落語の中の言葉76「六代横綱阿武松」上

          六代目三遊亭円生「阿武松」より

 「阿武松」のなかで円生師匠は、深川八幡境内に横綱力士の碑があり、そこには初代明石志賀之助、二代綾川五郎次、三代丸山権太左衛門、四代谷風梶之助、五代小野川喜三郎、六代阿武松緑之助と彫られていると云っている。七番目の横綱は稲妻雷五郎である。ただ初代から三代までは根拠のあいまいな一つの説にすぎない。四代谷風以降は確かなようである。
力士碑.jpg

 明石志賀之助が初代とされたのは、彼が江戸勧進相撲の始祖といわれてきたからであろう。ただこれもまた、正しいかどうかわからない。
古川三樹『江戸時代の大相撲』(昭和十七年刊)には、『相撲大全』を引用して
「江戸勧進ずもふの始は、人皇百八代後水尾院の御宇・寛永元年のとし、明石志賀之助といへるもの、初て寄相撲と号、四ッ谷塩町において、晴天六日興行いたせしが最初なり。今宝暦十三未年まで、百三十九年に及ぶ、其後故あって三十七年間中絶し人皇百十一代後西院の御宇・寛文元丑年すまふ年寄申合、御願申上、御赦免有しより相続す、今年迄百三年と成る。」
と記したあとに、次のように述べている。

その当時に於て明記された信頼すべき記録が存在してゐない。そして、相撲に関する最古の記述とはいっても、寛永度からは更に百余年を隔てた宝暦刊行の「相撲大全」に記述してあるのみであるから之も根本史料とすることは尚不充分なのである。

また飯田昭一氏は明石志賀之助考の最後のところに
以上のように「明石志賀之助」と云う日ノ下開山初代横綱が実在したのか、又、時代は何時ごろなのかは今もって明らかでない。(『史料集成江戸時代相撲名鑑』上 2001.9 )
と述べ、
同じく綾川五郎次・丸山権太左衛門については
「綾川五郎次」が二代目横綱となったのは、勿論その時期は分からないが寛政元年に「谷風梶之助」と「小野川喜三郎」の横綱免許申請の身上書に『今は焼失して無いけれども、昔、丸山権太左衛門と綾川五郎次も申請した』と当時の年寄り共が云っていたと書いてあることによるらしい。又、明治に入り「陣幕久五郎」が「横綱力士碑」を建立した際の碑面に「第二代横綱・綾川五郎次」とした為と思われるのである。(同書)
と書いている。
したがって、横綱免許を受けたことがはっきりしてる谷風梶之助を初代横綱と考える人もいる。
横綱免許は寛政元年仙台侯の抱相撲谷風梶之助に與へたるが初めなり、最も東京相撲の外は京都大坂の相撲と雖も免許せし事無し、当今大坂の八陣京都の大碇等の横綱は吉田が免許の横綱にあらず、明治の初年朝日嶽が野見宿禰の後裔なる子爵五条為栄〔ためよし〕より與へたるは朝日嶽と梅ケ谷(雷)而巳
 免  許
 一横綱之事
 右者谷風梶之助依相撲之位令授與畢依頼片屋入之節迄相用可申候
 仍如件

   寛政元酉年十一月十九日
      本朝相撲之司御行司十九代
          吉 田 追 風  判 朱印

     證  状
 当時久留米御抱
 小 野 川 喜 三 郎
 右小野川喜三郎今度相撲力士故実門弟召加候仍證状如件
   寛政元酉年十一月十九日
(鎗田徳之助『日本相撲伝』明治三十五年)

