落語の中の言葉91「火の用心」

    十代目金原亭馬生「二番煎じ」より

 乾燥注意報が出される時期にちなんで火事に関連することをいくつか取り上げてみたい。まず最初は「火の用心」。
 江戸は火事が多いところで、大火も度々であった。したがって火事に対する用心も大変なもので、この咄では表店の旦那衆などが自身夜回りに出ている。当然のことながら火の用心も現在とはだいぶ違っている。江戸時代、放火は火刑という厳罰であったにもかかわらず多かったようで、火の用心も失火の防止と不審者への警戒の両面であった。
 文政十二年(1829)の神田佐久間町大火の翌年に火の用心に関するまとまった内容の町触と「火之元之掟」が出された。これを見ると大体の様子がわかる。この文政十三寅年の町触はその後もしばしば引き合いに出され、嘉永五年(1852)にも「去ル寅年之条目江追加いたし、尚又触示し候間、無違失厳重ニ心付候様可致」と命じられている。この時にも寅の年と同様に表店は家毎に張り出すよう命ぜられている。そして嘉永度には書き写す手間もかかり、写し間違いがあってもいけないと書物掛名主が書物問屋地本問屋と相談し、書物問屋地本問屋から町年寄へ紙代と摺手間賃だけの値段で彫刻出版したいと願い出て、町年寄は北町奉行所へ伺いの上、町用に限り摺ることを条件に許可されている。少し長いが町触と「火之元之掟」を紹介しよう。

文政十三寅年(1830)二月
      町触
 火之元之儀は大切之事ニ付、古来より追々町触申渡も有之候処、去年三月神田佐久間町より出火大火ニ相成、武家町方とも夥敷及類焼、大風急火故焼死人も多、或は土蔵焼失之分も不少、其外持退候家財諸道具迄も悉く焼尽、其上場広之延焼故、板材木を始払底ニ相成、直段高直ニ至り、類焼之者は勿論、無難之もの迄も難儀及困窮候、右は格別風烈之折柄ニ付、入念心付候ハヽ、右体之儀は無之儀ニ候処、等閑之至り、火元之不届は不及申、町役人とも迄も不埓之至ニ有之、依之以来之儀は平日迚も火之元格別ニ心付可申、大風之節は月番之奉行所より相触次第、風相止候迄は 諸職諸商売とも相休、他出不致、最早他行致し候ものは早々立帰、火之元之一途を相守、火之番行事え家主共壱両人加り、町抱人足召連、たへす町内を相廻り、火之元触歩行、名主は支配町々を見廻り、心附候様可致、尤右触出無之候共、風烈ニて空之色替り候程之儀ニ候ハヽ、一同右同様相心得可申、且出火之節之心得幷火之元心付方之儀は、條目相立、別紙書付を以触示シ候間、木戸番屋表店は家毎、裏家之分は路次口え張置、精々厚相心得、無油断相守可申候、此以後若申渡候趣を等閑ニ相心得、大風又は風烈抔之節、右等閑より事起、致出火候ハヽ、過チとは難申、不軽不届ニ付、火元当人は厳科ニ行ひ、町役人共迄も其始末ニ寄、重く咎可申付候、
  但、本文之趣口達迄ニては行届兼候間、町々地借店借之者迄請書連印を取、差出可申候、
右之通、町中え不洩様可相触もの也、
    寅二月

      火之元之掟
一火之元麁末ニ致し候ものは、早速地立店立可申付事、
一風烈之節は、町々ニて御用之外は堅他出不致、火之元而已相守、屋根上庇
  したみ等え水うち、有合之桶其外え水を汲ため置へき事、
  但、屋根上之防之ため、梯子幷水籠水鉄炮等用意致置可申候、
一平日も竈はいふニ不及、二階物置等も惣て目遠き場所はたへす見廻り、夜
  中はねふし候節家内を改、消炭其外とくと見届可申候、
一湯屋を始おふ(大)火を焚候渡世は猶更、建具屋舂米屋はかんな屑わら灰
  等、幷わら商売之ものは其品別て可心付事、
一ふら挑灯と唱へ候品より度々致出火候儀有之候間、用ひ候度毎、入念しめ
  し可申事、
一普請小屋は昼夜無油断見廻、其外河岸地面物置等は別て心付可申事、
一手あやまち致シ、火もへ立候ハヽ、畳ニておふひ消可申、尤声を立、近所え
  しらせ可申事、
一出火有之候ハヽ、屋根上其外飛火之防第一ニ可致、以来遠方より之出火ニ
  て飛火致し、夫より焼つのり候ハヽ、火元と同罪たるへき事、
一出火致し、屋根上えもへ抜け、又は飛火ニてもへ立候節、近所之もの共早速
  打消候ハヽ、其町内隣町より、其ものともえ格別之褒美可遣事、
  但、右出銀手当は地主共幷表店之ものとも申合、常々積置可申候、尤次第
  ニ寄、月番之番所え訴出可申、
  時宜ニ寄、褒美も為取可申候、
一火之番行事は、町内を度々見廻可申事、
一風烈之節は名主も支配内見廻、火之元怠さる様可申付事、
一平日水溜桶用意致し、水かわかさる様たへす汲入置可申事、
一名主共組合之内弐三人宛申合、常々支配内火之元等互ニ心附、軒近き所
  え火所を拵、其外火之元不用心ニ相見候所は、名主共見廻、為直可申事、
右之條々急度可相守、相背候ハヽ、罪科たるへきもの也、
    寅二月    (『御触書天保集成下』)

