落語の中の言葉90「煤取り」

     六代目三遊亭圓生「御神酒徳利」より

 刈豆屋は将軍家から拝領した銀の御神酒徳利を家宝としていて、出すのは年に一度、十二月の十三日煤取りという今でいう大掃除の時だけ。煤取りは例年大勢の手伝が来て、めでためでたの若松さまよと音頭を取って始め、終わるとお酒と料理を出して祝うという。
『東都歳時記』巻之四 冬之部には
(十二月)十三日 煤払ひ。貴賤多くはこの日を用ゆ。(大城(江戸城)の御煤払ひの例は、寛永十七年庚辰(1640)十二月十三日に始まりし由、前板の冊子に見えたり。家内に煤竹を入れ、すす餅を祝ふ。新宅に三年すす竹を入れざることは『東鑑』に見ゆ)。
とあって次の図を載せている。
喜多村筠庭も武江年表の寛永十七年に「江戸御城十二月十三日御煤払今年より始る。」と補足している。
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また菊池貴一郎『絵本江戸風俗往来』には次のように書かれている。
 煤払(一)煤払・大掃除はこの月より市中家毎に行なわざるはなし。神社・仏寺には煤払に古式ある所多し。諸侯にも家々に古例ありて行ない給う。その外、武家の小禄なるもの、町家の富豪なる古家には、皆家々に旧例ありてその式を行なう。通り町筋にては夜に入りて煤取りを行なう家多し。その節は平生出入りの職人、ならびに召し抱えたる鳶の人足幾人となく来たりて、手伝って掃除をなす。終わりで祝儀目録金・手拭など貰い、例年定めの酒肴の振舞に飽きて帰るなり。この夜中の煤取りは、繁忙なる業務の手都合によるものなり。
 煤払(二)例年十二月十三日は、将軍家御営中御煤払の定日なり。随って諸侯より旗本の士、御家人及び町家も、今日に前後して煤払の大掃除をなすこと日々なり。煤払の式の膳部は里芋・大根・牛旁・人参・焼豆腐・田作(ごまめ)の平盛・豆腐の味噌汁・大根・人参・田作の生酢・塩引鮭の切身の調理にて酒を汲む。勿論家例により大同小異ありと知るべし。また町家にては蕎麦の振舞あり。なお交際上煤払う家、蕎麦の贈物の取り遣りをなしたり。御城御奥女中方、平日用いらるる手拭は、白無地の晒木綿に限れるも、御煤納めの日には染模様の手拭を許し用いらる。また人を揃えて数人にて宙へ高く揚げて、一声に「目出た目出たの若松様よ、枝も栄えて葉も繁る。お目出たやサアーサツササツササ」と唄えり。
『東都歳時記』の挿絵にも胴上げが見える。
女どもおほくつどへるかたには、胴あげといふ事を、けふのことほぎとぞなせる、ひとりのものに、あるかぎりのをゝなまとひつきて、かしらもち、手もち、足ひきて、あふむけにさゝげあげ、あげみおろしみうたふをきけば、御代はめでたのわか松さまはや、枝も栄へて葉も弥繁る、とかいふなる、これをかたみにあげられじとひこじろふを、わかきどち、まいて、来る春なん里に下りて、よすが定むるなどきこゆるものをば、ことさらに引出んとすれば、むづかりて、あらぬしば垣のひまにかゞまり居るを、かろうじてさがし出つゝ、これには今すこしざればみたる唱歌をもうたひてとよみわたる、此日は、煤取粥と名づけて、牛房てふものきざみ入たるは、煤の色にちなめるなるべし(原義方「煤払のことば」『ひともと草』寛政十一年(1799))
 江戸城大奥から他の女中衆へ、さらに町方の男たちも戯れに真似ることになったのであろうか。川柳の恰好の材料にもなっている。
  十三日やれ首をもて足をもて  (誹風柳多留二二篇)
  御局ハそつとそつとの十三日  (誹風柳多留初篇)
  十三日おはした目より高く上  (誹風柳多留八篇)
  十三日目出たくいしゆをかえす也(誹風柳多留十九篇)
  おとゝいはむごくしたなと十五日(誹風柳多留五篇)

