落語の中の言葉82「玉屋」
三代目桂三木助「たがや」より
三木助師匠は咄の枕にオチの伏線として「玉屋アー」という花火の誉め方を出し、また玉屋と鍵屋と二軒の花火屋があったが、玉屋は自家火を出して御取潰しなった。それなのに大概は鍵屋と云わずに玉屋と云うといって狂歌をあげている。
橋の上玉屋玉屋の人の声、なぜか鍵屋と云わぬ情(錠)無し
(左の図は『江戸名所図会』両国橋。)
鍵屋と玉屋は並び立つ花火屋だったという。『東都歳事記』(天保九年刊)には五月二十八日の両国橋の夕涼みのところに「鍵屋・玉屋の花火は今にかわらず。また小舟に乗じて果物など商ふを、俗にうろうろ船といふ。」とある。
天保十四年五月、主立った花火屋十五軒をあげてそれ以外の兼業も含めた花火屋を書き上げるよう定世話懸名主から指示が出されている。そこに列挙された十五軒のうちのはじめの五軒をあげると、次の通り。
①吉川町・忠左衛門店・玉屋市兵衛、 ②横山町・家主・鍵屋弥兵衛、 ③同人方同居・栃屋喜三郎、 ④神田小柳町三丁目・家主不知・虎屋市兵衛、 ⑤鮫ヶ橋谷町・家主不知・近江屋甚兵衛、
従前の書類によっているためであろう最後の所に
「但、前書名前之者住所等当時相替居候も難計、是又御取調御持寄可被成候
五月七日 定世話懸」 (『江戸町触集成』第十四巻)
とある。玉屋の火事があったので花火屋を調べたのであろうか。
三田村鳶魚氏は『江戸の春秋』で次のように述べている。
「四月十七日、吉川町花火商玉屋出火して所払ひとなり、誓願寺前へ移る。」と補足している。
また喜多村香城も『五月雨草紙』(慶應四年(1868))で
『慎徳院殿御実紀』巻七によると日光社参は、
(首途)「十三日卯中刻(午前六時)大広間の御車寄より、御乗物たてまつる。」
(還御)「廿一日 御所に還御ならせたまふ。時は申の下刻ばかり(午後五時頃)なり。」であり、また四月十七日のところに「この日両国橋広小路火あり。」とある。吉川町は両国広小路にあったからこの火事は玉屋の出したものであろう。
『藤岡屋日記』(『日本都市生活史料集成二』三都篇Ⅱ)には吉川町で出火して2年も経たない弘化二年(1845)三月二日の条に
「浅草誓願寺門前花火屋玉や弥兵衛より出火致し五六軒焼る也。」とある。吉川町で火事を出した時、当主市郎兵衛は中風で寝ていたというから代替わりしたのであろうか。
前書等の記載が正しいとすれば火事を出して「取りつぶされた」わけではなく、処分は所払であり、誓願寺前へ移って花火屋を続けたが従前のようにはいかずに転業したことになる。
『藤岡屋日記』には玉屋への申渡が採録されているので紹介すると、
上記には「取払」とあるが元々「取」なのか誤植なのかわからない。玉屋に関するWeb上の記載には「江戸から追放」「江戸追放」などとあり、なかには「江戸所(処)払い」という意味不明のものもある。江戸の町方の追放刑には遠島から所払まで数種ある(御定書百箇条百三条)。軽い順に三つあげると所払、江戸払、江戸拾里四方追放となる。付加刑はさておき、お構い場所だけを比べると次の通り。
所 払 在方は居村、江戸町人は居町払
江戸払 品川、板橋、千住、本所、深川、四ッ谷大木戸より内御構。
但町奉行支配場限り
江戸拾里四方追放 日本橋より四方え五里つゝ
そもそも江戸時代には失火しても普通は所払にはならなかったようである。御定書百箇条の六十九条に「出火に付而之咎事」があり、そこでは出火が平日であるか御成の日(御成日朝より還御迄之間)であるか、また類焼の範囲が①小間拾間以下②小間拾間より以上③三町より以上の区分によって咎が違っている。(例によって以下以上の使い方が厳密でなく拾間・三町がどちらに入るのか不明) これを表にすると次の通り。御成日の方が重い処分となっている。
