落語の中の言葉92「火の用心」続
「火之元之掟」に「水溜桶」とあるが、今回は「天水桶水溜桶」をとりあげる。防火用水を準備して置くようにとの命令は随分古くからあり、明暦の大火前の慶安元年(1648)十二月一日に出された御触の中に次のような部分がある。
「天水桶」というと今では「天水」すなはち雨水を溜めておく桶の意味であるが、江戸の町触にあるものは少し違うように思われる。慶安の御触から百年以上たった宝暦五年(1755)二月に天水桶水溜桶に水を入れ常時準備しておくようにとの触れが再び出された。
御触では天水桶水溜桶を差置ようにというだけで屋根の上に置けとはいっていない。にもかかわらず、年番名主達は土蔵造塗家瓦葺等では、天水桶之枠台等を屋根に取付ることが難しく、万一風烈地震之節には、落下する危険もあるので、そういう所は、庇物干等に差置たいと町年寄に伺いをたてている。また本町から両国橋迄の御成道筋の名主達は、天水桶を庇の上に置くのは危険かつ御成の際に目障りにもなるので天水桶の代わりに家の前に大水溜を置きたいと町年寄奈良屋市右衛門に書面を出す。これらを見ると名主達は、屋根に設けた窓が天窓であるのと同様に、天水桶は「天水」+「桶」ではなく「天」+「水桶」の意味で、水溜桶のうち屋根等の上に置くものと考たようである。これは名主達の誤解ではなかったようである。
一本化して書類を出すよう奈良屋から命ぜられた名主達は相談の上、大水溜は道幅が狭く置けない町もあるところから往還に置く水溜桶の数を増すことにしたいと申し出ている。
この書面に対して同月廿八日次のように申し渡されている。
また寛政九年(1797)十月の年番名主通達にも次のようにある。
町触を見る限り、屋根上に置く水桶を天水桶と呼び、地上に置くものを水溜桶と呼び分けているようである。屋根上のものを水溜桶と呼ぶ事はあっても地上に置かれたものを天水桶と呼んだ例は少ない。
水溜桶についてはその後も繁々桶の数、水切れ、青みがでないよう汲替、凍結防止などの町触が出されている。一方雨水を集めることに関するものは一切ないところからして天水桶水溜桶ともに雨水を溜めたものではなかったようである。
水溜桶の数は、安永四年(1775)四月に一町(長さ六十間標準)片側に三十、両側で六十置くように定められ、寛政元年(1789)二月にも同じ内容の町触がだされている。
この触れにあるように天水桶を設置することが命ぜられたのは「瓦葺ニ而無之分」である。また桶の大きさについては「酒樽等ニ而も宜候間」となっているが、元禄九年(1696)に出された触れでは、今あるものに加えて「差渡し二尺五寸高三尺」の水溜桶を新規に置くように命じていた。
『江戸名所図会』などを見ると酒樽(四斗樽)よりずっと大きく元禄の御触にある大きさに従っているようである。また水溜桶には町名を書くようにも命ぜられ、後には町名を記した札を付けるようになっている。
江戸の「天水桶」というと大きな桶の上に小さな桶を山形に積み上げたものを想像するが、桶だけのものと二通りあったようである。水溜桶が描かれている図として『江戸名所図会』から「今川橋」の部分(左)と「新吉原仲之町八朔図」(右)、『熈代勝覧』(日本橋から今川橋にいたる大通りを描いた文化はじめ頃の絵巻)から室町一丁目の部分(下)をあげる。



図にあるような大きな桶ではなく酒樽ほどのものには水溜桶のまま火事場へ持ち運べるように縄輪を付けたものもあったようである。
嘉永五年(1852)四月 小口非常掛(名主)通達
また江戸時代の消火活動は水を掛けて消すことが主ではないが、飛び火による類焼の防止も含めて水の確保は重要であり、井戸のある場所の明示も命ぜられている。
寛政九年(1797)十二月年番名主の通達
