落語の中の言葉77「六代横綱阿武松」下

 前回は六代横綱・阿武松という言葉の中の、「六代横綱」についてであったが、今回は阿武松緑之助について。
 阿武松は文政十一年(1828)二月に吉田司家から横綱を免許されている。谷風・小野川が横綱免許を受けた寛政元年(1789)から実に三十九年後である。この横綱免許に対し、「相撲の家」を名乗る五条家がクレームをつけたという。
年寄が阿武松を同道して五条家に詫びをいれて落着したかにみえたが、同年七月、こんどは五条家が稲妻雷五郎に横綱を免許し、それに吉田司家がクレームをつけた。主家細川家の権勢をも動員した吉田司家に、五条家は結局屈し、以後横綱免許をださないとの一札をとられて決着、稲妻には二年後の文政十三(一八三〇)年九月に吉田司家からあらためて横綱が免許されている。
ただしこの間の文政十三年三月の上覧相撲では、稲妻は横綱土俵入りを披露しており、幕府にせよ江戸相撲にせよ、いずれか一方にくみすることはしていない(新田一郎『相撲の歴史』1994)

 文政十三年三月廿三日の上覧相撲は中入前五十六番、中入後五十六番の取組があり、結びは阿武松と稲妻で、阿武松が勝って弓を受けている。この勝負については次のような話がある。
文政十三(一八三〇)年の上覧相撲に際して、東西両大関の阿武松緑之助対稲妻雷五郎の結びの一番で、稲妻の突っ掛けを阿武松は「待った」してうけず、再度の立合の末、阿武松が勝った。これについてあとから将軍家斉が「稲妻の気勝ちではないのか」とたずね、行司・年寄が「不調法書」をさしだしている(このときの行司は木村庄之助)。吉田追風は最初の寛政三(一七九一)年と、二度目の同六年の上覧相撲で行司をつとめたが、以後の機会には自身もその後継者も出仕しなかった。(同書)

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ここに「東西両大関の阿武松緑之助対稲妻雷五郎」とあるのは、明治の中期まで番付の最上位は大関であり、横綱は番付とは直接関係はなかったからである。
阿武松・稲妻両人が横綱免許後の天保二卯年の番付は左の通り。

 ついでにいうと、初代から三代の横綱と同様、根拠のない言葉に「国技」がある。


明治末期に、人気力士の輩出に加え、「国粋」的風潮を追い風として、ある程度安定した観客動員をみこめると判断した東京相撲協会は、悪天候でも興行に影響のでない常設相撲場の建設にふみきったのである。
 明治四十二(一九〇九)年五月、両国元町に落成した常設館は、六月二日の開館式に際し「国技館」と命名された。名称は直前まできまらず、板垣退助が提案した「尚武館」とする案も有力であったというが、開館式のために相撲好きの作家江見水蔭の起草した披露文に「相撲は日本の国技なり」とする一節があるのに年寄尾車(元大関大戸平)が着目して、「国技館」の名称を提案した、といわれている。相撲を「国技」とする言説が世間にひろくおこなわれるのは、じつはこれより後のことなのである。(同書)
山本博文氏も「つまり、相撲が『国技』だというのは、まったくの美称であり、僭称でもあるのである。」(「相撲取りの生活」、鳶魚江戸文庫『相撲の話』)と述べている。

 ところで阿武松はよく負けたらしい。『藤岡屋日記』には次のようにあるという。
回向院様
 初日 取組        御所島 阿武松
   大綱で引けばたをるゝ阿武松 おこしてやれや何も御所島
 二日目          阿武松 出来山
 三日目          外ケ浜 阿武松
   三日取り中一日は出来山で 団扇は御所島外が浜かな
   あらそわぬ柳も今は阿武松 吹きちらしたる外が浜風
   長州では阿武松 角力では這ふのまつ
   阿武松抱へて見れば枯れた松 元の柳で置けばよかつた
   阿武松けふも土俵へたおれけり 長州まけて太夫腹だつ
 四日目          取らず
 五日目          阿武松 頂 引分ケ
       落し咄し
 見物皆々頂の勝なりとて、着物をなげる中ニ、親父壱人、阿武松へ着物をなげしが、たもとより太中庵の二竜丹出る。親父、是を阿武松ニなめさせて、どふぞせきをやめさせてくだせへ。
 六日目       預り 阿武松 東関
 七日目
 八日目          阿武松 緋縅
   小柳を染返したる大の松 洗ひ直して緋縅に勝ち
      預り
   東関土俵ニ聴きし大の松 売買ならぬ京の預り
      不取休
   春日山登りに見ゆる阿武松 一寸休ミし両国の茶や
      あらし
   阿武松注連も餝も押したおし 外が浜辺の御所の島風
      松に駒
   大の松結び付けたる荒馬に はねかゑされて切れる横綱
      勝
   あら玉の年の始めは大の松 緑りかさなる注連餝よし (鈴木裳三『江戸巷談藤岡屋ばなし』)
「藤岡屋日記」の此の記載について鈴木裳三氏は
「回向院の角力興行の形式で作った落書ということになろうか。結局は、阿武松をからかうために、角力興行の形を借りて、よく負けると、ひやかしたものではないのか。」
と述べている。
阿武松と稲妻の幕内成績を比べると
  阿武松 142勝31敗24分8預1無 勝率0.821 優勝(優勝相当成績5回)
  稲 妻 130勝13敗14分3預1無 勝率0.909 優勝(優勝相当成績10回) 
     (「相撲」編集部編『大相撲人物大事典』)
因みに谷風梶之助の幕内成績(同書)をあげると
      258勝14敗16分16預5無 勝率0.949 
谷風は現役で死去した。享年四十四。現代とは随分違う。

 阿武松について『大相撲人物大事典』は次のように書いている。
取り口は典型的な四つ相撲で、力士としての実力をそなえていたばかりでなく、その人柄は温厚で、長者の風格があり義理堅く、情に厚かったと言われる。

仕切が慎重なため「待った」が目立った。引退後にただちに江戸年寄の列には加わらず、天保14年暮れに正式に加入。多くの弟子たちを育成。相撲会所の重鎮となった。年寄阿武松の初代である。
最後に阿武松と稲妻の姿絵をあげる。
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