平日 御成日
小間拾間以下 A A
小間拾間より以上 B C
三町より以上 C C
A:不及咎 小間拾間以下では平日・御成日ともに咎は申し付けられない。
B:火元(類焼之多小に寄、三十日二十日十日) 押込
C:火元 五十日手鎖
火元之地主・家主・月行事 三十日押込
火元之五人組 二十日押込
風上弐町、風脇左右弐町ツツ六町之月行事 三十日押込
手鎖とは「其掛りにて、手鎖懸、封印付、五日目切に封印改。百日手鎖之分は、隔日封印改」
押込とは「他出不為仕戸を建寄置」
燃えたのが二十八間であるから半町ほどで、普通の日であれば火元は押込、御成日であっても五十日手鎖のはずで、出火したのが日光社参の時であったため所払になったようである。日光社参はときどきしか行われておらず、天保十四年(1843)の前は安永五年(1776)、その前は享保十三年(1728)である。江戸では冬春つまり十月から三月晦日までは大火の多い季節で特別厳重に防火に努めるよう毎年触れが出されている。日光社参は四月であるが幕臣が大挙して従うので江戸が手薄になり、町方へは冬春以上に防火を厳重にするよう命ぜられる。天保十四年の場合ははっきりしないが、
日光御留主中、火之元厳重ニ被仰渡候ニ付、町々見廻番屋致し詰切候間、飯料壱人前一昼夜凡百三拾六文宛之当ニ致、町入用不相懸様申合致置候処、……
四月九日 世話懸
取締懸
日光御参詣還御相済候ニ付、今日より町々中番御免并此度取建候木戸竹矢来之分は勝手次第引払可申候、尤自身番屋勤方其外之義、冬春之通可相心得候、此旨町中早々可相触候
四月廿一日 町年寄役所
とあることから、番屋に昼夜幾人か詰め切りであったことや通例は三月いっぱいで御免になる中番が還御まで置かれていたこと、また特別に木戸や竹矢来が設置されたことがわかる。
特別に念を入れるべきときに失火したために御定書以上の刑に処せられたものと思われる。
ついでに云うと、朝鮮通信使が江戸に来たときにも日光社参とほぼ同様の火の元極厳重警戒が命ぜられる。延享五年五月、朝鮮通信使江戸逗留中に本銀町の家主吉兵衛の召使源七が、物置として使っていた裏店で提灯の蝋燭から火を出した。火は屋根へ燃え抜けたけれども他へ類焼はしなかった。通常の日であれば「咎に及ばず」のはずであるが、厳重に警戒すべき時であったため、源七は手鎖、吉兵衛は押込、町内は小間壱間に付き銀十五匁の過怠に処されている。(『江戸町触集成』第五巻)
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三木助師匠は咄の枕にオチの伏線として「玉屋アー」という花火の誉め方を出し、また玉屋と鍵屋と二軒の花火屋があったが、玉屋は自家火を出して御取潰しなった。それなのに大概は鍵屋と云わずに玉屋と云うといって狂歌をあげている。
橋の上玉屋玉屋の人の声、なぜか鍵屋と云わぬ情(錠)無し
(左の図は『江戸名所図会』両国橋。)
鍵屋と玉屋は並び立つ花火屋だったという。『東都歳事記』(天保九年刊)には五月二十八日の両国橋の夕涼みのところに「鍵屋・玉屋の花火は今にかわらず。また小舟に乗じて果物など商ふを、俗にうろうろ船といふ。」とある。
天保十四年五月、主立った花火屋十五軒をあげてそれ以外の兼業も含めた花火屋を書き上げるよう定世話懸名主から指示が出されている。そこに列挙された十五軒のうちのはじめの五軒をあげると、次の通り。
①吉川町・忠左衛門店・玉屋市兵衛、 ②横山町・家主・鍵屋弥兵衛、 ③同人方同居・栃屋喜三郎、 ④神田小柳町三丁目・家主不知・虎屋市兵衛、 ⑤鮫ヶ橋谷町・家主不知・近江屋甚兵衛、
