落語の中の言葉86「医者」下

 前回に続き「医者」について。
僧侶と医者は、たとえ親が水呑百姓やその日稼ぎの裏長屋の住民であっても、本人の能力次第で、大名旗本から敬われる者に成ることも可能である。
 僧については寺に入って修行した正式な僧侶以外の者が僧侶に紛らわしい行為をすることは禁止されていた。たとえば江戸時代に盛んであった富士信仰に関して次のような町触が何度か出されている。
 享和二戌年九月の町触
富士講と号し、講仲間を立、俗之身分ニて行衣を着し、鈴珠数等を持、家々之門ニ立、祭文を唱、又は病人之加持祈禱致し、護符等出し、其外不埓之所業いたし候者有之由相聞候ニ付、以来右体之儀堅く致間敷、若於相背は、急度可申付旨、去ル卯年触置処、近頃又候講仲間を立、俗之身分ニて行衣を着し、病人等之加持祈禱致し、或は護符等を出し候もの有之由ニ付、此度右之者共召捕、吟味之上夫々御仕置被仰付候、以来触置趣忘却不致、急度可相守、若此上相背、右体之者於有之は、厳科可申付候、此旨町中可触知もの也、
  戌九月

ところが面白いことに、一方の医者についてはそうした規制がなかったらしく、落語にあるような危ない医者も野放しだったようである。

 次に薬礼および供廻りのねだりについて。
三田村鳶魚氏は薬礼について次のように述べている。
一体この薬礼というものは、江戸時代にはいくらと見られておりましたか、寛延の頃に、牢屋の医者は、一貼について二分ずつ幕府から支払われた、ということが『江戸真砂六十帖』に書いてある。二分といいますと、五貼で一匁、五十貼が十匁、三百貼が六十匁で一両、こういう計算であります。それから天明度になると、『翁草』に、「てん薬の上げる薬も、三分に直がきはまろといふ噂」とある。ここで一分値段が上っています。それから文政になりますと、「中より以下、一貼三分に当るを並とす」とこう『経済随筆』にありまして、三分礼という言葉さえ出来たのであります。天保版と思われる『処女七種〔おとめななくさ〕』に、「三分礼ではおかれまい、五分礼の外に二百疋」とある。天保度になりますと、また二分方上って、五分になっております。が、天明から文政度までの久しい間、一両に三百貼の計算で、薬礼を払っておりました。五分になると、一両に百二十貼の割になります、それを打ち破ったものは、蘭方の御医者さんでありまして、安政度で七日分が二百疋、銀にすれば三十匁、三日分が百疋といいますから十五匁、診察料が十五匁から三十匁まで、往診料は初度に二十二匁五分、その後は、一度ごとに十五匁ということで、別に一里内外は三十匁、二里は六十匁、二里半は二両、三里以上は五両、おまけに二里以上は、駕籠の往来であれば、駕籠賃は病家から出す、こういうことになって、すっかり模様が違いました。(三田村鳶魚『泥坊の話お医者様の話』)

ここに三分、五分と出てくるが、これは銀のことで一匁=一〇分=一〇〇厘である。一方金は一両=四分=一六朱である。同じ「分」なので紛らわしい。金は例えば金一両二分(きんいちりょうにぶ)と「ぶ」と呼び、銀は一匁二分(ぎんいちもんめにぶん)と「ぶん」と呼び分けていたらしい。

実際の支払いの例をみると、弘化三年武州荏原郡用賀村の古文書に、煎薬八貼と丸薬弐貼で薬礼銭五百文、また煎薬十七貼で金弐朱払ったという記載がある。天保十四年から嘉永二年までは金一両(=銀六〇匁)=銭六貫五〇〇文に法定されていたので煎薬八貼と丸薬弐貼で薬礼銭五百文は一貼銀四分六厘。煎薬十七貼で金弐朱は一貼銀四分四厘相当となる。

 医者が優遇されていたこと、および官医の権勢をかさに着て供の者に「ねだりがましい」行いがあったことについては次のように云われる。
医官は世職なりと雖も、其御匙法印に至る者は、大抵町医師の中より治療格別巧者のもの、新規召出して仰付られたれば、医師も皆能々出精して、太平の世に匹夫より出て、王侯貴人に接するを得るは、唯此道あるのみとせしが、其志を得る日に至りては、随分威権も盛なりし、御匙の命下れば、日を間〔へだ〕てず必ず御城巡にて、都合宜敷場所を見立て、何人の住居所有に狗はらず、望みて拝領屋敷を願ふ事なり、是は急卒御用の節、御城最寄りにあらざれば叶はざる事、且御薬を製するに、井水宜からではならざるに因りてなり、又必ず三階の家を建る事を許さるゝは、(王侯将相の邸宅にても、三階楼を築く事を禁制なり、)御薬製法の場所は、清浄ならざるを得ざる故なり、又途中に持たする薬籠は、御上りの薬品入たるものにて、甚だ威勢を張り、若し人の誤りて、卒爾に衝あたるもの抔あれば、直に喧嘩口論に及び、法衙に出るに及びても、大方は勝を獲る事なりしが、寛政年間より御城二の丸に於て、御製薬所所建に成りて以来、此弊は遂に止み、医師の薬籠は、唯自家所用の品とのみなりたれば、徒て官医の権は痛く落たり、
鋤雲いふ、官医の権は落たと雖も、其傔従の其主人の術を頼みて、招かるゝ病家に就て、酒飯の費を請ふ弊は、実に甚しく憎むに堪へたり、是を以て権門勢家の外、尋常之家にては其請求に恐れて、診察を受たきと思うへ共、扣へて為し得ざる者多くあるより、名人国手にても御匙に成ると、病家は痛く落たりき、
天明の頃は国持大名が、家督相続及び官位昇進の節は、老中を請招する事なりしが、其時は必ず侍医を相伴に招かるゝを先規とせり、故に侍医を命せらるゝ時は、夫々の諸侯より、兼て頼みのこと申越て、厚く報謝ありしなり、故に侍医たる家にては、盆暮毎に錠銀を車に積みて、両替するを栄誉とし、左も無き時は、互に恥て思ふ事のよしに聞けり、
 大猷公の比にや、井伊掃部頭大老職たり、ある年大病にてすでに危篤なりしを、奈須玄竹といふ侍医、療治して全快したれば、其挨拶として金千両を贈りたり、(古の千両は、当時万両にも對すべしといふ、)余り仰山なる謝儀なりとて、受納可致哉と伺書差出たるに、上意に大老の性命を救ひたるは、千両にても猶軽しとありて、別に上より千両も賜りたり、是より医師に酬せる薬礼、千両迄は受納して苦しからずと、医家申伝へなり、(喜多村香城『五月雨草紙』慶応四年成)

