落語の中の言葉88「蕎麦」下

 また江戸時代初期の蕎麦切は今の蕎麦とは違っていたようである。
土民仕置覚と同じ寛永二十年(1643)に最初の料理本ともいえる『料理物語』が出版された。それ以前のものの多くが包丁流派による「料理の式法を伝えたもの」であるのに対して、「徹底して料理の実用的知識のみを書き記」したもの(原田信男『江戸の料理史』)といわれる。
その第十七後段之部に蕎麦きりがあり、次のように書かれている。
 そばきり 飯のとり湯にてこねるのがよい。またはぬる湯でも。また豆腐をすり水でこねる事もある。玉を小さくしてもよい。ゆでて湯の少ないのはよくない。煮えてからいかき(ざる)ですくい、ぬる湯の中に入れ、さらりと洗って、に出してよい。汁はウドン同前、その上、大根の汁加え吉。花かつを、おろし、あさつきの類、またカラシ、ワサビも加えてよい。(多田鐵之助『寛永二十年版「料理物語」詳解』)

ここに割り粉(小麦粉)が出てこないことについて、新島繁氏は『蕎麦史考』で次のように述べている。
他の種類で混ぜ物を要するものには、必ず材料の比率まで示しているから、おかしい。十年ほど前、ようやくこの矛盾に気づき、疑問を持つようになった。
 さらに四十六年後の元禄二年(1689)板『合類日用料理抄』巻二、麺類の蕎麦切の方(法)の項を開いても、(中略)
割り粉のことは依然として見当たらない。
 その理由は、ツナギに小麦粉を入れる方法をまだ知らなかったせいにもよるが、蕎麦切りが補食として使われた時代には、よしんば短く切れても、より高価な小麦粉を混ぜることは到底考えられなかったからである。
 一説には寛永年間に、奈良東大寺へ来た朝鮮の客僧元珍が、小麦粉の応用を教えたと伝えられている(本山荻舟著『飲食事典』)。だが、実際に小麦粉をツナギにいれた蕎麦切りが売られるようになったのは、元禄末頃か享保の後半らしい。

つまり初期の蕎麦切りはそば粉100パーセントの生そばであったようである。してみると今と比べてかなり太くまた短かったのではなかろうか。

 もう一つ気になるのは、『鹿の子ばなし』にある「蒸籠むしそば切」である。蒸し蕎麦切りについては次のようにいわれる。
其製法ハ蕎麦粉ヲ冷水ニテ、ヨク溲〔こね〕合セ、麺棒ニテ按擀〔おしひろ〕ゲ、フタヽビ棒ニ捲テ、連〔しきり〕ニ打ツコト数遍熨シテ薄片トナルヲ、剉シテ線トナシ、沸湯ニ入テ煠上ゲ、冷水ニテ洗ヒ、フタヽビ蒸籠ニ入レ、蒸シテ露気ナカラシメ、煎和〔にだし〕ノ醤油ヲ以テ、大根ノ絞汁山葵〔わさび〕海苔等ヲ配シテ食フ、(浅川鼎『善庵随筆』嘉永三年(1850)刊)

また寛延四年(1751)の『蕎麦全書』巻之中に手製蕎麦家法が詳しく述べられているが、ゆでたあと
冷水の中へ投じ入、水四五遍換へて能洗ひて、水の清浄に成るを度とす。
其後、亀の甲ざるの中へ揚げて、又水を二三遍むらなく懸る也。洗ふ斗りにて上より水をかけざれば、とくと粘着さらぬ物なり。外にぬるき湯を桶に入置て、此湯の中へざるの中のそばを投じ入れ、直に取揚げ、亦ざるの中へ入れ、冬なれば熱湯、夏の時節なれば大概の湯をむらなく二三反、四五遍もむらなく上より懸け、其上に布巾を懸け、亦其上に染板を蓋にして少時乾かし置き、水気を去り重筥の中へ入れ、布巾を懸け気のもれざる様によく蓋をして、綿入の小蒲団に包み、小半時斗りも置也。能むれてさらりと乾き出来るなり。
 是、予が家製の法也。
 蒸すと云にざるに入れて煮鍋の上にのせて蒸し乾すも有。或は蒸籠に入れて蒸し乾すも有り。家製には熱湯を懸けて重筥の中へ入れ蒸し乾す也。

とあって、いったんゆでた後にさらに蒸している。
 また『蕎麦全書』では、粉は「挽抜そばという上物」を使い、「もし挽抜なくて、そば粉を用ひて手製する時は、随分吟味して小麦粉のまじりなく、至極上々の御膳粉と云ふを用ゆべし」とあるのでやはり生そばである。
いつからゆでるだけで蒸さなくなったのか、小麦粉をツナギに入れるようになったことと関連があるのかは残念ながらわからない。