従前の書類によっているためであろう最後の所に
「但、前書名前之者住所等当時相替居候も難計、是又御取調御持寄可被成候
五月七日 定世話懸」 (『江戸町触集成』第十四巻)
とある。玉屋の火事があったので花火屋を調べたのであろうか。
三田村鳶魚氏は『江戸の春秋』で次のように述べている。
玉屋と鍵屋朝倉無声は斎藤月岑の『武江年表』天保十四年(1843)四月のところに
船宿・料理屋の出し合い花火、といっただけで、もう豪勢な感じがなくなる。豪勢ではなくても、出し合い花火を川開きに打ち揚げたので、とにかく、町人花火が江戸に栄えました。
鍵屋弥兵衛の話に、祖先が大和の篠原村から万治元年に江戸へ出て、御浜御殿の狼煙方〔のろしかた〕の打揚げを見て、玩具花火を拵え、享保二年の水神祭の夜に、余興として献上花火を打ち揚げました。これが後の川開き大花火の起原になったという。元禄版の『重宝記』にさえ、花火の製法が書いてあるほどですから、割合に早く、花火の工夫は種々に回らされていたものと思われる。鍵屋は、その頃一流の工夫に成功していたかにみえます。鍵屋と並んで、江戸の双璧といわれた玉屋市郎兵衛は、六代目の鍵屋の番頭清吉を別家させたので、その玉屋も、天保十四年四月十七日の夜、両国横山町市郎兵衛宅より出火、半町ほども焼けました。その時は十二代家慶将軍の日光御社参中でありましたので、玉屋は追放の処分を受け、家名が絶えまして、花火の褒め言葉にのみ、「玉屋、鍵屋」と呼ばれるのを、その名残りとしなければならない成行きになりました。
「四月十七日、吉川町花火商玉屋出火して所払ひとなり、誓願寺前へ移る。」と補足している。
また喜多村香城も『五月雨草紙』(慶應四年(1868))で
玉屋は愼廟日光御社参の御留守中、火の元別て念入る可しとの命を粗略にし、自火を出したる罪を以て、居所を遂れたれば、他所に移りて業を営みしが、皆再び顧る者無なり、終に断て他業に遷れり、と書いている。
『慎徳院殿御実紀』巻七によると日光社参は、
(首途)「十三日卯中刻(午前六時)大広間の御車寄より、御乗物たてまつる。」
(還御)「廿一日 御所に還御ならせたまふ。時は申の下刻ばかり(午後五時頃)なり。」であり、また四月十七日のところに「この日両国橋広小路火あり。」とある。吉川町は両国広小路にあったからこの火事は玉屋の出したものであろう。
『藤岡屋日記』(『日本都市生活史料集成二』三都篇Ⅱ)には吉川町で出火して2年も経たない弘化二年(1845)三月二日の条に
「浅草誓願寺門前花火屋玉や弥兵衛より出火致し五六軒焼る也。」とある。吉川町で火事を出した時、当主市郎兵衛は中風で寝ていたというから代替わりしたのであろうか。
前書等の記載が正しいとすれば火事を出して「取りつぶされた」わけではなく、処分は所払であり、誓願寺前へ移って花火屋を続けたが従前のようにはいかずに転業したことになる。
『藤岡屋日記』には玉屋への申渡が採録されているので紹介すると、
卯年(天保十四年)五月廿九日
両国玉屋火事一件
申渡
吉川町忠左衛門地借
市郎兵衛
其方義、火之元之義は前々より厳敷申渡有之、殊此度日光御参詣に付、別而入念候様召仕共へ申付置候旨は申立候得共、当四月十七日之夜、奉公目見に参り居候左吉義、幼年者故無弁花火之口火に用候紙緌を火入之火へ移置、火燃走り見世に積置候花火江火移り出火に及ひ、長凡二十八間余、幅平均六間半程類焼致候段、五ヶ年来中風にて起臥不相成、渡世向は召仕に為任置候とは乍申、火薬を取扱候渡世に有之上は格別入念可申付所、畢竟申付方等閑より事及出火之始末不届に付、取払(本のママ)申付もの也。