煤で真っ黒になるため汚れてもいい恰好の者もあり、綿入れの上から煤除けの帷子を着たりする。同書(「煤払のことば」『ひともと草』)は次のように云う。
なかばより下つかたは、皆いぶせき衣かさね着つれ、もしくはかろきがよきとて、さふさねんじてたゞひとつきたるもありて、うはぎぬには、折に似げなき帷子のいとやれたる、浴するひとへのむげにけがれたるなどうちまとひ、わざとはせで、あるとある紙の袋とうでゝ、かしらつゝみ、手のごふぬのもてこれをくゝみ…

  煤掃に装束過て笑れる(誹風柳多留初篇)
  すゝはきに一人か二人ばかな形〔な〕り (誹風柳多留二篇)
  すゝ払〔はきに〕けふのかたびらむね合ず(誹風柳多留三篇)

 煤払は主に十三日に行われていたように見えるが、バラバラであったという者もある。
すゝはらいも江戸中一同に、十三日にかたく覚てしたる事也、如今勝手次第に、おもひおもひには非ざることにぞ有し、(『享保延享江府風俗志』寛政四年(1792))
煤払は十二月中旬頃より後の事にして、居室を払ひ清めて新歳を迎ふる事なるに、寛政の末より十一月の内に払ふ家もありて、めづらしく覚へしに、文政に至りては大抵霜月の内になりぬ、又冬至前にかならず払ふ家もあり、近来は十月の末に払ふもまゝありといふ、(『世のすがた』天保四年(1833))
そもそもなぜ十三日なのか。山崎美成は『民間時令』(文政五年(1822))で次のように述べている。
華実年浪草巻十二曰、或説に煤払に十三日を用こと、此日鬼宿にあたり、吉日なれば、煤を掃ふなり。
美成云、この説甚謬なり、そのよしは十三日鬼宿にあたれりといふもの非なり、年ごとの中にたまたまさる日もあらんなれど、さなき日もあるべし、これは九月十三夜を婁宿なりといへるとおなじく、ひがごとにてうけがたし、かつおもふに、今江戸にのみ十三日すゝはらひとすることは、恐らくは上の御煤払の定例なればなるべし。
(中略)
〔俗例〕日次紀事巻四曰、此月(十二月)二十日以後、選吉日、禁裏有御煤払、主殿寮献払煤之箒於禁裏。
日本歳時記巻七曰、十二月十五日の後、屋中の煤塵を掃べし、煤塵を掃に、世人多く期日を定て恒例とす。然れども或風雨の灾あれば、期日にかゝはらず、十五日後風雨なき暖日を用べし。
美成云、此二条みて、必しも煤払の十三日とむかしより定まりたるにあらざるをしるべし。

江戸城の煤払が十二月十三日なのでそれにならったものであろう。ただ江戸城の煤払も初めから十三日だったわけではない。三谷一馬氏は『江戸年中行事図聚』で「徳川家綱の代(1651~80)に、それまで二十日だった煤払いは徳川家光の忌日にあたるというので、十三日になりました。」と述べている。
徳川実紀を見ると最初に煤払が出てくるのは寛永十年(1633)十二月で、「廿日煤払あり」とある。(「大猷院殿御実紀」巻廿三)
翌十一年に記載はないが十二年以降は記載があり原則廿日である。その後慶安四年(1651)以降十三日に変わっている。東都歳時記にある寛永十七年庚辰十二月十三日に始まったという前板の冊子も筠庭の武江年表への補足も間違いである。
 ただ廿日が定例であったころもしばしば繰り上げて行われている。最初に繰り上げて行われたのは寛永十六年十二月で、『徳川実紀』(「大猷院殿御実紀」巻四十二)には次の記載がある。
「十二日煤払あり。例は廿日にこの式行はるれど。ことしは十六日立春によて。けふに取こし行はれしとぞ。」
「(十五日)此日追儺。酒井河内守忠清初てつかふまつる。」
「十六日立春なり。」

