落語の中の言葉112「太郎稲荷」・続き
大名や旗本が屋敷内に祀る社等へ参詣を許している例は、『東都歳時記』にあげられているだけでも次の通り。
毎月寅の日 浜町秋元家・毘沙門
毎月午の日 浅草反圃太郎稲荷(午の日ならび三ん日)
赤坂大岡侯下屋敷・豊川稲荷(午の日ならびに二十二日)
毎月月頭の午の日 溜池上松平大和侯御やしき、川越のうつし箭弓稲荷
毎月三日 愛宕下加藤家・朏〔みかづき〕不動。
毎月五日 赤羽有馬家鎮守水天宮
毎月七日 霊岸島越前家中屋敷・湯尾峠孫嫡子〔まごじやくし〕社
(七日ならび十五日)
毎月十日 虎御門外京極家・金比羅
下谷生駒家・金比羅
小石川御門内高松家(九日・十日)・金比羅
白金高松家・金比羅
麻布六本木京極家下屋敷・金比羅
毎月十三日 箱崎紀州家蔵やしき・淡島
毎月十五日 西ノ久保館林侯・竜神
毎月十七日 葵坂上鍋島家御やしき・八天宮(正・五・九月は祭り)
毎月十八日 芝浦清水御下やかた・観音(文政年間海中出現黄金仏)
毎月二十二日 浅草御蔵前池田家鎮守瑜伽山権現(二十二・二十三日)
毎月二十三日 愛宕下池田家瑜伽山権現(二十三・二十四日)
三月十八日 深川佃町の先亀井家下屋敷・人麿
このうちいくつか簡単にふれておこう。


有馬家水天宮
人丸社
明石では火防ばかりか「人生まる」から安産の神としている。しかしこれらを「ばかばかしい」と笑うことはできない。「鰯の頭も信心から」と云し、現代のわれわれとても日本史上最強の怨霊である天満大自在天神(菅原道真の霊)を学問の神様として崇めているのであるから。
この他、浅草の富士浅間宮(六郷伊賀守)は屋敷から独立させたようである。赤坂御門外の豊川稲荷(大岡家)もそうであろうか。
元治二年三月十七日から五月廿四日
迄、助郷役免除を確認して貰うため
出府した江州堅田村の庄屋錦織五兵
衛の日記には次のように書かれてい
る。
なおこの地図は嘉永七年(1854)の近江屋板切絵図で、ここにある「大岡越前守」は南町奉行を勤めた忠相ではない。何代か後である。忠相は百年ほど前に没している。
五兵衛は水天宮には参詣していないが江戸土産として御守りを購入している。
四月五日
「一 今日五日赤羽根有馬様御屋鋪ニ水天宮御守り御売出シニ付旅宿方江相頼ミ置、右御符守り 二百枚斗り相調候様申付候事。 「此代金壱分二朱也」
但今一日ノ売下ケ代料金百両斗ト云、諸役人分上下ニテ列座ト云。」
二百枚で金壱分二朱というのは旅宿方への謝礼がふくまれているのであろう。一枚十二文だったようである。別の所に
「一 水天宮御守弐拾枚通衣川連中江相渡ス。但一通代十二銅ツヽ。」
とある。
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毎月寅の日 浜町秋元家・毘沙門
毎月午の日 浅草反圃太郎稲荷(午の日ならび三ん日)
赤坂大岡侯下屋敷・豊川稲荷(午の日ならびに二十二日)
毎月月頭の午の日 溜池上松平大和侯御やしき、川越のうつし箭弓稲荷
毎月三日 愛宕下加藤家・朏〔みかづき〕不動。
毎月五日 赤羽有馬家鎮守水天宮
毎月七日 霊岸島越前家中屋敷・湯尾峠孫嫡子〔まごじやくし〕社
(七日ならび十五日)
毎月十日 虎御門外京極家・金比羅
下谷生駒家・金比羅
小石川御門内高松家(九日・十日)・金比羅
白金高松家・金比羅
麻布六本木京極家下屋敷・金比羅
毎月十三日 箱崎紀州家蔵やしき・淡島
毎月十五日 西ノ久保館林侯・竜神
毎月十七日 葵坂上鍋島家御やしき・八天宮(正・五・九月は祭り)
毎月十八日 芝浦清水御下やかた・観音(文政年間海中出現黄金仏)
毎月二十二日 浅草御蔵前池田家鎮守瑜伽山権現(二十二・二十三日)
毎月二十三日 愛宕下池田家瑜伽山権現(二十三・二十四日)
三月十八日 深川佃町の先亀井家下屋敷・人麿
このうちいくつか簡単にふれておこう。
生駒家金毘羅勧請の由来