井戸の印としては式亭三馬『浮世床』(文化八年刊)の挿絵から裏長屋入口の部分をあげる。長屋入り口の木戸の上部中央に井筒を描いた板が付けられている。


井戸の印はその後文政十三年(1830)に右図のように変更された。
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一町々水溜桶、手桶、天水桶ニ水を入置可申候、幷のほりはしこかけ置可申候、若悪敷成候ハヽ右之道具仕直可申事
一二階ニ而火をたき申間敷事 (『江戸町触集成』第一巻)
「天水桶」というと今では「天水」すなはち雨水を溜めておく桶の意味であるが、江戸の町触にあるものは少し違うように思われる。慶安の御触から百年以上たった宝暦五年(1755)二月に天水桶水溜桶に水を入れ常時準備しておくようにとの触れが再び出された。
風烈之節、町中火之用心之儀、家持ハ不及申借屋店かり裏々迄、月行事自身相廻り急度可申付旨、幷常々天水桶水溜桶ニ水を入置、風烈之節ハ往還江も節々水を打、芥不立様ニ可仕旨、先年相触候所、近年猥ニ相成、天水桶水溜桶不差置場所も間々相見え候間、冬春之内ハ別而入念、先年之通可相守候
附、瓦葺ニ而無之場所ハ、猶以右之趣急度可相守候
御触では天水桶水溜桶を差置ようにというだけで屋根の上に置けとはいっていない。にもかかわらず、年番名主達は土蔵造塗家瓦葺等では、天水桶之枠台等を屋根に取付ることが難しく、万一風烈地震之節には、落下する危険もあるので、そういう所は、庇物干等に差置たいと町年寄に伺いをたてている。また本町から両国橋迄の御成道筋の名主達は、天水桶を庇の上に置くのは危険かつ御成の際に目障りにもなるので天水桶の代わりに家の前に大水溜を置きたいと町年寄奈良屋市右衛門に書面を出す。これらを見ると名主達は、屋根に設けた窓が天窓であるのと同様に、天水桶は「天水」+「桶」ではなく「天」+「水桶」の意味で、水溜桶のうち屋根等の上に置くものと考たようである。これは名主達の誤解ではなかったようである。
一本化して書類を出すよう奈良屋から命ぜられた名主達は相談の上、大水溜は道幅が狭く置けない町もあるところから往還に置く水溜桶の数を増すことにしたいと申し出ている。
先達而四斗樽ニ水入、凡六拾間一町之内、拾五程も平均ニ差置申候所、此度御伺申上候ハ、自今五間隔ニ水溜壱ツ宛差置、一町ニ弐拾四五宛も差置、六拾間多少之分ハ右之数ニ準、急度差置候様仕候ハヽ、水手宜方ニも可有御座哉、右之段今日御成御道筋名主共も打寄、相談仕候上、存寄申上候、以上
亥四月十四日 年番名主共
この書面に対して同月廿八日次のように申し渡されている。
奈良屋市右衛門殿江年番名主被呼、右伺之儀、瓦葺之所ハ天水桶之代りニ水溜桶数を増、六拾間一町之積ニ而片側ニ拾五ツヽ壱町ニ三拾宛差置可申、尤長短之町々ハ右ニ準差置可申、柿葺茅葺之所ハ、天水桶差置可申旨被仰渡候
また寛政九年(1797)十月の年番名主通達にも次のようにある。
一水溜桶幷家根上天水桶猶又此節相改、来十日まて不残為差出、其段支配名主方江可相届旨、左之通町々江申渡候上、同十一日より十五日迄ニ組合同役申合、見廻相改可然候 (『江戸町触集成』第十巻)
町触を見る限り、屋根上に置く水桶を天水桶と呼び、地上に置くものを水溜桶と呼び分けているようである。屋根上のものを水溜桶と呼ぶ事はあっても地上に置かれたものを天水桶と呼んだ例は少ない。
水溜桶についてはその後も繁々桶の数、水切れ、青みがでないよう汲替、凍結防止などの町触が出されている。一方雨水を集めることに関するものは一切ないところからして天水桶水溜桶ともに雨水を溜めたものではなかったようである。
