落語の中の言葉85「医者」上
六代目三遊亭円生「紺屋高尾」より
お玉が池の先生が久蔵を見舞うところで、久蔵は見るものがみんな高尾に見えるといい、
「こうやって話をしていると、先生の顔が……」「気味の悪い男だな。こんなお前、坊主頭の高尾てエのがあるか」。
江戸の医者は多くが剃髪であったらしい。
京坂の医師は惣髪で前に曲げて普通の髷のようにしていたという。江戸の漢方医でも古法家は惣髪だったという。江戸の町医者の定番スタイルは剃髪・羽織(夏でも)・脇差である。(右図)
従って女犯僧などが吉原通いをする際は医者に化けた。
吉町へ行くにはまねをせずとよし(誹風柳多留一五篇)
吉町はカゲマ(即ち男色)であるから僧のままでよい。
愚僧化してハ医者になるおもしろさ(誹風柳多留二一篇)
薬箱もたぬ斗〔ばかり〕にさまをかへ(誹風柳多留一二篇)
医者に似たものが壱人であるく也(誹風柳多留二〇篇)
いつからそうなったかについてはいろいろ言われている。二三紹介すると
武家の医官が剃髪することはどうやら室町時代に始まって、徳川家もそれを踏襲したようである。江戸の町医はそれをまねたものであろう。
藪医者という言葉もよく出てくる。落語では下手なのが知られているので普段は誰も頼むものがなくひっそりしているが、風邪などが流行ると風邪ぐらいならと頼みに来る者がある。風邪が流行るとざわざわするところから藪医者だという。さらにそこから派生してタケノコ医者というのもある。まだ藪にもなっていない、これから追々成長して藪になろうという。
ただ、ヤブは野巫が正しいという説もある。
ところで江戸時代の身分は大きく分ければ武士とその他である。そのなかで医者の身分はちょっと変わっている。
たとえば、「乗物」で取りあげたように慶長二十年(1615)の最初の武家諸法度では御免の後乗輿可であったものの次の元和三(1617)年六月の武家諸法度では
と、一門之歴々・大名・国持大名之息・城主及侍従以上之嫡子と並んで「医陰之両道」は乗物を許されている。そして医者はその後もずっと乗輿できた。
また、吉原の大門を乗物で入れるのは医者だけである。
吉原土手から大門に行く衣紋坂のところに高札があり、それには次のように書かれていたという。(庄司勝富『異本洞房語園』享保五年(1720)自序)
一、医師之外、何者に寄らず、乗物一切無用たるべし、
附、鑓、長刀、門内へ停止たるべき者也、
五月
これは正徳元年に建て替えられたもので、その前も内容は変わらず、
「何者によらず。馬轎は医陰の外これをゆるさず。ならびに鑓。長刀門内へかたく停禁たるべし」というものであった(「常憲院殿御実紀」巻六 天和二年十一月の条)
また
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お玉が池の先生が久蔵を見舞うところで、久蔵は見るものがみんな高尾に見えるといい、
「こうやって話をしていると、先生の顔が……」「気味の悪い男だな。こんなお前、坊主頭の高尾てエのがあるか」。
江戸の医者は多くが剃髪であったらしい。
幕府以下諸大名ともに薙髪〔ていはつ〕の臣あり。御同朋また御坊主と云ふ。幕府にては将軍に給仕するあり、または御霊屋に仕ふあり。また諸大名以下殿中にて雑務を命ずあり。大名の坊主もこれに准ず。凡〔すべ〕て雑務は武士にては便ならぬことある故に、中世以来これを設くるなり。かの輩薙髪を本とすれども、弱年の時は左図(上)のごとくに髪を束ね、年長じて薙髪するなり。また修験者にもこの風と薙髪と二様あり。山伏には年長にもこの風あり。(中略)江戸の方言にこの髪風を「くわひのとつて」と云ふ。慈姑の芋に似たる故の名なり。(中略)月代をしないものを惣髪という。惣髪にも髻〔もとどり〕をしないもの(図はなし)、髻をしても前に曲げないもの、髻をして前に曲げるもの、普通の髷のようにするものなどがあったようである。
