ぐことがあった。男性は大門を自由に出入りできたが、女性は切手が必要であったという。
 遊女はたとえ、親の死に際でも、七ッ半(午後五時)以後は廓外に出ることを許されなかった。
   籠の鳥どうしんしょうと鳴いてゐる
といわれたゆえんである。出られる場合でも女手形を持っていることが必要であった。
 婦女子が大門内に入るのにも通り切手が必要であった。これは、会所四郎兵衛の割印をおした半紙型三つ切の紙片を、大の月は三十枚、小の月は二十九枚ずつ五十間茶屋に渡しておき、茶屋は、女子の依頼によって自分の屋号名前を書いた通り切手を発行したのである。発行人の肩書に「切手見世」とあるが、これは五十間茶屋のことで、切手を出すことから、これをまた「切手茶屋」とも称した。(石井良助『吉原』)

大門番人之儀、一町より一人宛、揚屋町共六人宛、外に定使番人壱人、都合七人にて、弐人宛昼夜代る代る相勤候得共、人数少にて不取締に付、以来五町より壱人づゝ相増、都合拾弐人に致、四人づゝ代る代る昼夜為ニ相勤可申事、
 但、右門番人、酒食等猥之儀無之様為仕、若不相用者も有之候はゞ、早々取替候様可致事、(寛政七年定書)

少し気になる所がある。『江戸町方の制度』に「町奉行隠密廻りと称ふる与力同心、昼夜二人宛交替にて常に出張し居り」とある点である。
町奉行所の与力同心は南北それぞれ与力二十五騎同心百二十人といわれる。それぞれ役が分かれていた。たとえば天保十一年四月の北町奉行所では、吟味方与力九人同心十二人、赦帳撰要方与力三人同心九人等々である。市中を巡邏する廻り方は同心だけの役で定町廻り五人、臨時廻り六人、隠密廻り二人であった(南和男『江戸の社会構造』による)。廻り方に与力はおらず、かつ隠密廻りは南北両奉行所合わせて四人である。その職務は広範囲にわたっており吉原の取締りだけではない。その四人が「昼夜二人宛交替にて常に出張」していたとは思えない。
ただ、吉原の取締りは隠密廻りが主であったのは確からしい。隠密廻りと定町廻りの職務のうち吉原町に関するものをあげると
隠密廻り同心(寛政十年(1798)の書出し)
 新吉原町燈籠俄花植等之節、其外平日も折々見廻り候事

定町廻り同心(寛政八年(1796)南町奉行坂部能登守申渡)
 新吉原町燈籠幷俄初り候節、届申来次第見廻り御制禁之品等有之節、書付を以可申立候
  但平日捕者其外風聞等承候節、時宜ニ寄遊女屋共方江罷越候而も不苦候

ちなみに三廻りについては次のようにいわれる。
定町廻りというのは、江戸中を毎日大体きまった順で巡廻するのでそう呼ぶのですが、略して定廻りともいいます。南北両奉行所とも同心六人をもって組織されています。老練な同心を任ずるのであって、定町廻りとなれば、同心としては一流です。
(中略)
臨時廻りは、定廻りの手が廻らぬ所を補うためにできたのですが、定廻りのように、大体きまったた道順を廻るのではなくて、臨時に各方面に出掛けるのです。定廻りの補助的なものですが、役としては定廻りよりも難かしく、定廻りを勤め上げた者がなる例で、その格は定廻りよりむしろ高かったそうです。やはり南北両奉行所いずれも同心六名ずつでした。(石井良助『新編江戸時代漫筆 上』)

隠密廻りの設置時期は詳かでないが、三廻りの筆頭とされ、江戸で特別に権威あるものとみなされていた。「隠密廻りの之儀ハ、組内は不及申、世上一躰之風聞等探索仕、奉行之耳目の助ニ仕候職掌」であり、「隠密廻りは定式臨時廻り之筆頭ニ罷在、市中ニ而格別威権有之」ものであった。(南和男『江戸の社会構造』)