 その他蕎麦に関することを一つ二つあげる。
二八蕎麦
 十六文という蕎麦の値段からきたという説と小麦粉二、蕎麦粉八からきたという説がある。
どちらが正しいのか不明である。二八蕎麦という言葉が使われ始めた時の蕎麦の値段が十六文であれば十六文説が正しいということになりそうであるが、その使われはじめが何時なのか、その時の蕎麦の値段がいくらなのかがわからない。あることから生まれた言葉が違う意味で使われるようになるのはよくあることである。蕎麦の値段が十六文という時代が長かったのであれば、たとえ蕎麦粉八・小麦粉二から生まれた言葉であっても十六文だから二八蕎麦だと考える人間が出てきて、饂飩に二八の名をつけたり二七、二六という蕎麦の看板ができたとも考えられる。饂飩に二八という言葉があるからといって十六文説が正しいとはいえない。
そう思っていたら次のような記述に出会った。ただし、著者の名前からして果たして信用していいものかどうか。
蕎麦屋の看板二八は十六文、二六は十弐文あたりまへと計り思ひ居しが、老人の曰く、大むかしそば直段安く一膳八文十文なり、其時そばやの看板に、二八蕎麦生蕎麦あり、御誂へ次第とあり、客来りて三七に打て呉など誂ゆる、是はそば七歩に温鈍三歩をまぜてと云事なり、二八も其如く二歩と八歩といふ、直段の九々にあらず、当時は所によりて、二七も二九も皆九九の直段と計り定める、元より売物の直段を九々にて正札とする事は、当時にても先蕎麦屋の外に見へず、但し麦飯に見へたれども、そばやに似たる故か、二八は全く粉の割合なるべし、(案本胆助『江戸愚俗徒然噺』天保八年(1837))

引用者註:江戸時代の文にある「当時」は現在という意味である。

江戸汁と甘汁
京町の三浦に、几帳とてやんごとなき全盛の女郎有けり。そば切を好みて多く喰けり。(中略)客よりの付届は、小袖の外、皆蕎麦切となりける。夫耳〔それのみ〕か、「甘汁は愚ち成り」と、江戸汁のみ好、其外人あつめし、くはせけるほどに、出る時、半分は角のつるがやの払となりにけり。(以下略)(結城屋来示?『吉原徒然草』元禄末・宝永始頃)

「蕎麦汁をたっぷりつけて野暮に喰い」。
「蕎麦の隠居」のなかでも蕎麦好きの江戸っ子が息をひきとる際に、一度でいいからつゆをたっぷりつけて食べたかったといったという話が出てくる。
三田村鳶魚氏によると
江戸汁というのは、醤油一合味醂一合を一合に煎じ詰めて、それで食うのですから、ひどくからいものです。ちょっと蕎麦の先をつけただけで食うのがよろしい。無論これは「もり」の話で、「かけ」になりますと、とてもそんなからいのでは食べられない。(三田村鳶魚『江戸ッ子』)


道光庵
道光庵の蕎麦切 浅草称往院寺中道光庵、生得この庵主そば切を常に好むがゆへに、自然とその功を得たり。当庵僧家の事なれば尤魚類をいむ。絞汁至つて辛し。是を矩模〔きぼ〕とす。粉、潔白にして甚好味也。茶店にあらねばみだりに人をまねくにあらず。好事の人たつて所望あれば即時に調ふる也。誠にこのめる道なれば也。(菊岡沾凉『続江戸砂子温故名跡志 巻之一』享保二十年(1735)刊)

『武江年表』天明元年(1781)のところに
ちかき頃より、浅草称往院の寺中道光庵にて、蕎麦を製し始めけるが、都下に賞して日々群集し、さながら貨食舗〔たべものみせ〕のごとし。よって本寺より停められたり。

とある。
再三にわたる注意にもかかわらず、内証で蕎麦振舞を続けるのに業を煮やした昇誉恵風和尚は本山の思惑を考え、遂に天明六年(1786)蕎麦禁断の石碑を建て、そば党に門前払いをくらわすとともに、道光庵のそば切りも三代で打ち切られた。(新島繁『蕎麦史考』)

 どうこ庵人からの能〔いい〕買ぐらい(誹風柳多留 三篇)
 道光庵草をなめたひ顔斗〔ばかり〕(誹風柳多留拾遺 初篇)
あとの句は落語「そば清」や「蛇含草」を知らない人にはわからないであろう。
この道光庵から蕎麦屋に何々庵という名をつけるようになったといわれている。

最後に蕎麦の器についても触れておこう。『守貞謾稿』には京坂と江戸の器についての記述がある。
(京坂の)器 十六文のうどん・そば、ともに平皿に盛る。常の肴皿の麁なる物なり。しつぽく以下は、あるひは平に盛る椀なり。小田巻は大茶碗に盛る。むす故なり。

 江戸は二八の蕎麦にも皿を用ひず。下図のごとき外面朱ぬり、内黒なり。底横木二本ありて竹簀をしき、その上にそばを盛る。これを盛りと云ふ。盛そばの下略なり。だし汁かけたるを上略して、掛と云ふ。かけは丼鉢に盛る。
 天ぷら・花巻・しつぽく・あられ・なんばん等、皆丼鉢に盛る。

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しかし江戸も昔は皿に盛っていたという。
市店の蕎麦は、必ず磁皿に盛りて出す物なり、蒸籠に盛るは極略したることにて、遙後に出来たりといふ、饂飩は箱ありて其中に容る、饂飩箱は余が少年の頃迄用ひたり、然して其薬味は胡椒末を用ひしなり、故に胡椒舶来少なき時は、萆抜(本のママ)を粉にして代用せるが、今は葱白の香と、蕃椒蘿葡の辛とに資れば、絶て此事を知る者なく、併せて饂飩の箱も絶へたり、(喜多村香城『五月雨草紙』)

蕎麦屋の皿もりも丼となり、箸のふときは蕎麦屋の様なりと譬しも、いつしか細き杉箸を用ひ、天麩羅蕎麦に霰そば、皆近来の仕出しにて、万物奢より工夫して、品の強弱にかゝはらず、只目をよろこばす事計りにて、費のみ出来る也、(著者不詳『寛天見聞記』)

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