落語の中の言葉100「宿場の宿屋」

          六代目三遊亭圓生「三人旅」より

 前回に続いて宿屋をとりあげるが今回は宿場の宿屋である。とりあげるべき点は様々あるが、その基本的性格に絞って考えてみたい。
 徳川幕府は街道を整備し、宿〔しゅく〕を置いた。主要五街道は幕府が直接支配し道中奉行の所管とした。宿の役割については次のように云われる。
 宿の任務は三つに大別される。一は人馬の継立、二は旅人の休泊に対する施設、三は通信業務である。人馬継立のために各宿に人足と馬(もちろん馬士も)を常備しなければならない。はじめ東海道各宿に三十六疋の馬を備えさせたが、寛永ごろには人足百人・馬百疋となった。中山道の各宿は五十人・五十疋であったが、信濃の宿では二十五人・二十五疋の所が多かった。日光・奥州・甲州各道中は二十五人・二十五疋を原則とした。この人馬で公用旅行者を主として、人や荷物を運搬した。人馬に余裕があれば一般旅行者の用を弁じた。(児玉幸多『宿場と街道』)

幕府から朱印状(将軍発行)や證文(老中・京都所司代・大坂城代・駿府城代などが発行)をもらっての公用旅行の人馬は朱印状等に記載された数までは無代であり、朱印状等を超える人馬は御定料金であった。かなり低額である。町人等は相対で武士等の御定料金の倍ほどであったという。
 正徳二辰年(1712)三月
一御用にて道中往来之面々 御朱印人馬之外、添人馬多く相立候由相聞候、前々も申達候通、無用之添人馬出させ候儀堅く可為停止候、御朱印員数之外ニ可入人馬之分ハ、御定之賃銭無相違急度相払はせ可被申事、(『御触書寛保集成』)

三番目の通信業務とは継飛脚をさす。
 荷物運びの人足や馬のほか飛脚人足も確保して置かねばならず、宿の負担は相当に重い。見ず知らずのものを止宿させることは一般に禁止されていたが宿に限り旅人の宿泊を認め、さらに後にはいわゆる飯盛女(幕府用語で食売女〔めしうりおんな〕)を置くことも許可している。これらは宿〔しゅく〕の役を維持するためのものであり、伝馬と旅籠は一体のものである。したがって宿の役を務めない村や町が旅人宿をすることはできないのが原則だったようである。
例えば日光御幸町が、宿でないにもかかわらず旅人を止宿させていることについて鉢石宿から訴訟がおこされている。
 寛政十午年(1798)二月
      寺社奉行え
日光御幸町と鉢石宿と旅人止宿稼出入之儀、一体鉢石宿之儀は、正保之度 公儀より初て宿場ニ被仰付候上は、宿外ニて宿場同様之稼いたし候得は、自然と宿場之衰微ニ相成、差支之筋も出来可申事候、左候得は、御幸町ニて旅人稼は難相成儀ニ候、且又御門跡御代々より被下候御証文之内、諸役免許之趣ハ有之候得共、宿役差免、旅人止宿稼いたし候様ニとの御文言も無之、其上御証文被下候上は、宿場不相定以前より之事ニ候得は、右御証文は宿場ニ拘り候儀とは不相聞候得共、御門跡御先代より度々御取扱之事等、厚キ被仰立之趣も有之、殊ニ寛政元年及出入候節、御取扱を以五ヶ年之差延ニ相成、右年限も相立候ハゝ、猶又静謐之御取扱も可有之兼て之思召之旨、此度とても難儀之者共えは御手当も可被下由、依之旁右一件此度は御門跡被任御取扱候間、此上宿場等不及難儀、末々両町とも和熟いたし候様取計可申候、尤此以後及出入候節は、吟味之上速ニ裁許も可有之時宜ニ至り可申候間、兼て其心得ニて、御救等之儀も日光奉行え相談、厚取扱有之候様、上野執当え可被達置候事、(『御触書天保集成(下)』)

宿と宿の間にある合宿〔あいのじゅく・間の宿〕も休息のみで宿泊させないのが建前である。

 また飯盛女ははじめは許されていなかった。
万治三年(1660)十一月八日
この日諸駅に令せらるゝは。高札の旨。其他令制違犯のものあらば。各駅の役人。其日の行事曲事たるべし。こたび添札の旨を守り。毎駅にてかしこみ。いよいよゆきゝの輩。風雨の時も官用はいふまでもなし。卑賤の者たりとも疎略をなさす。人馬とゞこほりなく出すべし。博徒その他無頼のもの。をこたりなく査検すべし。娼婦を蓄をくべからす。もしかゝへをかば。其女其地の守護人。代官にうたへ出べし。上より探索ありて露顕せば。娼婦も曲事に行はれ。里正。役人等まで悉同罪たるべし。(以下略)(『厳有院殿御実紀巻二十』)

それがいつからかわからないが本宿は一軒に二人、新宿は一軒に一人許されたようである。
享保三戌年(1718)十月
道中筋旅籠屋之食売女、近年猥ニ人多有之由ニ候、向後江戸十里四方之道中筋ニハ古来之通旅籠屋壱軒に食売女弐人宛之外ハ、堅差置セ申間敷候、十里外之道中筋旅籠屋も、右に准し可申候以上、(『御触書寛保集成』)

