落語の中の言葉107「酒の切手」

          六代目三遊亭円生「文七元結」より

 咄のなかで文七の主人である近江屋は、文七の命を助けてくれた左官の長兵衛に金の出た祝いとして二升の酒の切手を贈っている。
 寛政(1789~1801)の末から天保(1830~44)始の頃の風俗の変化を記した『世のすがた』(著者不詳)によると、江戸時代の後半には今の商品券に相当する「切手」が使われていた。
うなぎの蒲焼は天明(1781~89)のはじめ上野山下仏店にて大和屋といへるもの初て売出す、共頃は飯を此方より持参せしと聞、近来はいつ方も飯をそへて売り、又茶碗もりなどといふもあり、又先へ価を遣し請取の書付を取、其切手を進物にする事あり、その商人も兼て請取書付を板行して代を書入て出す、其切手を進物に用ゆ、至極心入の仕方なれども、いかゞなる贈物なり、初は町家計り用ひしが、此程は武家にても用ゆる人もありと聞、物薄情厚といへるとはうらはらなり、此外餅屋などにても切手を出すありと聞けり、

江戸ではないが美濃国安八郡西条村(現岐阜県安八郡輪之内町)の庄屋が書き留めた日記等の文書のうち「入水見舞帳」(洪水被害に対して受けた見舞)の文政三年(1820)の記録によると
七三人もの人が見舞の品を届け、その内容は赤飯・酒・餅など一七種に及んでいる。ともに輪中に生きるものとして、その苦しみを十分理解できる人たちであった筈である。
(中略)
見舞品のほとんどは食料品である。内容を見ると、酒が二八人から合わせて三斗一升分贈られ、うち酒切手と称する現在のビール券のようなものが一斗九升分を占めている。(成松佐恵子『庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし』)

この例では酒の六割以上が切手であり、かなり一般的であったことが窺われる。
画像 江戸時代のものと思われる切手が『引札絵ビラ
風俗史』に載っているので紹介する。
右は「酒一升預」、左は「万青物干物百文」である。
万青物干物には「右御入用之品ニ引替差上可申候」
と書かれている。
酒以外にも様々な品に切手があったらしい。お食
事券もあった。
高級料理屋で有名だった「八百善」については以
下のような話がある。
文政(1818~30)の末頃、船橋勘左衛門といふ奥御祐筆組頭は、殊の外権威ありて、世にもてはやされしが、ある時、人より夜食の料にとて、八百善の料理切手一枚を送られし事あり、其後幾日をか隔て、勘左衛門は何用かありて、用人え申付、浅草辺へ遣したるが、帰途は夜に入る可ければ、是を持ち行き、支度(食事のこと)調へて帰るべし、と其切手を出して授けたれば、用人は大に喜びて、幸ひ同役も今日は閑なれば、同伴して参りたしと請ひ、許しを得て出行き、用向弁じて果てゝ、八百善へ立寄り、右切手を出して酒飯を命じ、種々佳肴珍味を、出すがまゝ両人にて十分に飽食して、最早帰るべく、と申たれば、帳場より、切手の品は猶追々出来候得共、数多の品なれば急には出し尽されず、然るに、お帰りとあれば、既に出来上りの分はお土産に仕り、其余は金子にてお返し可申哉、と申出たれば、何れなりとも宜敷頼む、と答へたれば、やがて、御膳籠一荷に食物一杯詰めたるを持越し、剰さへ金子十五両を添へて戻したれば、用人も呆れながら帰り、主人に其趣逐一話したりければ、勘左衛門も驚きて、夫れ程の手厚き品とは心得ざれば、其方へ遣したるが、右を贈りし人には、甚だ気の毒なり、と云れたりと、察する所、五十両余の切手なりしならん、とある人の語りき、
余が同僚に、曾谷士順といふ医官あり、長崎奉行高橋越前守が聟なり、其人の話に、ある日、舅の家に招かれて饗応になりしが、種々の肴も出し跡にて飯となり、其香の物のはりはり漬を喰たるに、余りに美味なる故、其製者を尋ねたれば、八百善の調理なる由語りたり、因てある日、五寸程の陶器の蓋物を持せて買に遣りたれば、代金三百疋なりし故、如何なる製法なりや、と問はせたれば、手前方のはりはりは、尾州の細根大根を撰み、一把の中より二本三本を採り、辛味を生ぜしめざる為め水に洗はず、最初より味淋酒にて洗ひ候ゆゑ、高価に至れり、と申したる由、八百善が需に応じて作る料理は、其価を顧みざる往々此類なりき、(喜多村香城『五月雨草紙』慶応四年成)

 三百疋とは三貫文のことである。

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