落語の中の言葉103「竹馬」

          五代目古今亭志ん生「駒長」より 

 長兵衛が女房お駒に云うことばに、損料屋の丈八はお前に首ったけだ。足駄はいて首ったけどころじゃない、竹馬はいて屋根へ上がってるというのがある。
 竹馬といえば現在では竹竿(プラスチックや金属製も)に足がかりをつけて乗って歩くものをさす。
竹馬について広辞苑には
①葉のついた竹の元の方に紐をかけ、これを馬になぞらえて、小児がまたがって遊ぶもの。また、竹竿の先に馬頭を模したものをつけたのもいい、春駒はこれの発達したもの。
②二本の竹竿に、それぞれ適当の高さに足がかりを造ってこれに乗り、両手で竿の上部を握って歩くもの。たかあし。
③竹馬古着屋の略(江戸時代、竹の四脚の籠または箱に古着を入れて、天秤棒でかつぎ歩いた行商人)
とある。①と②が子供の遊具である。
 今仮に①を春駒系、②を高足(たかあし)系と呼ぶことにする。東京生まれの私にとっては竹馬というと高足系のものであり、春駒系のものは見たことがない。高足は本来一本で、田楽法師と呼ばれる人々が使った。
 江戸の末期には江戸では高足系のものを竹馬と呼び、京坂では春駒系のものを竹馬と呼んでいたという。
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 今世、京坂には、長さ六寸ばかりの馬の首頭を煉物にてこれを造り、粉をもつてこれを塗り、首と竹の接目〔つぎめ〕には、紅絹をもつてこれを包む。
 児童これに乗るの体をなし、またぎ遊ぶなり。今、江戸にはこれなし
 今世、江戸にて竹馬と云ふもの、下図のごとくはなはだ異なるなり。七、八尺の竿に縄をもつて横木をくゝり付け、足かゝりとす。(『守貞謾稿』巻之二十八)


しかしこれより四、五十年前の文化十年(1813)頃は、江戸でも春駒系のものを竹馬と呼んでいた。そしてこの跨って遊ぶ春駒系の竹馬も古代は馬の頭はなく、枝葉のついた生竹であったという。
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御国の古代の竹馬は、唐山の竹馬とは異なり、葉のつきたる生竹の縄を結びて手綱とし、これにまたがりて走るを、竹馬の戯といふ。竹馬の友といへるは則是なり。左に摸し出せる古図を見るべし。今の世のごとく駒の頭の形につくりたる物にはあらず
〔袋草紙〕雑談の条に云、壬生忠見〔ただみ〕幼童之時、内裏より有召無乗物とて、難参之由を申。然ば竹馬に乗りて可参之由有御定。仍〔よりて〕進〔たてまつる〕此歌。
 竹馬はふしがちにしていとよわし今夕かげにのりてまゐらん
〔夫木集〕 竹馬を杖にも今はたのむかなわらは遊びをおもひいでつゝ   西 行
〔新撰六帖〕五 むかしをこふ 九条三位入道知家
竹馬におきふしなれしそのかみのよゝはふれども忘れやはする
右の古歌を考るに、或はふしがちにしてといひ、或は杖ともたのむといひ、或はふしなれしといふ。すべて左にあらはす古図の、生竹に乗たはぶるゝによくあへり。〔異制庭訓〕遊戯の事をならべいへる条に、竹馬馳〔はしり〕といふことあり。左にあらはす古図の如く、生竹を馬にして馳くらべする事にや。異制庭訓は虎関和尚の作なればふるきことなり。〔下学集〕騎竹之年〔割注〕指丫角〔あかく〕之童子云竹馬之年也。」とあり。騎竹といへるも、竹に騎〔のり〕戯るゝの謂なるべし。
古代竹馬図
此図は元禄十三年の印本円光大師伝のうちより摹出〔うつしいだ〕せり、これは正和年中の古画を摹して刻したるよしなれは因〔より〕きたること久し、正和年中は今文化十年よりおよそ五百余年のとほき昔なり、ふるきをおもふべし、

