落語の中の言葉102「間男」
前回に続き、五代目古今亭志ん生「三年目」より
江戸時代、間男は建て前としては重罪である。
しかし実際は幕府も内済(示談)を基本としていたようである。
八両準備されているので二分つりを出すつもりらしい。
ただ、江戸でも五両というのもある。
時がりにちょっと五両は大き過 誹風柳多留二篇(明和四年1767刊)
生けて置やつでハ無イと五両とり 誹風柳多留十篇(安永四年1775刊)
間男のからだ一尺が一両 誹風柳多留十七篇(天明二年1782刊)
江戸時代は男の背は五尺が標準だったようで、六尺になると大男の部類に入った。したがって五尺で五両。因みに国立科学博物館が収蔵している6000体を超える人骨・ミイラから時代別の身長を見ると江戸時代が最も小柄で平均身長は男性156センチ、女性145センチであるという。
「落噺三番叟 福種蒔」と誹風柳多留十七篇には二十年程のひらきがある。インフレで値上がりしたのであろうか。ただ石井良助『第四江戸時代漫筆「人殺・密通」』には「七両二分は大坂では、五両二分で、少し安くなっていますが、のちには江戸でも、五両となりました。」とある。五両から七両二分に値上がりしたのか、七両二分から五両に値下がりしたのか、それとも両金額がならび行われたのであろうか。
また間男一件への対応についても騒ぎ立てて表沙汰にしない方がよいと思われていたようである。
密通を秘して人参代と申し立てたことを「天晴」と褒めている。「町人には似合ぬ」というのは武士なら当然であるがという意味であろう。
まおとこを見出して恥を大きくし 誹風柳多留初篇(明和二年1765刊)
うごかずに居ろと去り状書いて遣る 誹風柳多留五篇(明和七年1770刊)
因みに「離縁状」で述べたように、離縁状は再婚許可証でもあるから、この場合のように妻の不貞による離縁の場合でも離縁状には「不縁に付き」「不熟に付き」あるいは「我等勝手に付き」と書かれていたと思われる。
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江戸時代、間男は建て前としては重罪である。
御定書百箇条(四十八条)密通御仕置之事
(従前々之例)
一密通いたし候妻 死 罪
(同)
一密通之男 死 罪
(寛保三年追加)
一密通之男女共に。夫殺候はゞ 無紛におゐては 無構
(追加)(同)
一密夫を殺。妻存命に候はゞ。其妻 死 罪
但若密夫逃去候はゞ妻は夫之心次第に可申付。
しかし実際は幕府も内済(示談)を基本としていたようである。
妻の密通について注意すべきは、これに関して、夫より吟味を願い出た場合、奉行所では直ちに吟味に取りかからず、まず内済させる方針であったことです。延享二年(一七四五)八代将軍吉宗からの質問に対して、御定書掛りの寺社奉行大岡越前守らは、左のような請書を差し出しています。
一密夫を捕え訴出、或ハ密通之儀、見届候由吟味願候事も
度々これ有り候哉、其節ハ則吟味ニ取懸り候哉、
此儀、度々願出候儀御座無く候、稀ニ願出申候、左候えバ、
吟味仕候、
一又ハ実否も相知れず候故、名主家主等ニ取捌せ、
其上済申さざる時、吟味致し候哉、
此儀願出候えバ、雙方名主家主五人組立合、幾日迄之内、
内証ニて相済ます可く候、埓明けず候ハヾ、雙方召連れ出ず
可き旨裏書差紙遣わし、両人出候ハ、吟味仕り候、
これによると、夫が密夫を捕えて訴え出たり、密通を見届けたといって吟味を願い出ることは、あることはあるが、稀であった。訴出があると、普通の犯罪の場合のように奉行所では差紙でその密夫と名指しされた者を召喚しないで、双方(本夫と密夫として名指された者)の名主家主五人組が立ち合って、幾日までの間に、内証で、その事件をすますべきである、もし期日内に埓が明かないときに、双方を召連れ出ずべき旨の裏書差紙を遣わして、両人が出頭すれば、吟味したというのです。
(中略)
ところで、裁判上の内済の場合でも、裁判外の内済の場合でも、密夫より夫に対し、内済金を出すのが普通の例でしたが、それは江戸では七両二分ときまっていました。七両二分というのは、享保十年(一七二五)に享保大判(十両)一枚が小判で七両二分にあたると定めたので、大判一枚を渡すという意味です。
古川柳に。
据えられて七両二分の膳を喰ひ
とあります。(石井良助『第四江戸時代漫筆「人殺・密通」』)
過銭首代と続けていう、罪の贖〔あがな〕いー罰金のことです。これは法律には書いてありません。江戸の法律としては、姦通罪は何としても罰金では済まない。鎌倉幕府の定めでは、三十貫文ないし五貫文の過料ということになっていまして、間男の死罪ということがなかった。江戸時代になってこの罪が重くなったのですが、実行の方は一向になく、上方では「さわり三百」ということがいわれておりました。享保度には、間男が流行物の一つのようになっていて、いかにも造作ない、「さわり三百」という諺が出来るほどであったのです。この三百は三百匁ということで、銀相場が六十匁一両とすると、三百匁で五両という勘定になる。だから、「堪忍五両」という諺もある。江戸ではそれを「間男七両二分」と申します。大判一枚七両二分ということは、享保十年の法令に規定されております。それからきているのです。銀遣いの上方では、三百匁といい、江戸は金遣いだから、金一枚で七両二分という。どっちにしても、造作なく金で済むので、全く法律離れのした事柄に見ていたのであります。それほど、当時は、上方といい江戸といい、風俗が乱れておった。(三田村鳶魚『江戸の女』)
