落語の中の言葉87「蕎麦」上
九代目入船亭扇橋「蕎麦の隠居」より
あまり見かけない品の良い隠居が蕎麦屋へ来て「お蕎麦を半分」と注文する。食べ終わって「おいくらかな」と尋ねると店の者が十六文と答える。主人を呼んで、いま食べた蕎麦が十六文というのはどういうわけかと尋ねる。品書きに「蕎麦十六文、花巻二十四文、あられ二十四文、しっぽく・天麩羅三十二文、上酒一合四十文」とあるのは読めるが、蕎麦を一枚たのんで半分食べて半分残したわけではなく、最初から半分たのんだのだから。とはいえ料金も半分の八文では愛想がないからと十文払っていく。次の日には蕎麦を一枚、その次の日には二枚、その又次の日には四枚と食べる量が倍々になっていく。ただし毎回何かしら小言をいっていく。蕎麦猪口が少し欠けている、膳が汚れている、蕎麦つゆが生暖かい、三十二枚食べた時にはいっぺんに出すと蕎麦がのびるといけないからと十六枚づつ出したところ、三十二枚の蕎麦を積み上げたのを眺めながら食べるから旨いので、それを途中で持ってきたり片付けられたりしたのでは食べた気がしないと小言。六十四枚食べた時には器の色が不揃だという。主人は音をあげて、もう店を閉めるという。毎回小言をいわれるし、それに此の分では明日は百二十八枚になりそうで、とても一度には出せないという。女房や店の者は手伝いを頼めばなんとかなるからと、翌日は大勢手伝いを頼み準備万端整えて隠居が来るのを待ちかまえている。話を聞いた近所の人も隠居の食べっぷりを見ようと集まってくる。そのなかを隠居がやってくる。「はい、御免」「いらっしゃい、何を差し上げましょ」「御蕎麦を 半分」
この咄に出てくる品書きとほぼ同じものが『守貞謾稿』に載っている。江戸の蕎麦屋に関する記述で蕎麦屋の行灯看板の図とともに壁の張紙の図がある。
御膳大蒸籠 代四十八文
一そば 代拾六文
一あんかけ
うどん 代拾六文
一あられ 代二十四文
一天ふら 代三十二文
一花まき 代二十四文
一しつほく 代二十四文
一玉子とじ 代三十二文
一上酒一合 代四十文
あられ以下に説明があり、
あられ:ばかと云ふ貝の柱をそばの上に加ふを云ふ。
天麩羅:芝海老の油あげ三、四を加ふ。
花まき:浅草海苔をあぶりて揉み加ふ。
しつぽく:京坂と同じ。(焼鶏卵・蒲鉾・椎茸・くわひの類を加えふ。)
玉子とじ:鶏卵とじなり。
蕎麦の値段が十六文だったのはかなり長い間だったという。「明和・安永期(1764~1780)以降ずっと一杯一六文で売られてきたかけ蕎麦が、幕末の頃には二四文と値上がりした。」(大久保洋子『江戸っ子は何を食べていたか』)
しかしその前はもっと安い。
蕎麦の実を食べることはかなり昔からのことであるが、蕎麦切りの形で食べるようになったのは比較的新しいようである。
原念斎『先哲叢談』巻之一(文化十三年序)の林鵞峰(春斎)に関する第六条に次のように書かれている。
前田勉氏の註 (1)矢ぶくろと弓ぶくろ、戦いが終り平和になること。徳川幕府による元和偃武をさす。 (2)『鵞峰先生林学士文集』巻五十二。寛文元年作。 (3)流しこみすする。 (4)そば食い虫。 (5)お茶うけ。
春斎は寛文元年(1661)の時点で煙草は「五十余年」、蕎麦は「殆ど三十年」という。寛文元年の三十年前というと寛永の初期で家光が将軍職を継いだ頃になる。もちろんこれは広く行われるようになったのがその頃という意味であろう。一部ではもっと前から食べられている。ただ新島繁氏は『蕎麦史考』になかで蕎麦切の発祥は「天正まで溯らず、慶長年間とすべきであろう」と述べている。