御匙法印:法印というのは僧の位の一つ。僧位は法印・法眼・法橋とあり、僧官は僧正・僧都・律師がある。医師は僧ではないので僧官ではなく、僧位のみを受ける。法印は医官の最上位。御匙というのは将軍付きの医師。

天保十二年には次のような町触も出されている。
近来医師之供方風義一躰ニ悪敷相成、病家え罷越候度毎ニ、酒料或は弁当代と唱、金銀を乞請候由相聞え、病躰ニより候而は時刻并風雨等之無差別相招、療治受候事有之候ニ付、病家之心得を以供方之者共え手当致遣し候を受納候は格別ニ候得共、供方之者ともよりねだりケ間敷義申出候は有之間敷筋ニ而、小身又は身上不如意等之者は療治請候義難成、右は畢竟家来え之申付方不行届故ニ而、以来右様之義無之様厳敷可被申付置候
  十一月
右之通御医師中え相達候間、此趣町方医師共えも可被申付置候

前書御書付之趣、従町御奉行所被仰渡候間、組合申継、町方医師共え不洩様触達可致候
  丑十一月廿日


 薬の中で薬用人参は高価なことで知られているがどれほどだったのかよく分からない。人参自体の値段は分かるが一日に普通どのくらの量を使うのかがわからないので一日の費用が知れない。
輸入に頼っていたため輸入量の減少で市場払底となり高値になった。そのため国内での栽培が始まったようである。
 明和元申年(1764)閏十二月
 朝鮮種人參之儀は世上人參彿底故、末々之軽者共は病用之節もたやすく難相用、病気不本復もの多有之候ニ付、日本ニて可致出来候は、万民御救之事故、先々 御代朝鮮國え人參種被遊御所望、野州今市辺ニて御作らせ、其效能御ためし有之候處、全朝鮮人參ニ不相替候ニ付、何卒沢山ニ作出し、末々之者迄も行届候様ニ種々被遊御世話候、其後陸奥國ニても作初、段々増長致し候ニ付、御製法被 仰付、諸人為御救、神田紺屋町ニ人參座相建、望之者は相渡、幷別紙名前之者共下売被 仰付、関八州、陸奥、信濃、東海道筋、京、大坂迄売弘候、右御製法人參之儀、所々ニてためし候處、至て效能宜段粗相聞候、先達て広東人参暫通用有之候處、右品は人參之效能は無之段決定致し、商売停止被 仰付候、此度御製法人參之儀は、国々在々病用為御救、右下売之者え売弘申候、且又在方ニては紛敷人參も商売致し候段相聞候間、紛敷儀為無之、人參座より封印致し、下売之者共え相渡、封申候儘売弘させ候間、其旨触知する者也、
右之通、国々在々え不洩様可被相触候、
  閏十二月

「先々 御代」とあるのは八代将軍吉宗のことである。そしてこの時(明和元申年)の値段は

 上人参半両目ニ付   代金一両
 竝人参半両目ニ付   代金弐分
 肉折人参半両目ニ付  代銭壱貫文
 細髭人参半両目ニ付  代銭六百文
  但、竝肉折細髭は小半両包五分包共相渡、(『御触書天明集成』)
一両は薬の場合4匁であるから、半両は2匁、小半両は1匁、五分は0.5匁である。

 天明四亥年(1784)七月には朝鮮種人参を刻んで袋に入れたものも売り出している、
 壱両入  代銭六百文
 半両入  同 三百文
 小半両入 同 百五拾文
 五分入   同 七拾弐文
 (同書)

驚くほど大量に使った例もある。しかも国内栽培が始まる前のことである。

元禄七年(1694)
一 宗対馬守様御病気付て、九月朔日に人じん〔参〕百廿八匁御用被成候由。十日時分は八拾目に成候。其後五十めになり候へば、其儘元気御おとろへ被成候故、又八拾目御用成候由。(『元禄世間咄風聞集』)

この宗対馬守は 義倫(よしつぐ)で、朝鮮人参の大量投与のかいもなく九月二十七日、二十四歳で没っしたという。
これは宗対馬守だからできたことである。江戸時代の貿易は徳川幕府の独占で長崎において阿蘭陀と中国を相手に行われた。その他に三カ所幕府公認の貿易があったようである。薩摩島津家が行う琉球貿易、 松前家が行う蝦夷貿易、そして対馬の宗家が行う朝鮮貿易である。朝鮮との交易は薬種が中心で朝鮮人参は宗家の一手販売であったという。

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