その他総髪の者は京坂の医師、山伏なり。江戸は山伏にも往々これあり。医師は惣髪稀にて大略薙髪なり。(喜田川守貞『守貞謾稿』巻之九)
京坂の医師は惣髪で前に曲げて普通の髷のようにしていたという。江戸の漢方医でも古法家は惣髪だったという。江戸の町医者の定番スタイルは剃髪・羽織(夏でも)・脇差である。(右図)
従って女犯僧などが吉原通いをする際は医者に化けた。
吉町へ行くにはまねをせずとよし(誹風柳多留一五篇)
吉町はカゲマ(即ち男色)であるから僧のままでよい。
愚僧化してハ医者になるおもしろさ(誹風柳多留二一篇)
薬箱もたぬ斗〔ばかり〕にさまをかへ(誹風柳多留一二篇)
医者に似たものが壱人であるく也(誹風柳多留二〇篇)
いつからそうなったかについてはいろいろ言われている。二三紹介すると
医者僧官にて参内は、尊氏の時士仏が始なり、治部卿法印などゝ卿名を付て呼は、門跡の内に治郎卿を兼る法親王あれば、其内の坊官の法印は治部卿などゝ付て云なり、殿法印良忠などは、二条殿下の子なるにより殿の字をつく、大納言律師など云は、親の官を上にをきて呼也。(黒川道祐『遠碧軒記』上之三 延宝三年(1675)序)
医師剃髪の始。文官、武官、医と三つに分れ、和気、丹波両氏典薬頭となり、其外以医道得名者、或正三位、正四位に被叙、昇殿して其品不卑。中比、和気尚成子明重ト云者、叙四位、為典薬頭、又為施薬院使被聴院内昇殿、任宮内少輔且称甲斐守。称美餘ニ法躰シテ同官ノ上座居シム。号宗鑑。丹波ノ重長ガ養子タルニ依テ、丹波ノ医マデ極テ人ヲ治ス事不少。不歴僧綱シテ被聴直綴白袴ヲ是則医師法躰始也。(加藤曳尾庵『我衣』巻九 文化十一年(1814))
後小松院の御宇、半井炉(驢)庵事和朝之医師僧官始のよし。右は最勝王経天女品に、聊沐浴するの薬剤有之、其頃は右之経文比叡山の仏庫に封じ有るを、閲見の望みありて奏聞有し故、叡山へ勅命有りしに、俗体の者拝見を禁じければ、半井炉(驢)庵法体して僧官を賜り、右最勝王経を一覧致しけるとかや。往古はかゝる事も有りしやと、且最勝王経の薬法、強而〔しいて〕利益有るものにも非ずと思ふ由、さる老医の物語なりき。(根岸鎮衛『耳嚢』巻之一)
医家に和家、丹家の両流あり。和家は半井、丹家は兼康の流也。これは漢朝より此国に来り、丹州の矢田村に地を賜りすみし人なれば、丹家といふ也。半井は和気の清麻呂のすゑにして、本朝医家の宗也。天暦の帝の時より、典薬の頭を兼、累代に及ぶ。丹家も此官を相続す。上池院、寿命院、竹田法印の家などを五家に定て、五典薬といふとぞ。典薬の頭は、相当従五位下、唐名を大医令といふ。これ医道の極官也。近代医家剃髪して、僧綱を叙する事、鹿園(苑カ)院殿よりこのかたの事と聞えし。(岡西惟中『一時随筆』天和三年(1683))
武家の医官が剃髪することはどうやら室町時代に始まって、徳川家もそれを踏襲したようである。江戸の町医はそれをまねたものであろう。
藪医者という言葉もよく出てくる。落語では下手なのが知られているので普段は誰も頼むものがなくひっそりしているが、風邪などが流行ると風邪ぐらいならと頼みに来る者がある。風邪が流行るとざわざわするところから藪医者だという。さらにそこから派生してタケノコ医者というのもある。まだ藪にもなっていない、これから追々成長して藪になろうという。
ただ、ヤブは野巫が正しいという説もある。
世俗未熟の医をさして藪医といふ。本源野巫〔やぶ〕医にて、薬功にまた咒〔まじな〕ひ加持等を加へて、病を療する医なり。麁末の医にかぎるべからず。(菊岡沾凉『本朝世事談綺』享保十八年(1733)序)