谷風が横綱免許を許された日に小野川喜三郎は追風の「故実門弟」になったのであり、横綱免許を受けたのは同年十二月という。
 この谷風と小野川が寛政三年六月の上覧相撲で相対し、取り組まずに谷風の勝ちとなっている。
その勝負の様子について山本博文氏は、細川家に残された『寛永三年六月十一日於吹上相撲上覧有之 吉田善左衛門(追風)被差出一件書類』に基づいて次のように述べている。(引用者註・追風は熊本細川家に召し抱えられていた)
まず、小野川の突っ掛けに行司追風の「待った」がかかった。
仕切直しの後、谷風が突っ掛け小野川が「待った」をした瞬間、追風は「勝負あった」と軍配を谷風に上げた。
この軍配には、将軍からの御尋ねがあった。
追風は、次のような書付を御徒目付へ直接提出した。吉田司家の権威を確立する書付である。今まで正確に紹介されたことがないからまず原文で掲げ、現代語訳してみよう。
    覚
谷風小野川勝負之儀、最初取組候共、行司合声無之内之事故、引分ケ、取組せ直シ候節、行司合声を懸候処、小野川油断ニ而取組不申候、右油断之過を以、任古例小野川負ケニ取計申候、以上
  六月十一日       吉田善左衛門
追い風によると、「最初は行司が声をかけていないのに小野川が突っ掛けたので待ったをかけた。そして再度の取組の時、行司が声をかけたにもかかわらず、小野川に油断があって取り組まなかった。この小野川の油断のゆえに、古例に任せて小野川の負けとした」ということであった。(山本博文「相撲取りの生活」、鳶魚江戸文庫『相撲の話』)
山本博文氏はこの勝負について次のようにも述べている。
ところで、上覧試合で負けとされた小野川は、久留米藩有馬中務太輔のお抱え相撲取りであったが、有馬家より依頼されて追風に入門している。あるいは上覧相撲の取組は、追風が弟子の小野川に因果を含めて行った八百長ではなかったのか。追風の薫陶を受けていれば、小野川が真剣勝負に待ったをするというのは考えにくい。また、追風が自分の弟子に負けを宣言するのも妙である。陰陽の道をもってする相撲の故実を宣伝するために、追風は小野川に待ったをかけさせたのではないか。もとより根拠はないが、このような推測もできるような上覧相撲の一こまであった。(同書)

谷風と小野川についてはまた別の話もある。
明和のころより谷風といふ角力取世に名高く、関東方の大関と成。其頃是に及ぶものなしと、又九州方に小野川といふあり。江州大津産にて、久留米のかゝえなり。一体は谷風に対すべきにあらず。谷風とはねを取る時は、たちまち土俵の外へはね出さるゝゆへ、谷風一生此手をとらず。又長く揉合ふ時は、小野川ちからつかれて、必押出さるゝ故、行司其程を見はからひて引分とし、勝負を決する事なし。しかれば此時に当りて、谷風に対して、是程の間も相手になるものなければとて、小野川を九州がたの大関と定めて、勧進元の花とせり。小野川身の重さ三十五貫目、しかも其秘妙手ありし。少しの透もある時は、谷風といへども勝手あり。寛政のはじめより両人の角力盛りにて、見物群集し、暁七半時より相撲場に居所なきほど充満して、皆夜の明るを待居たり。寛政三亥年六月十一日吹上の御庭にて相撲上覧あり。詰合の布衣以上役人をはじめとして見物仰付られて、御番方は当番のうちより二日代りに見物す。此日谷風と小野川取組有り。勿論谷風勝て弓をもたせて帰りたり。其後また上覧ありし。此時もおなじ取くみなりしが、小野川とてもかなひがたくやおもひけん。場所までは出しかども、俄煩ひにて御断申上たり。日頃牛頭の勢ひなるに、如何して斯は臆しけるにやと、其故をたづねければ、外にての相撲とちがひ、上覧の節は引分ケといふ事は曾て成がたし。いつ迄も勝負の分るまでとり結ぶゆへ、かくは御断申上しよし申輩も有しなり。(著者未詳『梅翁随筆』巻之五)
「其後また上覧ありし」と言っているのは、三年後の寛政六年四月九日浜御庭で行われた上覧相撲で百十三番の取組があり、結びが谷風と小野川であったが小野川病気に付き代わりに九紋竜が対戦し九紋竜が勝っている。行司は吉田善左衛門(『半日閑話』巻二十二)
また「上覧の節は引分ケといふ事は曾て成がたし」とあるが、寛政六年四月九日の上覧相撲では、百十三番中四番に勝者の印がない(『半日閑話』)。但し印付け落ち又は翻刻の際の誤植の可能性もある。文政六年四月三日の上覧相撲では百十四番中四番に「無」の記載がある。(『巷街贅説』)
 『宝暦元来集』巻十六には決まり手が記されており勝負なしの四番には
熊鷹対鳥の海 四ッ組、左右共倒、勝負無
源氏山対岩見潟 勝負なし、相倒れ、
荒汐対滝の川 無勝負
鶴見崎対浦ヶ濱は取組の記載なし(引用者のミスか)。
文政十三年三月廿三日の上覧相撲にも百十二番中引分二番、無勝負二番がある(『巷街贅説』)。相撲は詳しくないので「引分け」「勝負無」「預かり」がどういうものなのか知らない。ただ相撲の様子を述べるところに
勝負相分候得ば、勝角力の方へ行事団扇を揚げ、誰と大言に名乗を呼上げ申候、尤取組に寄勝負不決て、又怪我仕候得ば相伺不申、直に行司見計候て引分け申候、(『宝暦現来集』巻十六)
と書かれている。
長くなったのでここでいったん切って、続きは(下)に。

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