寛永二十未年(1643)三月の土民仕置覚には
一百姓之食物常々雑穀を用へし、八木は猥に不食様ニ可申聞ス事、
一在々所々にて、温飩・切麦・素麺・蕎麦切・饅頭・豆腐以下五穀之費ニ成候間、商売無用之事、
とあって「蕎麦切」がすでに商われていたことがわかる。ただ売られていたといっても、蕎麦屋のように食べさせていたとは思えない。煮売が始まったのは明暦の大火(1657)の後というし、宝永の頃(1704から11)までは江戸市中には食べ物屋はあまりなかったらしい。
引用者註:「支度物」とは食べ物のこと
寛文元丑年(1661)十二月 町触
ここに云う「煮売」は何を売っていたのかわからない。二十五年後の貞享三寅年(1686)十一月に火を持ち歩く商売を禁止するお触れでは「うどん蕎麦切」をその代表としてあげている。
斎藤月岑『武江年表』にも「寛文四年(1664)甲辰 けんどん蕎麦切り始まる(価八孔づゝと云ふ)」とある。
ついでにいうと、「切麦」というのは
「麦きり」とは大麦切りの略で、現在は小麦粉で打ったものを「麦きり」と呼んでいるところもあるので紛らわしい。
また寛永二十年という年は『武江年表』によると前々年から三年続きの飢饉で、その中で出された指示であることに留意する必要がある。
寛永十八年(1641) 秋、米穀柑子類不熟。
寛永十九年 三月より七月に到り、天下大飢饉、米価騰躍し、死人多し。御救米銭を給はる。
寛永二十年 十八年の冬より今年まで、飢饉続けり。
長くなったので続きは次回に。
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あまり見かけない品の良い隠居が蕎麦屋へ来て「お蕎麦を半分」と注文する。食べ終わって「おいくらかな」と尋ねると店の者が十六文と答える。主人を呼んで、いま食べた蕎麦が十六文というのはどういうわけかと尋ねる。品書きに「蕎麦十六文、花巻二十四文、あられ二十四文、しっぽく・天麩羅三十二文、上酒一合四十文」とあるのは読めるが、蕎麦を一枚たのんで半分食べて半分残したわけではなく、最初から半分たのんだのだから。とはいえ料金も半分の八文では愛想がないからと十文払っていく。次の日には蕎麦を一枚、その次の日には二枚、その又次の日には四枚と食べる量が倍々になっていく。ただし毎回何かしら小言をいっていく。蕎麦猪口が少し欠けている、膳が汚れている、蕎麦つゆが生暖かい、三十二枚食べた時にはいっぺんに出すと蕎麦がのびるといけないからと十六枚づつ出したところ、三十二枚の蕎麦を積み上げたのを眺めながら食べるから旨いので、それを途中で持ってきたり片付けられたりしたのでは食べた気がしないと小言。六十四枚食べた時には器の色が不揃だという。主人は音をあげて、もう店を閉めるという。毎回小言をいわれるし、それに此の分では明日は百二十八枚になりそうで、とても一度には出せないという。女房や店の者は手伝いを頼めばなんとかなるからと、翌日は大勢手伝いを頼み準備万端整えて隠居が来るのを待ちかまえている。話を聞いた近所の人も隠居の食べっぷりを見ようと集まってくる。そのなかを隠居がやってくる。「はい、御免」「いらっしゃい、何を差し上げましょ」「御蕎麦を 半分」
この咄に出てくる品書きとほぼ同じものが『守貞謾稿』に載っている。江戸の蕎麦屋に関する記述で蕎麦屋の行灯看板の図とともに壁の張紙の図がある。
御膳大蒸籠 代四十八文
一そば 代拾六文
一あんかけ
うどん 代拾六文
一あられ 代二十四文
一天ふら 代三十二文
一花まき 代二十四文