医の祖たる、大己貴命、少彦名命ましますをも曾てしらず。神農・亦、薬師を念ずる俗医も見及ぶ。寺嶋良安のいへるは、凡以傭医、俗に野巫医と称す。或は云、其名義出於天台止観。蓋シ野巫は祭主の卑賤 ノ者唯解一術救一人ヲ、以為シ上己有奇方之類下也。欲セハ為ント大医一遍覧衆治ヲ廣療諸疾ヲ可以得道ヲと書たり。亦、庭訓往来に薮薬師(くすし)と見へたり。(加藤曳尾庵『我衣』巻五 文化六年(1809))
野巫医の事、天台の止観を引たるもよしといへども□医の方よからん。抑治国平天下の時にあひて、萬民融通に自在あればこそ、薬種も多く渡来しは、或は薬店にて丸散の自由も出来たり。いにしへはかゝる事もなし。藪沢の医師は、製薬さへ心の儘ならねば、治捜根、天門冬などの類いは、そこ爰の藪に入て求めしよし、古き書にも見へたり。官医大医はいざしらん、一通りの医は、自身に採薬して製したるに極れり。藪を尋て薬草をもとめしより卑賤の医師を藪医と称したるは、庭訓往来の此の風俗甚尤と聞ゆ。彦亀考誌
ところで江戸時代の身分は大きく分ければ武士とその他である。そのなかで医者の身分はちょっと変わっている。
たとえば、「乗物」で取りあげたように慶長二十年(1615)の最初の武家諸法度では御免の後乗輿可であったものの次の元和三(1617)年六月の武家諸法度では
一乗輿者、一門之歴々、国主、城主、壱万石以上幷国大名之息、城主及侍従以上之嫡子或年五拾以上或医陰之両道、病人免之、其外禁濫吹、但免許之輩者格別也、至諸家中之者、於其国撰其人、可載之、公家、門跡、諸出世之衆者制外之事、
と、一門之歴々・大名・国持大名之息・城主及侍従以上之嫡子と並んで「医陰之両道」は乗物を許されている。そして医者はその後もずっと乗輿できた。
また、吉原の大門を乗物で入れるのは医者だけである。
吉原土手から大門に行く衣紋坂のところに高札があり、それには次のように書かれていたという。(庄司勝富『異本洞房語園』享保五年(1720)自序)
一、医師之外、何者に寄らず、乗物一切無用たるべし、
附、鑓、長刀、門内へ停止たるべき者也、
五月
これは正徳元年に建て替えられたもので、その前も内容は変わらず、
「何者によらず。馬轎は医陰の外これをゆるさず。ならびに鑓。長刀門内へかたく停禁たるべし」というものであった(「常憲院殿御実紀」巻六 天和二年十一月の条)
また
南北の両町奉行は毎年一回必らず、相伴って吉原の遊廓を巡回することを慣例とせり。而して当時町奉行の儀杖として鎗を持たせ長棒駕籠に乗りたること勿論なれど、彼の大門外に至れば尋常一様かの高札の文面に辟易して下乗したるも可笑しく、鎗もまた大門外の供待所に留め置き、ただ看る肩衣の扮装凛々しく徒歩にて入廓せり。この時かの面番所に控へ居る与力同心岡引等は尽く土下座をなし廓内の名主月行事五人組等は袴羽織跣足にて出で迎へ廓内の仕事師等は喝道〔したにいろ〕の声勇ましく金棒引きて先導をなし、各楼主は各々その軒下にて跪拝し巡回中は廓中の鳴ものを禁ずるをもてさしもの歌吹海も闃〔げき〕として音なかりしとなん。さて奉行は横町に至るまで残る隅なく一巡し去るに過ぎずして、既に廻り終れば会所(大門内の右側)に立還りて茶菓の饗応を請け、それより帰途につくを例とせり。かの賢奉行たりし遠山金四郎(後に左衛門尉)が遊女某のために「オヤ金ちゃんだよ」と呼ばれたることは前には町奉行所に於ての事なりしが如く記せしも、一説にはこの巡回のとき廓内の旧知已に垣間見せられ、今日の町奉行は昔年冶遊の金チャンなりしことを看破せられしなりとも云ふ。(『江戸町方の制度』)
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