落語の中の言葉78「搗米屋」
五代目古今亭志ん生「搗屋幸兵衛」より
搗米屋というのは今日の米屋さんである。米問屋あるいは仲買から玄米を仕入れて精白し白米を小売りする。搗き賃をもらって精米もしたようである。三代目三遊亭金馬師匠の「狂歌家主」には、狂歌の好きな家主が嫁の里からもらった玄米を搗きにやったが、なかなか搗いてこないので狂歌で催促したら搗いてきたとある。
二斗三斗四斗を遣るのになぜ小糠
うそを搗屋で腹が立臼
搗き方も搗き賃も時代によって変わっている。
また米の行商をする者もあった。
むかしは米にしろ味噌にしろ百文以下では買えなかったものが、その後五十文、三十文でも買えるようになったという。
懐具合を聞かれて「百もない」と答えるところが落語にはよくあるが、物を買う場合の最低金額が百文であった時代の名残であろうか。
米商売については、米の価格を統制しやすくするためであろう、上方や近在からの米の引受は問屋に限られ、また問屋が小売りすることも禁止されていたようである。不作で米の価格が騰貴したり江戸市中の米が払底したときなどは、一時的に解除されている。例えば天保の飢饉の際には次のような町触が出されている。
天保七申年十月
一米下直ニ相成候迄米問屋共仕入米之外、上方筋地廻り共入津之米穀ハ勿論、雑穀等迄問屋仲買ニ不限、素人ニ而も勝手次第直ニ引請、売買可致候、他国取引手広ニ相成候様可致候
天保十亥年十二月
此節ハ米相場下直ニ相成候間、去ル申年十月申渡以前之姿ニ立戻り、前々之通上方米地廻り米共、夫々之問屋其外脇々ニ而引受取捌申間敷候、
江戸市中の搗米屋の数は天保五年には二千二百六十八軒であった。
天保五年不作が続いて米の値段が騰貴したとき、窮民救済のため幕府は浅草米蔵の米を市価より格安の価格で放出した。その方法は、市中の搗米屋の数とそこにある臼の数を調べさせ、臼の数に応じて玄米を搗米屋に売り渡し精米させる。一方名主に困窮者の数を調べさせ、切手札を発行させる。搗米屋にはその切手札を持参した者にだけ仕入価格で白米を販売させるというもの。その時幕府が払い下げた玄米が一万七千五百石、値段は三十五石、四十三両。一割五分搗き減りする(搗賃がでるよう多めにしたものと思われる)ものとして白米にして一万四千八百七十五石。困窮者の数は四十四万六千四百九十四人。一人当たり三升三合三勺で価格は三百十八文。一両=六貫六百文として計算している。
困窮者の数は町奉行所支配だけのものでしかも三歳以下の者は除外されているから44万6494人というのにも驚く。このとき搗米屋にあった臼の総数は5,878である。単純平均は1軒あたり2.6となる。大多数が3臼以下であったことがわかる。
「搗屋幸兵衛」の搗米屋は家内が何人かわからない。「幾世餅」では親方と清蔵それに小僧のようであるからおそらく臼は2つであろう。「ざこ八」では潰れたざこ八を鶴吉が再興し、臼を八十八、鉤の手の据えたといっているが(三代目桂三木助・九代目入船亭扇橋師匠の咄。八代目林家正蔵(彦六)師匠の咄では主人公の名前も違い、臼の数も出てこない)、この八十八は嘘八百や旗本八万騎と同様沢山という意味であろう。
深川江戸資料館には天保の終わり頃の深川佐賀町の一角が当時の沽券図を参考にして実物大で再現されている。そのなかに搗米屋もある。主人のほかに通いの職人が二人という設定で店がつくられている。図は左の通り。唐臼二つに臼が一つ、それに搗米屋に必須の千石通し。この辺が標準的な搗米屋の姿のように思われる。
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搗米屋というのは今日の米屋さんである。米問屋あるいは仲買から玄米を仕入れて精白し白米を小売りする。搗き賃をもらって精米もしたようである。三代目三遊亭金馬師匠の「狂歌家主」には、狂歌の好きな家主が嫁の里からもらった玄米を搗きにやったが、なかなか搗いてこないので狂歌で催促したら搗いてきたとある。
二斗三斗四斗を遣るのになぜ小糠
うそを搗屋で腹が立臼
搗き方も搗き賃も時代によって変わっている。
理斎曰、われらおぼえてまで、玄米を舂かするに、一斗にて十八文廿文廿四文、至極吟味して、しろくするには三十舂と申がかぎりにてありし処、だんだん舂賃たかく成り、今は三十二文舂にするは一番下直にて、おしなべ四十づき、五十づき、近ごろは六十四文、七十二文などにをのをの舂する也。(志賀理斎『三省録』巻之二 天保三年序)
また米の行商をする者もあった。
兵庫屋弥兵衛・松屋四郎兵衛成立〔なりたち〕の事