一、東武下谷御徒士町生駒斧太郎八千石は、交代寄合表御礼衆と号し拾七家の同列にして、今在処出羽国由利郡矢島を領すといへども、むかしおのおの高禄の大家のよし、就中生駒の家は、人皇百八代後陽成帝の御宇天正年間までは、讃岐国香川郡高松の城主にて、生駒雅楽頭一政、おなじく讃岐守俊政、おなじく壱岐守高俊と相続し居城せしが、高俊の代天正十八庚寅の年高松を転じて同国那珂郡丸亀の城主に移され、これより五十弐ヶ年の間丸亀の城主たりしが、生駒雅楽頭政持の代、寛永十八辛の巳年故ありて、讃州丸亀を転じて今の羽州由利郡矢島を拝領し移れり、さればむかし讃岐に有し時すら、象頭山の月参もこゝろに任せず、況や日参をや、是によりて国屋敷の内に勧請し崇敬せしより、今も猶代々下谷上やしきに金毘羅神を勧請し、例月十日十日に裏門をひらきもろ人の参詣を許す事殆百八十五年に及ぶ、これむかし高松丸亀の二ヶ所に居城せし遺風にして、生駒の金比羅といえる是也、彼多宮坊太郎親子は、此生駒家の臣にて、代々当家に仕え家相続す、むかし坊太郎金比羅の利生を蒙り、実父源八が敵を打しが、年経て後病死し、東叡山内勧成院へ葬り、美名と共に坊太郎が墳墓朽ざるが故に、戯作者の徒浄瑠璃につゞり標題を花の上野誉れの碑と号けしは宣なる哉、これ金毘羅権現の加護による処也、されば生駒家むかし叡処の守護神といひ、代々彼是の霊験著明きがゆへに、猶も件の神社を勧請し崇敬するなるべし、居やしきに金毘羅神を崇め縁日ことに、諸人の参詣を許す権輿にして甚古し。
一、芝新し橋外京極能登守(五万千五百余石)上屋敷に、金毘羅神を勧請さる所以は、刑部太輔高和の代、万治元戊戌の年播州楫西都龍野を転じ、讃州那珂郡丸亀へ国替しては、国に名たゝる霊神なれば信仰せしに、若狭守高或〔たかもち〕の代かとよ、舎弟壹岐守高道を本家の家替にせんと隠謀する者ありて、既に内乱に及ばんとする前夜、件の神馬高或の枕上に影現し遽〔あへたま〕しき霊夢ありしかば、佞姦の悪徒を一々糺明し滞りなく家収りて後、いよいよ神験の著明きを感仰し、頓で一社を造立して金毘羅神を勧請せしより、人もその威徳を聞つゝ常々門外より遙拝するもの若干なれば、例月の十日十日は西往来の裏門をひら参詣のもろ人を許し入、下向をば北往還の裏門より繰出し、朝は未明より日没にいたるまで群集する一件は、三編の初巻四拾弐の條下にいふがごとし、凡享保の末より文政八乙の酉年にいたりて最早百有余年に向とす、されど生駒家の金毘羅に後るゝ事四昔に過たり、此因によりて一族麻布六本木京極壹岐守(壱萬石)麺町弐丁目京極甲斐守(壱万五千石)木びき町三丁目京極備後守(壱万千余石)以上四家とも、象頭山金毘羅権現を屋敷内へ勧請し、おのおの十日十日は参詣のもろ人を許す、しかるに此四五ヶ年以来小石川見付内松平讃岐守(拾弐万石)の上やしきにも、件の神社を経営して毎月十日十日は、西横町突当りの小門をひらき、参詣の人々を許し入ぬ、両側には幟幢の類ひを建つらね、社頭の荘厳花美を尽せり、(釈敬順『遊歴雑記』五編巻之中 文政九年(1826))


有馬家水天宮
芝三田有馬様の御屋敷内に水天宮尼大明神と申御社あり、去年〔割注〕文政二年」寅九月五日裡門を開かれて、毎月五日に諸人の参詣をゆるされ、御札を下さる、此こと当卯春の頃よりひろまりて毎月五日の群集、実に赤羽橋より御やしき迄の間、爪もたゝざる参詣也、明六ッ時御門をひらくを待て参詣す、去年迄は御札一人にて何程もいたゝきけり、此頃は一人一枚限にてよはきものは朝はやく行ても頂きもせずして帰る者多し、参詣の人々懐中物或は腰のものなどは水茶屋へ預け置て、肌をぬき尻からげあかはたか同前になりて人数をわけ入て漸く御札をいたゞく、押合事おそろしく、五月五日抔わけておびたゞしく怪我人などありし故、其後札場二三ヶ所になりたれば、ゆるやかにいただく様になりたり、此御札の奇特は火防安産水難或はものゝつかへて出かぬる抔、或は咽にとげなどの立たるに一字をきりぬき水にて呑ば立処にぬけ出る事おそろしきまで利益すみやかなり、