その後、品川・千住・板橋については特別に増員が認められた。品川宿は全体で五百人、千住・板橋宿は百五十人づつ。これも宿役を維持するためである。品川宿と一口に云うが南本宿・北本宿・歩行〔かち〕新宿の三つから成っている。歩行新宿というのは人馬のうち人足だけを負担するところからこう呼ばれた。

明和元甲申(1764)八月六日道中御奉行所安藤弾正少弼様より千住宿旅籠屋惣代一人ツヽ問屋年寄、明七日四ツ時可罷出御差紙頂戴、翌七日御奉行所御白洲江品川千住板橋御呼込罷出候処、
 安藤弾正少弼様?御留役様馬喰町御刑人田中与一右衛門様
          御四人辻源五郎様御手代衆一人
右御立合にて被仰渡候儀左之通、則御請書奉差上候、
   差上申一札之事
一、品川宿旅籠屋共食売女過人数抱置、去ル巳ノ十一月中御咎被仰付候処、一躰品川宿者泊り旅人少く候へ者江戸出立莫大之休多キ場所に付、一人二人之食売にて者手廻り不申段無相違相聞、右旅籠屋共ハ品川宿高持之者共少、地借之者共に付、家業平旅籠や百八十軒程有之候処、当時九十軒程に相成、地主共農人にて地代店賃之余力ヲ以宿役相勤候処、右躰軒数相減候て者、自然と地主共困窮に相成、殊に五海道之内にても泊旅人之助成は少、宿次或者江戸入継人馬戻り之稼無之段無相違、外宿々とは格別之思召ヲ以、是迄食売女南北品川にて、旅籠屋一軒にて二人、歩行新宿は一人ツヽ御定法に候処、已来本宿新宿之無差別幷一軒に何人と不限、品川三宿食売女都合五百人迄者相抱可申旨被仰渡候、
一、板橋千住宿も泊旅人者助成少、宿継御用宿送り等之取計多、江戸入継人馬戻稼無之、殊に三十年程以前ハ板橋に七十三軒、千住宿に七十二軒有之候処、当時板橋宿に七軒、千住宿に二十三軒ならでは無之、自然と右軒数相減じ、地主共困窮に相成候段無紛に付、是又品川宿に順じ格別の思召を以、只今迄本宿一軒に二人、新宿一軒に一人之処、以来本宿新宿無差別幷一軒ニ何人ト不限、板橋千住両宿共に食売女一宿に都合百五十人ツヽ迄者相抱可申旨被仰渡候、右者三宿共格別之御沙汰に御坐候間、別て宿役無差支様出精仕、勿論食売女過人数不差置、都て御法度可相守旨被仰付難有奉存候、若相背候はゝ御科可被仰付候、仍御請証文差上申所如件
 明和元甲申八月七日  (石塚豊芥子『岡場遊郭考』)

ここに江戸四宿のうち内藤新宿だけが抜けているのは、この時点(明和元年)においては宿でなかったからである。内藤新宿は元禄の頃取り立てられたが享保三年(1718)廃止された。再興されたのは明和九辰年(1771)四月である。

ところが「格別之思召ヲ以」って大増員してもらった品川宿の食売女はその後定めの五百人を大幅に上回って千三百人以上にもなり咎めを受けている。
天保十五年(1844)正月廿九日
   御勘定奉行
    跡部能登守様御役所に而被仰渡候写
     品川宿落着御証文
      差上申一札之事
 東海道品川宿旅籠屋共儀、食売女過人数抱置如何之取計致候趣御聴、関東在々御取締として御廻村被成候関保右衛門様、林部善太左衛門、北条雄之助様、御手附御手代衆に被召捕、於場所一と通り御尋の上、当御奉行江御差出に相成、宿役人共儀も被召出再応御吟味之上左之通被仰渡候。
一 権八外九拾三人儀、宿々食売女之儀に付ては兼而被仰渡候義も有之候処、旅人宿泊の給仕等行届候様致度とて過人数抱置、殊に右女を売女同様に仕立、旅人之好を可求と、衣類其外花美に仕成候始末一同不埓に付、過料銭五貫文宛被仰付候。
   但惣人数之内五百人を御引渡被遊候間、已来食売過人数不差置、都而花美之儀無之様可致旨被仰渡候。
一 名主問屋年寄組頭共義、宿々食売女之義に付而は兼而被仰渡候趣も有之候処、旅籠屋共食売女過人数抱置、其外如何之取計致候も不心付罷在候始末、一同不埓に付名主問屋共過料三貫文宛被仰付之、年寄組頭共は急度御叱り被置候。
   但ふじ外千三百五十七人一同御引渡被遊候間、五百人之外過人数之分は請人、人主、又は身寄之者共へ夫々引渡遣し、右引渡相済候はゝ早速其段御訴可申上、以来旅籠屋共食売女過人数不差置、都而花美之義無之様可心付旨被仰渡候。
一 ふじ外千三百五十七人義、銘々主人任申付、旅人好を可求と、見形等都而花美に致し候段右始末不埓に付一同急度叱り置候。
  右被仰渡候趣一同承知奉畏候、且過料銭之義は三日之内関保右衛門様江可相納旨被仰渡、是又一同承知奉畏候、若相背候はゝ重科可被仰付候。依之御証文差上申候、如件。
           関保右衛門御代官所
             東海道北品川宿
              宿役人 廿四人
              旅籠屋 九十四人
              食売女 千三百五十七人
  天保十五辰年
      正月廿九日
  道中 御奉行所    (『藤岡屋日記』)

江戸四宿にある飯盛旅籠は落語にあるように岡場所同様だったようである。

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