画像唐山〔もろこし〕の古銅器に童児竹馬を持たる形を鋳たるあり、銅色宋時代の物といふ鍳定〔かんてい〕あるよし、その臨本を得て竹馬のみをこゝにうつしいだせり、これを宋の宣和年間の物とさだむるときは本朝鳥羽院の保安の比〔ころ〕にあたれり、保安より今文化十年にいたりておよそ六百九十餘年なり、古きをしるべし、児五歳にて鳩車の楽あり七歳にして竹馬の歓ありと鳩車に對〔つい〕していへれば唐山のは此図の如き竹馬ならん、彼是を参〔まじ〕へ考〔かんがふ〕るに生竹を馬にするは日本様〔やまとさま〕ならん、駒の頭つくるは唐様〔からざま〕ならん、中昔よりこのかた彼も是もありしなるべし、
(山東京伝『骨董集』文化十年(1813)自序)

これをまとめると次のようになる。
①文化十年の江戸では春駒系のものを「竹馬」と呼んでいた
京伝の考えでは
②日本の古代の竹馬は葉のついた生竹であったこと
③竹馬の友の竹馬はこの生竹だったこと
④中国の竹馬は生竹ではない馬の頭のついた春駒系のものであったこと
ということは、「竹馬の友」という言葉は中国の故事に基づくとは考えていないようである。

 京伝のこの考えに対し喜多村節信は次のように補足している。
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小児の竹馬のこと、〔割注〕此ことは友人醒斎、くさぐさあつめて先に著せるものあり。今それに洩せることひとつ見出たるまゝ書出づ。」高士奇澹人が天禄識余に、唐路徳延為朱友謙書記、友謙行多不謹、徳延作孩児詩云、上略 嫩竹乗為馬、新蒲掉作鞭〔どんちくのって馬となし、しんぼもって鞭となす〕、云々。この竹馬はこゝの古画に見えたるが如く、葉のつきたるわかたけならんとおもひ居しが、近比南京焼の磁器の赤絵に、此かた書るを見ておもひあやまらざりしことをしれり、よつて其図をこゝにうつして、和漢おなじおもむきをあらはす。(喜多村節信『瓦礫雑考』文化十四年(1817)自序)

醒斎とは山東京伝のこと。京伝の本名は岩瀬醒。醒斎とも称している。節信は京伝の考証のうち④の中国の竹馬は春駒系という点以外は異論を述べていないのでそれ以外は同じ考えであったと思われる。

因みに『日本国語大辞典』には「江戸時代後期から二本の竹竿の適当な位置に、それぞれ足がかりをつけて、その上に乗り、両手で竿の上端を握って、体の平衡をとって歩くものが見られるようになった」とある。
画像 ただ、高足系の竹馬はずっと昔からある。後崇光院(1372ー1456)が詞書を揮毫した京都妙心寺塔頭春浦院蔵の「福富草紙」という絵巻には童児が高足系の竹馬と思われるものを持っている姿が描かれている。ただし、竹製ではなく木製のようである。京都には江戸文化期より四百年程前の室町時代から高足系の竹馬はあったようである。ただなんと呼んでいたかはわからない。江戸には文化十年の時点で高足系の竹馬はなかったのであろうか、それとも別の名前で呼ばれていたのであろうか。

 ところで「竹馬の友」という言葉は、幼い頃の友の意味で、「幼なじみ」が男女の区別無く使うのに対して、「竹馬の友」は、仲の良いそれも男児同士をさすようである。しかし元々は仲の良いという意味ではなかったという。
広辞苑にはつぎにように載っている。
〔晋書殷浩伝〕(桓温が不仲の殷浩と並び称されることを不満に思い、幼時には殷浩は自分の捨てた竹馬で遊んでいたと、自分の優位を吹聴した故事から転じて)ともに竹馬に乗って遊んだ幼い時の友。おさなともだち。
 晋書の成立は646年である。この故事を「竹馬之友」のもととすることについてはちょっと疑問もあるが、それは置いて「竹馬之友」の「竹馬」は現在の高足系のタケウマではなかったことは確かなように思われる。では桓温が捨てたもので殷浩が遊んだという「竹馬」とはいかなるものだったのであろうか。

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