亭主、何でも間男を真つ二つにしてくれんと、抜身をさげて屏風の内をそつと覗きてみれば、女房と間男、寝入りいる。枕元に小判が八枚並べてある。亭主、きつと思案して、そつと次の間へ出、女房を呼ぶ。女房「なんだへ」と起きてくれば、亭主「てめへの針箱へ、おれが二分入れておいたから、ちよつと出してくだせへ」(「落噺三番叟 福種蒔」寛政十三年刊(1801) 武藤禎夫『江戸風俗 絵入り小咄を読む』)
八両準備されているので二分つりを出すつもりらしい。
ただ、江戸でも五両というのもある。
時がりにちょっと五両は大き過 誹風柳多留二篇(明和四年1767刊)
生けて置やつでハ無イと五両とり 誹風柳多留十篇(安永四年1775刊)
間男のからだ一尺が一両 誹風柳多留十七篇(天明二年1782刊)
江戸時代は男の背は五尺が標準だったようで、六尺になると大男の部類に入った。したがって五尺で五両。因みに国立科学博物館が収蔵している6000体を超える人骨・ミイラから時代別の身長を見ると江戸時代が最も小柄で平均身長は男性156センチ、女性145センチであるという。
「落噺三番叟 福種蒔」と誹風柳多留十七篇には二十年程のひらきがある。インフレで値上がりしたのであろうか。ただ石井良助『第四江戸時代漫筆「人殺・密通」』には「七両二分は大坂では、五両二分で、少し安くなっていますが、のちには江戸でも、五両となりました。」とある。五両から七両二分に値上がりしたのか、七両二分から五両に値下がりしたのか、それとも両金額がならび行われたのであろうか。
また間男一件への対応についても騒ぎ立てて表沙汰にしない方がよいと思われていたようである。
依田和泉守寛仁の裁許、同訴人の者発明之事
芝田町九丁目に住居の九左衛門店宇八といふもの、依田の役所へ訴へ申けるは、拙者娘ををと申もの、同町吉右衛門と申もの方へ、三ヶ年已前縁付申候処、此度夫吉右衛門方より離縁いたし相戻し申候、不縁と申儀故、無異儀娘は受取申候得共、共節娘持参致候諸道具一色も返し不申候、媒人を以度々道具催促いたし候へ共、曾て返し不申候、何卒御慈悲御威光を以、急度相揃戻し候様に被仰付可被下とぞ願ひけり、仍之相手吉右衛門を早速依田殿呼出し給ひ申されけるは、汝女房を離別するに、何とて諸道具を留置返し不申候様成いやしき事を仕候ぞや、早々相戻し可遣旨申付けり、其時吉右衛門、かれらが願上計御聞被遊候ては左も可有御座候得共、件の女、私方へ嫁入申候て三ヶ年の内、甚大病を相煩、命にも可及所、人参代に持参の道具、衣服等、不残入上ゲ申候、仍之女房の方は十死一生の大病を助かり申候得ば、何ぞからみ可申様は無御座候、此段媒を以申入候得共得心不仕、御願に罷出候、右之通相違無御座候と言上に及びければ、依田殿聞届給ひ、然れば其方にて大病を煩ひ、其人参代にせしと有之事は又無余義事也、女房の親類共、吉右衛門の申通候間、然は一概に申付がたし、不肖いたせと有ければ、女房方のもの口を揃へ、全く少も病気には無御座候、大き成偽を申上候事かなと言上し、女房をも御吟味被成候処、毛頭相煩ひ不申と申上けり、近所の者も其段申上ける故、吉右衛門何とやら偽を申上、不調法と御呵の節、吉右衛門、いやいや夫こそ證拠明らかにて御座候、則其度毎に調へ申候人参代金売上を取置申候、乍恐御覧入申上候中、夫々是へと申給ふニ付、指出しければ、依田殿取上見給ひ、暫らく有し、いかにも是は人参の代、命がはりと申段きこへたり、天晴吉右衛門は寛仁の男、町人には似合ぬ不思義のもの也、能々人参を穏便にのませたり、これ舅、是へ参れとて、ひそかに人参の売上を見せ、命がはりなるぞ、得心して立帰れと申付、件の書付を渡し給ふ、女房の親其書付をうけ取見けるに、娘方へ密通の男有て、其艶書色々有、扨は娘が不義間夫して、その段顕はれ離別せしを、此方より諸道具取に遣しても、女の悪名をいはず、公辺へ訴へけるゆへ、命がはりの人参代と申上、売上ゲと称して文を出ける事、流石に穏便の男忝し、娘は悪名も世間へ知れず相済也と悦び、奉行に向ひ、いかにも奉畏候、申分一切無御座候、よく得心して白洲を下りけると也、誠に取捌きの奉行も寛仁たり、訴訟人も不思義の穏便人也と、人々感じ賞美しけると也、
(馬場文耕『頃日全書』巻之六 宝暦八年(1758))
密通を秘して人参代と申し立てたことを「天晴」と褒めている。「町人には似合ぬ」というのは武士なら当然であるがという意味であろう。
まおとこを見出して恥を大きくし 誹風柳多留初篇(明和二年1765刊)
うごかずに居ろと去り状書いて遣る 誹風柳多留五篇(明和七年1770刊)
因みに「離縁状」で述べたように、離縁状は再婚許可証でもあるから、この場合のように妻の不貞による離縁の場合でも離縁状には「不縁に付き」「不熟に付き」あるいは「我等勝手に付き」と書かれていたと思われる。
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