上記には「取払」とあるが元々「取」なのか誤植なのかわからない。玉屋に関するWeb上の記載には「江戸から追放」「江戸追放」などとあり、なかには「江戸所(処)払い」という意味不明のものもある。江戸の町方の追放刑には遠島から所払まで数種ある(御定書百箇条百三条)。軽い順に三つあげると所払、江戸払、江戸拾里四方追放となる。付加刑はさておき、お構い場所だけを比べると次の通り。
所 払 在方は居村、江戸町人は居町払
江戸払 品川、板橋、千住、本所、深川、四ッ谷大木戸より内御構。
但町奉行支配場限り
江戸拾里四方追放 日本橋より四方え五里つゝ
そもそも江戸時代には失火しても普通は所払にはならなかったようである。御定書百箇条の六十九条に「出火に付而之咎事」があり、そこでは出火が平日であるか御成の日(御成日朝より還御迄之間)であるか、また類焼の範囲が①小間拾間以下②小間拾間より以上③三町より以上の区分によって咎が違っている。(例によって以下以上の使い方が厳密でなく拾間・三町がどちらに入るのか不明) これを表にすると次の通り。御成日の方が重い処分となっている。
平日 御成日
小間拾間以下 A A
小間拾間より以上 B C
三町より以上 C C
A:不及咎 小間拾間以下では平日・御成日ともに咎は申し付けられない。
B:火元(類焼之多小に寄、三十日二十日十日) 押込
C:火元 五十日手鎖
火元之地主・家主・月行事 三十日押込
火元之五人組 二十日押込
風上弐町、風脇左右弐町ツツ六町之月行事 三十日押込
手鎖とは「其掛りにて、手鎖懸、封印付、五日目切に封印改。百日手鎖之分は、隔日封印改」
押込とは「他出不為仕戸を建寄置」
燃えたのが二十八間であるから半町ほどで、普通の日であれば火元は押込、御成日であっても五十日手鎖のはずで、出火したのが日光社参の時であったため所払になったようである。日光社参はときどきしか行われておらず、天保十四年(1843)の前は安永五年(1776)、その前は享保十三年(1728)である。江戸では冬春つまり十月から三月晦日までは大火の多い季節で特別厳重に防火に努めるよう毎年触れが出されている。日光社参は四月であるが幕臣が大挙して従うので江戸が手薄になり、町方へは冬春以上に防火を厳重にするよう命ぜられる。天保十四年の場合ははっきりしないが、
日光御留主中、火之元厳重ニ被仰渡候ニ付、町々見廻番屋致し詰切候間、飯料壱人前一昼夜凡百三拾六文宛之当ニ致、町入用不相懸様申合致置候処、……
四月九日 世話懸
取締懸
日光御参詣還御相済候ニ付、今日より町々中番御免并此度取建候木戸竹矢来之分は勝手次第引払可申候、尤自身番屋勤方其外之義、冬春之通可相心得候、此旨町中早々可相触候
四月廿一日 町年寄役所
とあることから、番屋に昼夜幾人か詰め切りであったことや通例は三月いっぱいで御免になる中番が還御まで置かれていたこと、また特別に木戸や竹矢来が設置されたことがわかる。
特別に念を入れるべきときに失火したために御定書以上の刑に処せられたものと思われる。
ついでに云うと、朝鮮通信使が江戸に来たときにも日光社参とほぼ同様の火の元極厳重警戒が命ぜられる。延享五年五月、朝鮮通信使江戸逗留中に本銀町の家主吉兵衛の召使源七が、物置として使っていた裏店で提灯の蝋燭から火を出した。火は屋根へ燃え抜けたけれども他へ類焼はしなかった。通常の日であれば「咎に及ばず」のはずであるが、厳重に警戒すべき時であったため、源七は手鎖、吉兵衛は押込、町内は小間壱間に付き銀十五匁の過怠に処されている。(『江戸町触集成』第五巻)
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