 そして冬春の火の用心よりさらに厳重なのは、日光社参のため将軍が江戸を留守にする時で、天保十四年(1843)の場合、町奉行所から出され町触は次のものである。
  御触
 日光御参詣ニ付御留守中町方江可申付趣
一町々火之元別而入念、出火無之様相守可申事
一平生風烈之時分斗り町々火之見所ニ番人上置、町火消人足之支度致シ罷
  在候得共、御留守中平日共ニ火之見所番人昼夜差置、火消人足も支度致
  揃置、昼夜右之人足手分ヲ致、名主月行事召連支配之内相廻り可申候、
  出火斗リニ而も無之、怪敷者も有之候ハヽ早速召捕、奉行所へ召連可罷出
  候、勿論捕違ハ不苦候事
一町方自身番中番之儀差免候得共、御留守中は昼夜自身番中番相勤、町方
  之木戸五ツ時ヲ限〆切、往来之者拍子木ニ而送り、疑敷体之者は是又召
  捕、奉行所へ可訴出候事
 右之趣急度可相守候、昼夜与力同心相廻候間、其旨可相心得、若申付未熟ニ而違背之儀於有之は、其所之名主五人組始急度越度可申付候

これに伴い、年番名主達は具体的内容を話し合い、町年寄へ伺いを立てている。

 日光御参詣御留守中町々勤方申合伺出候廉々左之通
一中番屋之儀、壱町ニ壱ケ所ツヽ板囲等ニ仕候共、又は明店或は庇下ニ差置
  候共可仕候事
  但、格別之大町は見合番屋数相増可申事
一火消人足置場之儀、自身番屋近辺又は木戸番屋之辺ニ板囲仮板家根致差
  置可申候、尤火之用心大切ニ可仕事
  但、藁葺菰張等、火之用心悪敷儀致間敷事
一出火有之候ハヽ御定之詰場江火消人足人数半分差出、半分は町内ニ残し
  置、召連廻り可申候事
一湯屋風呂屋之儀、御発駕還御之御当日は相止、御留守中ハ明六ツ時より
  火焚初メ、夕七ツ時限仕舞可申事
  但、風有之節ハ相止可申候事
一温飩屋之儀、明六ツ時以後火ヲ焚、夕七ツ時限仕舞可申事
一御屋敷方賄、惣し而焚出し請負候者、右ニ準可申事
  但、御屋敷方御手支ニ不相成候様仕、若夜中右火ヲ焚候ハヽ火焚所ニ
  家主付居、火之元入念候様名主方より可申渡事
一講釈其外人集致候儀、無用可致事
一謡笛鼓太鼓琴三味線指南等之家業等は格別、謡講囃子浄瑠理浚等は
  無用可致事
一普請之儀は御構無之候へ共、噪敷儀無之、火之用心大切ニ可致事
一町々木戸無之処は竹矢来仮木戸可致事
  但、乗掛馬等通り候様可仕事、勿論先達而御見分有之場所之外、武家
  方又は寺院門前等入組、先例等難分場所は伺之上取計可申事
一町々表裏共明地用心悪敷処、囲入念可申付事
一並手桶表之間数ニ応し差置、尤有来ヲ用ひ、不足之所は拵可申事
一火消人足法被等有来ヲ用、尤不足之分ハ格別新規仕直シ、物入相掛候
  儀致間敷事
一木戸高挑灯出置申間敷事
一昼夜共ニ二階江火ヲ上候儀堅無用、二階ニ火棚持仏有之候共、灯明香
  炉立申間敷候事
一御留守中町々家持家主昼夜共他出不仕、地借店借も昼之内商ニ罷出候
  は格別、夜分他出無用仕、無拠用事之者ハ家主江申達、名主江相届可
  申候事
一町々水溜桶損し候分早々仕直し、水不絶様汲入置可申、且町銘札幷井戸
  有之路次目印損し候分ハ、是又早々仕直し可申事
 右之趣伺之通御聞被置候間、入念可相勤候
    卯三月

 下札   外ニ
    家主着服火事羽織股引、名主踏込火事羽織ニ而相勤可申
     但、家主共着服対ニ仕候儀、勿論分限ニ過候品一切為相用申間敷
     段、此儀ハ新規申合ニ不及、安永度其町々振合ヲ以可相勤候
右之通南北年番申合、館市右衛門殿江伺置候処、今日拙者共被相呼、右伺之趣御聞被置候旨被申渡候ニ付、此段御達申候、以上
  但、仮木戸竹矢来乗掛馬通候様補理可申旨、前文ニも有之候得共、御役
  人方通行之障不相成様入念可申通旨、別段御演説有之候間、其御心得
  ニ而御取計可被成候
    卯三月廿六日          南北小口年番
              (『江戸町触集成』第十九巻)

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