落語の中の言葉81「放し亀」
五代目古今亭志ん生「後生鰻」より
咄のまくらに「放し亀」が出てくる。自分の功徳や先祖供養のために放たれる生き物は亀のほかは鰻や雀が多かったようである。
広重の『江戸名所百景』中の「深川万年橋」に描かれた亀も「放し亀」のように思われる。ただ不思議な絵である。買った亀を放そうとしているところだとすると手桶の柄に糸が結ばれているのが解せないし、放し亀を売っていると見るには疑問がある。手桶の柄では何匹もつり下げることはできないから売るには不都合であろうし、だいいち江戸時代には橋の上での商いや物乞いは御法度である。
慶安元年(1648)二月町触
一橋之上ニ諸商人乞食置申間敷事
万治三年(1660)五月町触
一方々橋之上ニ而振売之商売物を置、あきない致候間、両四ツ角之者共名主月行事相改、以来置申間敷候、重而振売之者参り候ハヽ、売物を取上可申之旨、其者共ニ為申聞、其上ニ而押而参候者於有之は売物を取、此方江可申来候、勿論道々橋之上掃除可仕事
五月
右は子五月廿八日御触、但四角之家主并名主月行事手形差出之
『江戸名所図会』の挿絵「俤のはし」には橋のたもとに放し亀等を売るものが描かれている。横に渡した棒からつり下げられているのは亀で、下に置かれた籠に入れられているのはおそらく雀で、盥は鰻であろう。
放しうなぎも太いのを撰て居る (誹風柳多留 二〇篇)
はなし亀一日宙をおよいでる (誹風柳多留 二十一篇)
善人が有ので亀がむごくされ (誹風柳多留拾遺 三篇)
はなし鳥こしのぬけたハほうり上 (誹風柳多留 十四篇)
亀はこの図のようにして売られていたようである。たしかに「むごくされ」である。
放し鳥も徳川将軍家になると規模が大きい。大御所家重が宝暦十一年六月十二日死去しすると七月二十四日に放ち鳥が行われた。その数二千羽。
宝暦十一年(1761)七月
覚
一明廿四日御放之鳥御用之小鳥、銘々致持参候義、此間再応申渡し候通、弥今晩より支度致し、明ヶ七ッ時、増上寺山内池徳院江参着之積り、鳥数并刻限少も間違無之様、猶亦入念、急度可被申付候、尤小鳥持参之節、銘々家主共附添可被罷出候、依之尚又相触候、 以上
七月廿三日 町年寄三人
小鳥都合弐千羽、所々小鳥屋共より御買上ニ相成候事 (『江戸町触集成』第六巻)
放し亀とは別に神社やお寺に鳥を奉納したり放したりすることも行われていた。現在、神社仏閣に群れているのは鳩ばかりであるが、江戸時代には鶏がいたようである。
この浅草寺境内の鶏を盗んだという話もある。
鶏がいたのは浅草寺ばかりではない。芝神明の鶏を盗むはなしも同じ『耳嚢』に載っている。
小動物を放つことについては、二つの話がある。一つは五代将軍綱吉の時、例の「生類憐愍」で鳥の飼育が禁止されたのに伴うもの。
貞享四年(1687)三月
覚
一生鳥類飼置候儀可為無用、但にわ鳥あひるのたくひ、其外唐鳥の類、野山にすまさる鳥ハ、放候ても餌にかつへ可申候間、先其分ハ養置可申候、たまこうみ候内ハ能飼そたて、夫々所望之方江可遣事
一鶏ハそんさかし候分ハ売買無用之事
一亀飼置候儀一切無用之事
一いけすの魚仕置売買無用之事
右之趣堅相守可申、於令違背ハ可為曲事者也
卯三月 町年寄三人
公儀が飼育していた鷹の類もすべて放たれた。『常憲院殿御実紀』によれば、黄鷹・鷂は入間郡高麗郡と川越に、鷹は新島へ。
また「鳥」(鳥とあるだけなので種類は分からない)は数十回にわたって主に伊豆大島・神津島・新島へ、その他鹿島香取や伊勢の桑名へも放たれている。
もう一つの話は、江戸城内に棲みついている猫・鼠・蛇などの放逐についてである。氏家幹人氏が紹介しているところによると、江戸末期大奥女中などが飼っている鳥や金魚などへの被害が大きくなると、これらを罠を使って捕獲し、殺すことはせず特定の場所に放したという。猫は佃島、鼠は「明地」や回向院、そして蛇は一つ目弁財天。(『これを読まずに「江戸」を語るな』)