一しつほく 代二十四文
一玉子とじ 代三十二文
一上酒一合 代四十文
あられ以下に説明があり、
あられ:ばかと云ふ貝の柱をそばの上に加ふを云ふ。
天麩羅:芝海老の油あげ三、四を加ふ。
花まき:浅草海苔をあぶりて揉み加ふ。
しつぽく:京坂と同じ。(焼鶏卵・蒲鉾・椎茸・くわひの類を加えふ。)
玉子とじ:鶏卵とじなり。
蕎麦の値段が十六文だったのはかなり長い間だったという。「明和・安永期(1764~1780)以降ずっと一杯一六文で売られてきたかけ蕎麦が、幕末の頃には二四文と値上がりした。」(大久保洋子『江戸っ子は何を食べていたか』)
しかしその前はもっと安い。
寛文八年(1668)の比、江戸の流行物を集し短歌有。
当世はやりもの
肥前本ぶし やりがんな 人くひ馬に 源五兵衛 ー 欠 ー
けいあんや き船道行 三谷うた 河崎いなり 大明神
鎌倉道心 日 参 や 古作ぼとけ おんすゝめ いつも絶せぬ
観世音 三谷へ通ふは 駄賃馬 八文もりの けんどんや
浅草町はよね饅頭 (柳亭種彦『還魂紙料』下之巻)
浅草寺境内に、能ありけるに、侍とも見えず中間らしき者一人通り、諏訪町のあたりにて、「蒸籠むしそば切一膳七文」と呼びける時に、この男、腹もよほど空きければ、寄らばやと思ひ、腰を見れば、銭わずか十四五文ならでなし。(以下略)(軽口本『鹿の子ばなし』中の四 元禄三年(1690)刊)
蕎麦の実を食べることはかなり昔からのことであるが、蕎麦切りの形で食べるようになったのは比較的新しいようである。
原念斎『先哲叢談』巻之一(文化十三年序)の林鵞峰(春斎)に関する第六条に次のように書かれている。
『続日本紀』に「養老六年七月、天下に勧課して、晩禾〔ばんか〕・蕎麦〔きょうばく〕を種樹せしむ」と。是の言に繇〔よ〕れば、則ち世に蕎麪〔きょうめん〕を啖〔く〕らふや尚し。意〔おも〕ふに当時独り農食に給するのみ。其の上下通じて之れを用ひ、製殊〔こと〕に精巧を極め、以て珍饌滋味に代ふるは、蓋し鞬櫜〔けんこう〕(註1)以来に始まる。春斎が「戯れに煙酒を悪〔にく〕むに答ふる文」(註2)に曰く、「近歳、蕎麦麺を嗜む者多し。器に盛り堆を成す。放飯流歠〔りゅうせつ〕(註3)、口に張り瞼〔ほほ〕に脹〔ふく〕れ、腹に満ち喉に擁し、十余椀を更〔か〕へて果然として厭かず。消麺虫(註4)に非ずんば、則ち此に及ばざらんか。蓋し是れ田舎野人の食なり。然るに侯伯の席、文雅の筵〔むしろ〕、往往是れを以て頓点〔とんてん〕(註5)と為す。流俗の化、之れを奈何〔いかん〕ともすること無し。煙酒の行はる、既に五十余年、蕎麺の行はる、殆ど三十年。共に是れ人に益無しと雖も、亦害無きは必せり」と。貝原益軒『大和本草』に曰く、「煙草は慶長十年、種を番舶に得たり」と。
前田勉氏の註 (1)矢ぶくろと弓ぶくろ、戦いが終り平和になること。徳川幕府による元和偃武をさす。 (2)『鵞峰先生林学士文集』巻五十二。寛文元年作。 (3)流しこみすする。 (4)そば食い虫。 (5)お茶うけ。
春斎は寛文元年(1661)の時点で煙草は「五十余年」、蕎麦は「殆ど三十年」という。寛文元年の三十年前というと寛永の初期で家光が将軍職を継いだ頃になる。もちろんこれは広く行われるようになったのがその頃という意味であろう。一部ではもっと前から食べられている。ただ新島繁氏は『蕎麦史考』になかで蕎麦切の発祥は「天正まで溯らず、慶長年間とすべきであろう」と述べている。
寛永二十未年(1643)三月の土民仕置覚には
一百姓之食物常々雑穀を用へし、八木は猥に不食様ニ可申聞ス事、