そこで改めて寛永十二年以降で閏月がある年の煤払実施日と立春をみると次の通りである。閏月のない年はすべて廿日に行われている。
              煤払    立春
  寛永十四年(1637) 廿日   廿四日
  寛永十六年(1639) 十二日  十六日
  寛永十九年(1642) 十三日  十九日
  正保二年(1645)  廿日   廿二日
  慶安元年(1648)  廿日   廿五日
  慶安三年(1650)  十三日  十七日

廿日では立春のあとになってしまう時だけ繰り上げている。
慶安四年の立春は十二月廿八日であるが煤払は十二月十三日に行われている。その後は十三日に行われているようである。家光が没したのはこの年(慶安四年)の四月二十日申の刻(十六時頃)である。

 そういうことかと納得がいった。煤払は元旦を迎えるためだけではなかった。立春を迎えるためでもあった。一月一日と同様に、立春をもって新年が始まるとも考えていたようである。節分の夜も年越しであった。ただ廿日を避けて別の日にするにしてもなぜ十三日なのか。関西では十二月十三日が事始めの日であるが、江戸(関東)では「お事」は二月八日と十二月八日である。
(十二月)八日 ○正月事始め(世俗、お事といふ)。家々笊・目籠を竿の先に付けて屋上に出だす。(二月八日のごとし。また今日を事納めとし、二月八日を事始めとするは可ならざるよし、『惣鹿子名所大全』〔『再板増補江戸惣鹿子名所大全』一七五一〕にすでにいへり。されど中古よりも、かくとなへ来りしにや、『芭蕉庵小文庫』〔史邦、一六九六〕に載る冬の句に、)
  一両や相場の替る事納め      嵐 竹
  身代も籠でしれけり事納め     史 邦
            (『東都歳時記』巻之四 冬之部)
 「厄払」の時の繰り返しになるが江戸時代の暦は太陰太陽暦で二つの区切りを使っていた。一つは月(ムーン)の満ち欠けでこれで月(マンス)の区切りとしていた。もう一つは黄道上を太陽が一周する期間(一太陽年)を冬至を起点として二十四等分した二十四節気(十二の節と十二の中)である。後に立春を年の始めとするようになった。立春(正月節)、雨水(正月中)、啓蟄(二月節)、春分(二月中)、……大雪(十一月節)、冬至(十一月中)、小寒(十二月節)、大寒(十二月中)。この二つの区切りを重ね合わせ、大寒(十二月中)を含む月を十二月、雨水(正月中)を含む月を一月、春分(二月中)を含む月を二月というようにして季節と月があまりずれないようにしていた(天保改暦まで)。ところが月の満ち欠けの周期は約29・53日、中から中までの期間は約30・44日(約365・24割る12)である。すると中から次の中までの間にひと月がすっぽり収まってしまって「中」を含まない月ができる場合がある。そのときはその名前の無い月を閏月としその年は十三ヶ月になる。二月と三月の間にあれば閏二月と呼んだ。
 立春は大寒と雨水の真ん中にあり雨水から約15・22日前である。したがって最も早く立春がくるのは一月一日(午前0時)が雨水となる年の前年で、この場合十二月は「中」を含まず閏月となる。立春は雨水の15・22日前、すなわち閏十二月一日から14・31日(29・53ー15・22)後、つまり閏十二月十五日である。立春の前日は節分で追儺の式を行っているのでそれと煤払が重ならないようにするためには十三日以前に煤払をしなければならない。煤払の例日を十三日にすれば、必ず節分より前になって日程の繰り上げは不要と成る。これは私の勝手な憶測で正しいかどうかわからないが自分では納得している。

*追記 「徳川実紀を見ると最初に煤払が出てくるのは寛永十年(1633)十二月」と書きましたが、その前年の寛永九年十二月二十日のところに「酒井阿波守忠行煤払の事をつとむ」とあります。お詫びして訂正いたします。

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