殺生を忌む気風はなかなか強かったようである。
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咄のまくらに「放し亀」が出てくる。自分の功徳や先祖供養のために放たれる生き物は亀のほかは鰻や雀が多かったようである。
広重の『江戸名所百景』中の「深川万年橋」に描かれた亀も「放し亀」のように思われる。ただ不思議な絵である。買った亀を放そうとしているところだとすると手桶の柄に糸が結ばれているのが解せないし、放し亀を売っていると見るには疑問がある。手桶の柄では何匹もつり下げることはできないから売るには不都合であろうし、だいいち江戸時代には橋の上での商いや物乞いは御法度である。
慶安元年(1648)二月町触
一橋之上ニ諸商人乞食置申間敷事
万治三年(1660)五月町触
一方々橋之上ニ而振売之商売物を置、あきない致候間、両四ツ角之者共名主月行事相改、以来置申間敷候、重而振売之者参り候ハヽ、売物を取上可申之旨、其者共ニ為申聞、其上ニ而押而参候者於有之は売物を取、此方江可申来候、勿論道々橋之上掃除可仕事
五月
右は子五月廿八日御触、但四角之家主并名主月行事手形差出之
『江戸名所図会』の挿絵「俤のはし」には橋のたもとに放し亀等を売るものが描かれている。横に渡した棒からつり下げられているのは亀で、下に置かれた籠に入れられているのはおそらく雀で、盥は鰻であろう。
放しうなぎも太いのを撰て居る (誹風柳多留 二〇篇)
はなし亀一日宙をおよいでる (誹風柳多留 二十一篇)
善人が有ので亀がむごくされ (誹風柳多留拾遺 三篇)
はなし鳥こしのぬけたハほうり上 (誹風柳多留 十四篇)
亀はこの図のようにして売られていたようである。たしかに「むごくされ」である。
放し鳥も徳川将軍家になると規模が大きい。大御所家重が宝暦十一年六月十二日死去しすると七月二十四日に放ち鳥が行われた。その数二千羽。
宝暦十一年(1761)七月
覚
一明廿四日御放之鳥御用之小鳥、銘々致持参候義、此間再応申渡し候通、弥今晩より支度致し、明ヶ七ッ時、増上寺山内池徳院江参着之積り、鳥数并刻限少も間違無之様、猶亦入念、急度可被申付候、尤小鳥持参之節、銘々家主共附添可被罷出候、依之尚又相触候、 以上
七月廿三日 町年寄三人
小鳥都合弐千羽、所々小鳥屋共より御買上ニ相成候事 (『江戸町触集成』第六巻)
放し亀とは別に神社やお寺に鳥を奉納したり放したりすることも行われていた。現在、神社仏閣に群れているのは鳩ばかりであるが、江戸時代には鶏がいたようである。
○北野のほととぎす 喜丸作八幡山とは京都の石清水八幡のある男山(別名鳩の峰)のことであろう。
北野天満宮、浅草にて開帳につき、鳴け聞こふといわれし時鳥も、御供に参りしが.境内の鶏あまた、いづれも江戸生まれのなんかん(生意気「なんか」の訛り)なれば、はりこみをくわせて(どなりつけて)、心安くならず。時鳥も、両国あたりを飛んで歩いて帰る道に、八幡山に住みける鳩にあひ、「これは久しや。こなさんは、どこにいさんす」。はと「おれは五六年前、屋敷へ飼はれ、それから浅草の寺内へはなされた。今はもふ江戸ものになつたぞへ」(後略)(烏亭焉馬撰『落噺 詞葉の花』寛政九年刊)
この浅草寺境内の鶏を盗んだという話もある。
浅草観音にて鶏を盗みし者の事浅草寺に鶏が多かったのには訳があるらしい。酉の市は浅草のほかに足立区花畑(江戸時代は花亦村)の鷲神社も江戸時代から有名で人出も多かったという。そしてそこにはこんな話がある。
浅草観音堂前には、所々より納鶏・鳩など夥敷、参詣の貴賤米・大豆等を調ひ蒔て右鶏に与へ候事也。天明五年師走の事成しに、大部屋中間の類ひなりしや、脇差をさし看板ひとつ着したる者、右鶏を二つ捕へ〆殺して持帰らんとせしを、境内の楊枝見世其外の若き者共大勢集りて、「憎き者の仕業也」とて、衣類・下帯迄を剥取棒しばりと云ふものにして、右衣類を脊に結付脇差も同様にして、殺せし鶏を棒の左右に付て、大勢集りて囃し立花川戸の方迄送りし由。(後略)(『耳嚢』巻之二)