一在々所々にて、温飩・切麦・素麺・蕎麦切・饅頭・豆腐以下五穀之費ニ成候間、商売無用之事、
とあって「蕎麦切」がすでに商われていたことがわかる。ただ売られていたといっても、蕎麦屋のように食べさせていたとは思えない。煮売が始まったのは明暦の大火(1657)の後というし、宝永の頃(1704から11)までは江戸市中には食べ物屋はあまりなかったらしい。
町々餅煮売有し事
宝永時代迄、品川、千住、板橋は海道の立場故、色々支度物有り、高橋よりは一ヶ所にても、中橋の広小路両側に、もち、田楽、にしめなど、前店六七間(軒)あり、今川橋北側に蕎麦屋三四間(軒)あり、旅人又は中間体の者入る、其外に、江戸中、山の手、浅草筋もなし、元禄十六年(1703)、地震、火事の節、小才覚の者焼場へ田楽を持出て、三文宛に売、歴々の武士方小屋にて飯を喰を見るに、無心いはるゝ程不自由成儀、夫より翌年大飢饉にて、端々煮売の小見世出ける、町奉公人も朝夕不足ゆへ、立掛りに買ける、夫より段々店出来て、今は、室町、本町場所に三四軒宛出来ぬ、尤、居酒はなく、上戸は甚だ難儀なりしが、是も今は沢山なり、(著者不詳・元禄二年生まれの六十余歳『江戸真砂六十帖』)
引用者註:「支度物」とは食べ物のこと
寛文元丑年(1661)十二月 町触
一先日も如相触候、町中茶屋煮売仕候者并振売之煮売、夜ニ入堅商売仕間敷候、御改之衆御廻り被成候間、相背候は、急度曲事ニ可被仰付事 (『江戸町触集成』第一巻)
ここに云う「煮売」は何を売っていたのかわからない。二十五年後の貞享三寅年(1686)十一月に火を持ち歩く商売を禁止するお触れでは「うどん蕎麦切」をその代表としてあげている。
一うんとんそは切其外何によらす、火を持ちあるき商売仕候儀、一切無用ニ可仕候、居ながらのにうり、やきうりハ不苦候、然共火之本随分念を入可申候、若相背火を持あるき商売仕候ハヽ、当人ハ不及申、家主迄急度可申付者也 (『江戸町触集成』第二巻)
むかしの侍衆野遊山に出る事、慰斗にあらず、歩行の達者又は山坂駆廻り稽古の為也、全く遊ひ斗にあらず、弁当食物持せ出る也、町にて買喰する事なく惣て町にて商売に拵へたる食物餅類にてはまんちうさつさ餅焼餅、是等のものは調て喰う、うどんそは切七十年已前には、御旗本調て喰う事なし、寛文辰年(四年)けんとんそは切と云もの出来、下々買喰ふ、御旗本衆けんとん喰ふ人壱人もなし、近年は大身歴々けんとんそは切調へ喰ふ。(『昔々物語』)
斎藤月岑『武江年表』にも「寛文四年(1664)甲辰 けんどん蕎麦切り始まる(価八孔づゝと云ふ)」とある。
ついでにいうと、「切麦」というのは
切麦 これも塩かげん、うちよう、何れもウドン同然である。汁は煮抜き、またはタレミソにカラシ、タデ、柚子を用いる。
麦きり 大麦の粉である。打方は切麦の様に打って短かく切り、汁、上置は、そば切りの如くにしてよい。(多田鐵之助『寛永二十年版「料理物語」詳解』)
「麦きり」とは大麦切りの略で、現在は小麦粉で打ったものを「麦きり」と呼んでいるところもあるので紛らわしい。
また寛永二十年という年は『武江年表』によると前々年から三年続きの飢饉で、その中で出された指示であることに留意する必要がある。
寛永十八年(1641) 秋、米穀柑子類不熟。
寛永十九年 三月より七月に到り、天下大飢饉、米価騰躍し、死人多し。御救米銭を給はる。
寛永二十年 十八年の冬より今年まで、飢饉続けり。
長くなったので続きは次回に。
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