此水天宮尼大明神と申御神は安徳天皇二位尼を祀れるよし、平家ほろびし後、此御なきから久留米の浦へ流れより玉ひしを、其所へ上ヶ奉りて祭りなし、後有馬侯の御領分になりたるよし、江戸御屋敷へ宮居立られしは近比の事なるよし、〔頭注〕按に諸書に文化の末に祀れるよし見ゆ」
無名氏の筆記中にあるを抄出す、(著者不詳『江戸拾葉』)
人丸社
火事は江戸の花だともいうが、八百八町の者どもが困り切ったのも、この名物である。秋葉大権現が所々に祀られたのも、鎮火の御利生を渇望したのにほかならぬ。いつも話しては笑うが、柿本人丸を火防神〔ひぶせのかみ〕というのは、最も下等な地口から起っている。御影の上に、「わが宿のかきのもとまで焼けてこば一声たのめそこでひとまる」という歌のようなものが書いてある。それをありがたそうに頂いてもいけば、お賽銭を上げて拝みもする。垣の下まで焼けて来ても、火止るは、いかにも人を喰っている。ばかにするにもほどがある。それを怒るどころか、信心するのだから、江戸ッ子も驚き入った人物揃いである。柿本人麻呂は人麿とも人丸とも呼ぶ。三田村鳶魚氏の「江戸ッ子も驚き入った人物揃いである」は江戸ッ子だけのように聞こえるが、そうではない。
石見津和野の城主四万三千石亀井能登守が、文化年中に帰国の途次、人丸の不思議の霊夢を得て危難を免れた、と御利益を吹聴し、深川佃町の浜屋敷にある人丸社の参詣を許し、毎月三日と十八日とには庶民に開放した。人丸は石見の戸田郷で生れ、高津浦の鴨島で没したとやら、従来亀井家で小社を建てて祭っていたのを、近く霊験を獲たからといって囃し立てたのである。京極の金毘羅、有馬の水天宮、貧乏大名が苦し紛れに賽銭稼ぎをした例は、遊女の能書よりも数が多かろう。(三田村鳶魚『江戸の旧跡江戸の災害』)
柿本人麿の社、播磨ノ明石大倉谷にあり。安産をまもり、火災を避け、祈るにしたがひしるしあり。蓋、安産は人生〔ひとうまる〕の義に取り、禦火は火止〔ひとまる〕の義に取るなり。与和歌之伝以人麻呂、赤人、衣通姫配于日道三天、以為日留之義。共和語之妙。神人之徳、不可誣耳。(谷川士清『鋸屑譚』延享五年(1748))
明石では火防ばかりか「人生まる」から安産の神としている。しかしこれらを「ばかばかしい」と笑うことはできない。「鰯の頭も信心から」と云し、現代のわれわれとても日本史上最強の怨霊である天満大自在天神(菅原道真の霊)を学問の神様として崇めているのであるから。
この他、浅草の富士浅間宮(六郷伊賀守)は屋敷から独立させたようである。赤坂御門外の豊川稲荷(大岡家)もそうであろうか。

迄、助郷役免除を確認して貰うため
出府した江州堅田村の庄屋錦織五兵
衛の日記には次のように書かれてい
る。
四月十日旅宿川文殿五兵衛同々元治二年四月十日が午の日だったのかどうかわからないが、金比羅は「京極侯御屋鋪内」というのに対して豊川稲荷は単に「豊川稲荷」とだけいっている。自由に参詣できたようである。
ニテ遊暦、午時後ヨリ赤坂御門
外ニ至リ豊川稲荷社ヘ詣ス美ナ
リ。京極侯御屋鋪内金比羅大権
現江参詣夥シキ人込ナリ。幟四
本斗建ル。
(錦織五兵衛『東武日記』)
なおこの地図は嘉永七年(1854)の近江屋板切絵図で、ここにある「大岡越前守」は南町奉行を勤めた忠相ではない。何代か後である。忠相は百年ほど前に没している。
五兵衛は水天宮には参詣していないが江戸土産として御守りを購入している。
四月五日
「一 今日五日赤羽根有馬様御屋鋪ニ水天宮御守り御売出シニ付旅宿方江相頼ミ置、右御符守り 二百枚斗り相調候様申付候事。 「此代金壱分二朱也」
但今一日ノ売下ケ代料金百両斗ト云、諸役人分上下ニテ列座ト云。」
二百枚で金壱分二朱というのは旅宿方への謝礼がふくまれているのであろう。一枚十二文だったようである。別の所に
「一 水天宮御守弐拾枚通衣川連中江相渡ス。但一通代十二銅ツヽ。」
とある。
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