落語の中の言葉110「お窓下」

          三代目古今亭志ん朝「井戸の茶碗」より

 この咄のなかで細川家の若侍が表長屋の二階の窓から下を通る屑屋清兵衛を呼び止め、笊に紐を付けて下ろして仏像を買うところがある。また「石返し」(五代目柳家小さん)では同様に二階の窓から鍋を下ろし蕎麦を買うが、こちらは銭を払わず騙し取る。番町と云うから旗本屋敷であろうか。大名屋敷などでは二階の窓からものを買うことも多かったようである。
画像『絵本江戸風俗往来』は次のように述べて右の図をあげている。
屋敷窓下の買物 武家大名屋敷は大邸に至りでは数丁四方、小邸にして半丁四方なれば、窓下に来たれる商人を呼び止め、通用門より出で行きて買物せんに、その不便大方ならず。殊には雨雪の折はなおさらなり。されば屋敷窓下を荷ない売る商人は、兼ねて継竿を用意して、大きなる土溝〔どぶ〕、または二階窓へ届くよう持ちあるく。その竿先へ笊を結い付けて品物を渡し、銭を受け取る。しかるに他見随分見苦しき光景なれば、曲輪内邸宅にはこの事厳禁されたり。


参考のため大名屋敷表長屋の図を二つあげる。赤羽橋の有馬邸である。
左は『風俗画報』179号(林美一『時代風俗考証事典』より)
右は広重「江戸名所之内 芝赤羽根 水天宮」
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ついでに大名屋敷に関する話を一つ取り上げる。それは大名屋敷内に農民を置いて田畑を耕作させていたことである。屋敷内には池と築山を中心とした庭園を造るが、その他に各種の風景をつくる。その中に田舎の景色もあって、農家は大名屋敷のつきもののようになっていたという。勿論敷地が広大だったためでもある。水戸家の当時の小石川下屋敷にはこんな話がある。
水戸家も、今の小石川御門外は、下館本宅たるものなり、表門、裏門、今世のごとくなり、惣家中内外通路は、大半餌指町の方の裏門を用ひられしに、いつとなく、農人体のもの此門外に出ると見れば、また帰ると見え、農具の類或は雑具等手に持、または背に負ひなどして通るなり、或は農女と見えて、いなかびたる衣服にて往来するもあり、右の様子、番人どもとがむる事もせざりしは、凡彼屋敷拝領後、十六年に及べり、しかるにあるとき、十八九歳斗なる農女外へ出て、帰ると見えて、少々の雑具を手に持て、門内に入りて、いづくともなく往を、一人の足軽、数年此類の者往来不審に思ひ、その跡をつけて見しに、今の庭に造られたる方の山手へ、おりつくぐりつ、しげみの中をゆくをそのまゝに、とをくつけゆきければ、農家十八ばかりある小村へいたれり、これによつて、此足軽、希有の事に思ひ、一つの家に入りて、爰は何といふ村ぞ、此所、水戸殿拝領の屋敷内なるが、その事は今に知らざるか、といひければ、其農人答て云、我々どもは、むかしよりこの所に代々居住いたし候、いかさま、近年他村在所へ出候に、門抔〔など〕も出来候、左様にも候歟、外の事は不存候、 と申す、これによつて、足軽帰り候て、右の様子を上役人に申述ぶ、終に頼房卿耳に入候所、中納言殿、その分にいたしさし置候へ、とこれある故、そのまゝにて、頼房卿逝去後、その家督光圀卿代までも住居いたし候、然るに、明暦三年本館類焼の後、光圀卿此小石川の屋敷を上屋敷とせられて、庭前に山水を構へ、東海道の江戸より京都までの所々の風景を写し造られ候によりて、彼農人どもを巣鴨の下屋敷に移され、扶持を与へられ、その庭中の田舎様にせられたる所に田を作られ、その稲の植刈、あるひは麦などつくり候農体を、勤させられ候ひし事、今に至り、年々、作業、彼農人の男女にさせらるゝとなり、(柏崎具元『事蹟合考』延享三年(1746)起筆)
明暦の大火までは御三家の上屋敷は江戸城内の吹上にあった。大火後替え地を与えられて城内から出された。水戸家はそれまで下屋敷であった小石川の屋敷に続く餌指町に替え地を与えられ屋敷を拡張して上屋敷とした。小石川屋敷内にあった農家は意図して作ったものではないが、巣鴨の屋敷内へ移したのは田舎風の風景をつくるためである。なお光圀が造った庭園の一部は今も小石川後楽園として残っている。
 また内藤大和守頼以(信州伊那郡高遠、三万三千石)下屋敷には次のような話がある。
一、(文化十三年)十月中比、内藤大和守様内藤新宿下屋シキニ井上河内守様御出ナサレ、右御屋シキハ殊ノ外ニ広ク、八万坪ノ余有之由、其日ハ御馳走ニ御屋シキ内、小鳥御指廻ニテ、御庭ツヾキニテ、御供モ御連レナサレズ、只御壱人ニテ御歩行、御屋シキ内ニハ御家中モ余程有之、大分ハ畑ニテ田モコレアリ、百姓家躰モ余程有之由、右百姓家ニ御立寄、烟草ノ火ヲ無心被仰候所、火無之由ニテ火ヲ借申サズ候間、其隣家ニ御出ニテ火ヲ御無心ノ処、女房壱人居、火ヲ出候テ煙草召上リ、右女房ニ御ジヨウダン被仰テ御出ノ処エ、亭主コエタゴヲ荷カエリ、其躰ヲ見、タゴ荷ノテンビンボウニテ打ニ掛リ候間、其場ヲ御迯ナサレ候処、追カケ参テ既ニ御打申候躰故、無拠抜打ニ御切ナサレ候由、ウテヲ切ラレ候由、井上様夫〔それ〕ナリニ御茶屋ニ御帰ナサレ、直ニ御供揃ニテ御帰ナサレ候由、
一、十二月廿六日井上河内守様御奏者番役思召有之ニ付、御役御免御指扣被仰付候由、(著者不詳『文化秘筆』)
井上河内守正甫、六万石、文化十四年遠州浜松から奥州白河郡棚倉へ国替え

ついでながら、三田村鳶魚氏は次のように云う。「御奏者番と申しますと、それから寺社奉行になって、それから大坂城代・京都所司代などというお役を経て、老中になれる有望な官途であります。」それがこの事件のため「強淫大名というわけで、評判がパッと立った。二百六十余人もある大名が、三百年もある間に、百姓女に手をかけたというのは、この井上河内守一人である。前途有望な人ではありましたが、それがために、ついに国替えを命ぜられることになったのであります。」(『江戸の旧跡 江戸の災害』)

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