兵庫屋弥兵衛・松屋四郎兵衛とて当時浅草花川戸にて相応に米商売いたし、伊勢町・小網丁にも屋敷を持て有徳の町人あり。右の者の成立を聞に、借屋住居して始は舂米を買出して桶に入、荷ひて町方裏々へ商ひけるが、裏々にて其日過〔すぎ〕の者は一升二升調ひ候事成らざる者もあり。五合・三合の米を米屋へ調ひに行兼るにより、壱合・弐合づゝせり売(=行商)せしは右両人より初しとや。右両人後には有徳の米屋と成ぬれ共、今以せり売の者を右両家よりは出しける。其訳は米商ひの義は、相場を重もにいたし候者なれば、日々裏々へ廻りて下賤の祖母・婦女の申事を耳に止め、或ひは上りを得んとおもふ時は、米を買入などする事米商ひの専一也。右手段には裏々の商ひ程よきはなしと或人の語り侍べる。(根岸鎮衛『耳嚢』巻之二)
むかしは米にしろ味噌にしろ百文以下では買えなかったものが、その後五十文、三十文でも買えるようになったという。
世につれて人の才智に成事
三人寄れば文殊の智恵、うまき物は人数なし、と云、往古、万物高直にして、飢饉の節は人多く死す、今思へば、第一智恵なくして、米、味噌、毎日入用買求るに、米百文より内にては売もせず、買にも行れず、味噌も同じ事也、百文が買て、味噌、塩、薪はなく、こまり果けるとなり、ケ様に不自由故人々難儀しける、今は人の気が、商人の気も買手の工面よし、百文にては、米、味噌、薪、塩を買、又残して、油、附木を買、日々を暮すに依て、迷惑せず、第一、ケ様成せちがらき事仕出すは、能場にはあらじ、橋本町願人あり、町家端々乞食などある町家より出る、冬瓜の切売、肴の切売自由なり、(以下略) (『江戸真砂六十帖』)
懐具合を聞かれて「百もない」と答えるところが落語にはよくあるが、物を買う場合の最低金額が百文であった時代の名残であろうか。
米商売については、米の価格を統制しやすくするためであろう、上方や近在からの米の引受は問屋に限られ、また問屋が小売りすることも禁止されていたようである。不作で米の価格が騰貴したり江戸市中の米が払底したときなどは、一時的に解除されている。例えば天保の飢饉の際には次のような町触が出されている。
天保七申年十月
一米下直ニ相成候迄米問屋共仕入米之外、上方筋地廻り共入津之米穀ハ勿論、雑穀等迄問屋仲買ニ不限、素人ニ而も勝手次第直ニ引請、売買可致候、他国取引手広ニ相成候様可致候
天保十亥年十二月
此節ハ米相場下直ニ相成候間、去ル申年十月申渡以前之姿ニ立戻り、前々之通上方米地廻り米共、夫々之問屋其外脇々ニ而引受取捌申間敷候、
江戸市中の搗米屋の数は天保五年には二千二百六十八軒であった。
天保五年不作が続いて米の値段が騰貴したとき、窮民救済のため幕府は浅草米蔵の米を市価より格安の価格で放出した。その方法は、市中の搗米屋の数とそこにある臼の数を調べさせ、臼の数に応じて玄米を搗米屋に売り渡し精米させる。一方名主に困窮者の数を調べさせ、切手札を発行させる。搗米屋にはその切手札を持参した者にだけ仕入価格で白米を販売させるというもの。その時幕府が払い下げた玄米が一万七千五百石、値段は三十五石、四十三両。一割五分搗き減りする(搗賃がでるよう多めにしたものと思われる)ものとして白米にして一万四千八百七十五石。困窮者の数は四十四万六千四百九十四人。一人当たり三升三合三勺で価格は三百十八文。一両=六貫六百文として計算している。
困窮者の数は町奉行所支配だけのものでしかも三歳以下の者は除外されているから44万6494人というのにも驚く。このとき搗米屋にあった臼の総数は5,878である。単純平均は1軒あたり2.6となる。大多数が3臼以下であったことがわかる。
「搗屋幸兵衛」の搗米屋は家内が何人かわからない。「幾世餅」では親方と清蔵それに小僧のようであるからおそらく臼は2つであろう。「ざこ八」では潰れたざこ八を鶴吉が再興し、臼を八十八、鉤の手の据えたといっているが(三代目桂三木助・九代目入船亭扇橋師匠の咄。八代目林家正蔵(彦六)師匠の咄では主人公の名前も違い、臼の数も出てこない)、この八十八は嘘八百や旗本八万騎と同様沢山という意味であろう。
深川江戸資料館には天保の終わり頃の深川佐賀町の一角が当時の沽券図を参考にして実物大で再現されている。そのなかに搗米屋もある。主人のほかに通いの職人が二人という設定で店がつくられている。図は左の通り。唐臼二つに臼が一つ、それに搗米屋に必須の千石通し。この辺が標準的な搗米屋の姿のように思われる。
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