正一位鷲大明神社 花亦村にあり。この地の産土神とす。祭る神、詳らかならず。本地は釈迦如来にして、鷲に乗ずる体相なり。別当は真言宗にして正覚院と号す。(中略)当社を世俗、浅草観音の奥の院と称す。(中略)
当社に毎歳十一月酉の日祭りあり。世に酉のまちといふ。まちは祭りの略語なり。この日近郷の農民、家鶏〔にわとり〕を奉納す。翌る日納むるところの家鶏を、ことごとく浅草寺観音の堂前に放つを旧例とす。(後略)(『江戸名所図会』巻之六)
鶏がいたのは浅草寺ばかりではない。芝神明の鶏を盗むはなしも同じ『耳嚢』に載っている。
神明の利益人を以其しるし有る事文化十一年(1814)より百年近く前の享保四年(1719)に江戸市内を歩き回った記録(辻雪洞『東都紀行』)にも飯倉神明宮(芝神明)で腰兵糧の残りを「むれ居し鶏にあたふれば、犬も亦来りてあさる」とあるので、鶏が放たれたのも随分前からのようである。
文化十一戌年の春の事なりし、神明境内には納鶏多く有りしを、或時境内の町屋にて米を搗居し舂屋の男、密に右鶏を〆殺し前垂れに包み、傍の木の枝に掛置しは、誰も知らざりしが、同丁並にて屋根を葺居候者是を見、「あなにくし」とも思ひしや、暮時前右の米舂外へ参り候を見請、密に右の鶏を取出し、右代りを尋しに、其辺へ納めし囲の内に有之御祓を入置、鶏は取隠し置しを、彼米搗立帰右の鶏とおもひ前垂をあけ見しに、御祓なれば大きに驚きたる体にて、顔色真青に成、神罰の恐しさにかたへの井の元にて水を浴び、夫にても心不済哉。もとゞりを切、念頃に神明を拝しけるを、屋根葺つくづく見て、是も「よしなきざれ事せし」と後悔し、頓て右米搗たへがたくや有けん、神主の許へまかり、「斯々の事にて我等神前の鶏を殺しけるが、かゝる奇異の事あり。呉々も神明の御罰恐ろし」と、「是より剃髪して諸国修行にまいる」よし申ければ、神主も別当も尤と哀れを催し折柄、彼屋根葺も右荒増を聞て難捨置、同く神主の方へ至て、「しかじかの事也」と申ければ、右米舂大に怒り、「右体人を欺き、恥かゝせる事の憎さ」と。やがて互に掴み合ひしを、別当・社人など引分、「米搗の鶏を殺し候を則大神宮の御祓と引替しは、則神明の御教戒なり。既にこそ米搗もさんげなし過ちを悔るは、則屋根葺の手を借りて神明のしかし給ふ也。夢々争ふべからず」と教喩して、納りしとや。当正月中の事のよし、人の語りぬ。(巻之九)
小動物を放つことについては、二つの話がある。一つは五代将軍綱吉の時、例の「生類憐愍」で鳥の飼育が禁止されたのに伴うもの。
貞享四年(1687)三月
覚
一生鳥類飼置候儀可為無用、但にわ鳥あひるのたくひ、其外唐鳥の類、野山にすまさる鳥ハ、放候ても餌にかつへ可申候間、先其分ハ養置可申候、たまこうみ候内ハ能飼そたて、夫々所望之方江可遣事
一鶏ハそんさかし候分ハ売買無用之事
一亀飼置候儀一切無用之事
一いけすの魚仕置売買無用之事
右之趣堅相守可申、於令違背ハ可為曲事者也
卯三月 町年寄三人
公儀が飼育していた鷹の類もすべて放たれた。『常憲院殿御実紀』によれば、黄鷹・鷂は入間郡高麗郡と川越に、鷹は新島へ。
また「鳥」(鳥とあるだけなので種類は分からない)は数十回にわたって主に伊豆大島・神津島・新島へ、その他鹿島香取や伊勢の桑名へも放たれている。
もう一つの話は、江戸城内に棲みついている猫・鼠・蛇などの放逐についてである。氏家幹人氏が紹介しているところによると、江戸末期大奥女中などが飼っている鳥や金魚などへの被害が大きくなると、これらを罠を使って捕獲し、殺すことはせず特定の場所に放したという。猫は佃島、鼠は「明地」や回向院、そして蛇は一つ目弁財天。(『これを読まずに「江戸」を語るな』)
殺生を忌む気風はなかなか強かったようである。
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