 先にあげた大門内の画について触れたいこともあるが、長くなるので次回にまわすことにして、最後に面番所の取締の様子を書いたものを紹介する。
是は新吉原町の生れにして、子供の時より江戸向の商人方へ年季奉公に出たるものあり、今は二三ばんの手代とも成たり、然るに此せつ親の病気に付、主人に願ひて、一夜泊りの介抱に吉原町に来りける、或時又通夜介抱してより早朝主人方へ帰りのせつ、大門際にて町方御役人の御目に障りし所有て、待との詞に手代驚き平伏す、時に何もの也と身分の尋ねあり、私儀は何町何右衛門の手代にて、吉はら出生の者にて、親病気の介抱に昨夜まいり通夜仕り、只今主人方へ帰り候所にてム(御座)り升と申上る、御役申されけるは、成程申条に相違は有まじ、免し遣す也と申されけるに付、有難しと嬉しくて土手まで歩みけるが、考へ見るに我御手にあふて、外より見られ外聞悪しき仕合せ、いか成故なるや、身形にはで成事も致さず、見苦しき筈もなし、され共御目障りの所あればこそ、諸人の中にて我のみ御糺に預る事恥かし、是は以後の為なれば、御役人に聞置にしかじと、又立帰りて大門の際に至り、彼の御役人の前に手をつかへて申けるは、私事は先刻御糺しに預りし手代にムり升、何卒御願ひ申上度儀は、私身形に置まして御目障の処、仰知らされ下されたく、此以後のこゝろ得ニ仕り、相あらため申度と願ひければ、役人笑ひて申されけるは、其方の身形においては、目ざわりはなし、されども髪月代をいたせしは、いつなるぞと尋ねらる。手代申様、咋夕方主人方にて結申、直に参り候といふ、夫見やれ、いまだ早朝の事にて廓の床ははじまらず、されば其方事、咋夜遊女屋に泊りたると申時は吟味に及ぶ、結立の髪にまくらのあたりたる跡なし、依て往来に居たるものか、何かたにか忍び居しか、寐ざる所不審なるゆへ糺し見るに、通夜介抱せしと申なれば、夫にて枕の跡なき事も都合せし故ゆるし遣したる、外に子細なしと申されける、(後略)(『江戸愚俗徒然噺』天保八年)


 *追補
 遊女が大門を出るのに必要な切手について『江戸町方の制度』には次のようにある。
画像 入籍後は親元病気のときといへども決して帰省を許すことなし。左れども江戸市内殊に浅草など近辺に住める親が重病に罹りて九死一生と聞く時は、楼主もさすが見るに忍びず遊女を重病なりといひ立て左の鑑札を渡し大門を出で帰省せしむることあり。
一、此方支配長次郎店某抱へ遊女大和路医師方へ主人只連れ罷出
   候由依之大門無相違可出候以上
                       名 主 何 誰
  大門四郎兵衛殿
 右病気遊女帰り切手昼七ッ半時限

 証文には必らず親元の印を要し、証人には親元の親属を以てし、且つ親元所在の家主これに連判するを要したり。されど女衒に於て予ねて買ひ入れ置ける養女の類には真の親元を問はずして女衒自ら親元となり女衒の親戚を証人とし女衒の家主をして加判せしめたりと云ふ。

 婦女子が大門を入るのに必要な切手については『萍花漫筆』巻之上にあるのでこれも紹介する。
昔吉原に五十枚の通り切手といふは、大門口より外なる五十軒の引手茶屋の株切手なり。今の細見に、竜泉寺町茶屋の部、山谷堀舟宿の部、田町編笠茶屋の部と、科門を分てしるしあれども、後々に定りたる株にて、廓此吉原に草を分たる時は、引手の茶屋株五十軒に限れり。是を外茶屋とも、切手見世ともいへり。慶安三年庚寅の歳、新吉原大門口の案内茶屋五十軒の切手見世のうち、菊屋半兵衛が女中通り切手壱枚写左の如し。
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五十軒見世の茶屋は、皆他より出せるさしかけ茶屋なり。今の土手の茶見世と同じものなり。其頃の土手には茶見世は多くなし。番屋にて茶見世をいだしたるゆへに、唄今に残れり。
     「よひにたゝんで夜中に起るサンサ
      茶見世のへ土手の番する身ぞつらや
     「しんきしのだけいよすのすたれサンサ
      茶見世のへかけて思ひせうよりも
五十軒の通切手は、一ヶ月一軒に付大の月は三十枚、小の月は廿九枚ヅヽ、大門番所四郎兵衛より、割印を押たる紙を茶屋へわたし置たる事、安永年間の吉原記録にのせたり。

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