水溜桶の数は、安永四年(1775)四月に一町(長さ六十間標準)片側に三十、両側で六十置くように定められ、寛政元年(1789)二月にも同じ内容の町触がだされている。
町々水溜桶之義年々相触候得共、近来猥ニ相成、平日心掛水汲入置不申候様子ニ相聞候、依之安永年中相触候通一町片側ニ数三十、両側ニ而六拾、酒樽ニ而も宜敷候間、家前ニ差置可申候、瓦葺ニ而無之分は家根上江水溜桶上ケ置、手あやまち又ハ飛火之粉等早速打消候様可致候、尤水汲入置候様子組之者相廻為改候間、名主家主無油断申付、風烈之節は別而入念相守可申候 (『江戸町触集成』第八巻)
この触れにあるように天水桶を設置することが命ぜられたのは「瓦葺ニ而無之分」である。また桶の大きさについては「酒樽等ニ而も宜候間」となっているが、元禄九年(1696)に出された触れでは、今あるものに加えて「差渡し二尺五寸高三尺」の水溜桶を新規に置くように命じていた。
一町中火事之節、水之手つかへ為無之、只今迄有之候水溜桶之外ニ、一町片側ニ三ツ充、両側四ツ新規ニ水溜桶拵、差置可申候、桶之大サ差渡し二尺五寸高三尺可仕候、幷井戸すくなき所又は水之手悪敷所は、片側ニ三ツ充、両側ニ六ツ差置可申候、角屋敷横手弐拾間之内ニは溜桶一ツ指置可申候、尤不断水を入置可申候、此旨急度可相守者也、
九月
『江戸名所図会』などを見ると酒樽(四斗樽)よりずっと大きく元禄の御触にある大きさに従っているようである。また水溜桶には町名を書くようにも命ぜられ、後には町名を記した札を付けるようになっている。
寛政七年(1795)十一月
一町々水溜桶江町銘可書ハ勿論、何町目と申迄書記可申候、且壱丁限家主之内順番を立、毎月縦令は一六と歟其町内申合、何レニも六度程定而見廻、桶損候ハヽ為繕、水不足ハ為汲入可申候
但、桶墨塗ハ白、きし(木地)ハ墨にて町名可書、縄巻菰筵ニ而包候ハヽ、板江町銘書記、相附置可申候
弘化三年(1846)十一月
町々木戸水溜桶江、町銘認メ候札差出置候様可致事
右は御奉行所御沙汰ニ付申渡候
江戸の「天水桶」というと大きな桶の上に小さな桶を山形に積み上げたものを想像するが、桶だけのものと二通りあったようである。水溜桶が描かれている図として『江戸名所図会』から「今川橋」の部分(左)と「新吉原仲之町八朔図」(右)、『熈代勝覧』(日本橋から今川橋にいたる大通りを描いた文化はじめ頃の絵巻)から室町一丁目の部分(下)をあげる。



図にあるような大きな桶ではなく酒樽ほどのものには水溜桶のまま火事場へ持ち運べるように縄輪を付けたものもあったようである。
嘉永五年(1852)四月 小口非常掛(名主)通達
一水溜桶幷店々持消防道具員数、書上候通不減様心付、且切々水汲替、桶幷棒通縄損し候分早々仕替候様、御支配限り御申合行届候様御取計、御組合限水溜桶消防道具之備方、無怠慢様 御見廻り可被成候(以下略) (『江戸町触集成』第十六巻)
また江戸時代の消火活動は水を掛けて消すことが主ではないが、飛び火による類焼の防止も含めて水の確保は重要であり、井戸のある場所の明示も命ぜられている。
寛政九年(1797)十二月年番名主の通達
井戸之儀、出火消防水之手第一ニ候間、奥井之分、路次口表裏共、目立候様井印差出可申旨、樽与左衛門殿被申渡、右ニ付左之通井印差出候様、町々江申渡可然、南北申合候
大サ凡八九寸程
井筒太ク印可申候
右御達申候、以上
巳十二月七日 四番組年番
井戸の印としては式亭三馬『浮世床』(文化八年刊)の挿絵から裏長屋入口の部分をあげる。長屋入り口の木戸の上部中央に井筒を描いた板が付けられている。


井戸の印はその後文政十三年(1830)に右図のように変更された。
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