落語の中の言葉67「旅と歩き」
五代目柳家小さん「二人旅」より
上方落語には旅の噺が多いのに較べ、江戸落語には少ないようである。この「二人旅」も上方から移されたものらしい。どこへ行く旅なのか噺のなかには出てこない。
江戸時代の旅といえば、歩くのが基本。移動手段としては馬と駕籠、それに場所によっては船があるだけである。旅に限らず歩くのが主であるから、たいそう脚も丈夫だったようである。
旅といっても大名の参勤交代は軍旅である。加賀前田家の場合

年寄りの物見遊山でも一日に相当の距離・時間を歩いている。例えば、文政12年4月13日、六十七、八歳になる釈敬順は「連合〔ツレアイ〕の比丘尼と老婆」と三人で竹しま町(現在の文京区水道)を辰の刻(現在の午前8時頃)に出発して、川口善光寺の開帳へ出かけている。庚申塚を通り飛鳥山を逍遥して扇屋で昼食をとり、十条、赤羽を通り、開帳のために架けられた仮橋を一人3文づつ払って渡り、善光寺参詣、さらにその先の「川口宿の南裏通り釜屋の井戸、又は爐韛〔タヽラ〕鋳形の様子などを両人の老婆に見せ、本宿へ出酒樓にしばらく憩ひ」、帰りも仮橋を渡り、赤羽台から縁切り榎へ出て中山道に入り、板橋宿から波切り不動を経て「黄昏の頃竹しま町の寓居へ帰宅」した。6里強の道のりと思われる。
江戸時代の人は歩き馴れていることもあり健脚だったことは確かであるが、それだけであろうか。着る物も履き物も道の状態も現在とは違うなかで、これだけ歩いたということは、現代の我々とは歩き方が違っていたのではないかとも思われる。ただ、どういう歩き方をしていたのかはわからない。
ひとつ言えることは、現在、行進のときに見られる足をあげ大きく腕を振って歩く歩き方は、明治になって軍事教練に西欧から導入され、それが学校教育を通して一般化したものらしい。江戸時代に腕を振って歩くことは異様なものと見られ、嘲笑の対象とされていた。
ただ、左足を振り出したときに、右腕を前に出すことは自然なことであるという。
我々の歩き方は人様々である。理想的な歩き方も、人から見て美しい歩き方、エクササイズとしての歩き方、体に負担をかけない歩き方はそれぞれ別であろう。効率的な歩き方として指摘されていることをあげると
一方でエクササイズウオーキングといって、歩行をエクササイズ(運動)にするための歩き方が、広がっているようである。時々見かけるが、曲げた臂を大きく振って歩く姿は見慣れないせいもあって違和感を禁じ得ない。運動量を増やすためのポイントは三つあって、歩行距離・歩行速度・歩行姿勢であるという。エクササイズによいとされる歩き方は、
①少し速く歩く ②少し大股で歩き踵着地 ③腕を曲げ大きく振って歩く
である。そしてさらに、歩行速度を上げなくてもエクササイズウオーキング以上の運動量の得られる歩き方(ニューエクササイズウオーキング)も推奨されている。そのポイントは、
①上体を引き上げて歩く(おなかを引き締め、背すじを伸ばす)
②胸を張って歩く(あごを引いて、肩を下げる)
③一直線上を意識して歩く(つま先少し外向きで、膝を伸ばして踵着地)
④後足で地面を強く押し出して歩く(少し大股で股関節を過伸展)
である。腕の臂を曲げて大きく振る必要はなく、また「歩行速度を上げることなく、腕振りも自然ですので、街中でも人目を気にせず行うことができ」るという(岡本勉・香代子『ニューエクササイズウオーキング』2004年)。
エクササイズはわざと体に負担をかけることであるから、これらと逆の歩き方が体に対する負担が少ない歩き方ということになるのであろうか。だとすれば
①小股で歩く
②胸を張らない(やや猫背で歩く)
③膝を曲げて歩く
④2直線上を歩く(左右の足の外側が平行線上、つま先が外向きにならない)
⑤地面を蹴り出すのではなく、身体の重心の移動が先行
ということになるが、はたしてどんなものであろうか。
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上方落語には旅の噺が多いのに較べ、江戸落語には少ないようである。この「二人旅」も上方から移されたものらしい。どこへ行く旅なのか噺のなかには出てこない。
江戸時代の旅といえば、歩くのが基本。移動手段としては馬と駕籠、それに場所によっては船があるだけである。旅に限らず歩くのが主であるから、たいそう脚も丈夫だったようである。
成人男子の一日の平均歩行距離は一〇里と言われていて、事実、当時の人びとは雨が降っても、雪が降っても、一日に一〇里近くは歩いている。例えば江戸から京都までは一二六里(「五駅便覧」による)。今ではこの距離を、新幹線「のぞみ」でたった二時間一五分で行き着いてしまうが、江戸時代は、一二泊一三日で行くのが基準にされていた。武士ならもっと早足で、一日一一里か一二里は歩く。(金森敦子『伊勢詣と江戸の旅』)
旅といっても大名の参勤交代は軍旅である。加賀前田家の場合
ルートは北国下街道を最も多く利用し百七十九回、次いで中山道の五回(参勤二回交代三回)、東海道の四回(交代のみ)であった。北国下街道ルートは現在のJR北陸・信越・高崎線沿いの道であり、信濃追分で中山道と合流した。金沢~江戸の距離百二十里(約四百八十㎞)を行列は通常十二泊十三日で歩いたのである。しかし、この日数よりも少ない時もあったし、十五泊十六日かかったこともあった。北国下街道筋には、最大の難関「親不知子不知」があって高波で足止めされたこともあり、また、幅五m以上の河川が八十四本流れており、「川留め」されることも珍しくなかった。(石川県立歴史博物館『参勤交代』平成三年)その人数も概ね二千人程で
文政十年(一八二七)の行列付によると直臣百八十五人、陪臣八百三十人、小者等の奉公人六百八十六人、宿継人足二百六十八人の千九百六十九人で、この他に家中の馬三十二疋、駅馬百八十八疋であった。(同資料)河川の船渡しも多かったであろうから、二千人もの人や二百頭もの馬を渡すには相当時間がかかったはずである。それでも百二十里を十三日ほどで歩いている。左上の図は「加賀藩大名行列図屏風」(部分)
年寄りの物見遊山でも一日に相当の距離・時間を歩いている。例えば、文政12年4月13日、六十七、八歳になる釈敬順は「連合〔ツレアイ〕の比丘尼と老婆」と三人で竹しま町(現在の文京区水道)を辰の刻(現在の午前8時頃)に出発して、川口善光寺の開帳へ出かけている。庚申塚を通り飛鳥山を逍遥して扇屋で昼食をとり、十条、赤羽を通り、開帳のために架けられた仮橋を一人3文づつ払って渡り、善光寺参詣、さらにその先の「川口宿の南裏通り釜屋の井戸、又は爐韛〔タヽラ〕鋳形の様子などを両人の老婆に見せ、本宿へ出酒樓にしばらく憩ひ」、帰りも仮橋を渡り、赤羽台から縁切り榎へ出て中山道に入り、板橋宿から波切り不動を経て「黄昏の頃竹しま町の寓居へ帰宅」した。6里強の道のりと思われる。
江戸時代の人は歩き馴れていることもあり健脚だったことは確かであるが、それだけであろうか。着る物も履き物も道の状態も現在とは違うなかで、これだけ歩いたということは、現代の我々とは歩き方が違っていたのではないかとも思われる。ただ、どういう歩き方をしていたのかはわからない。
ひとつ言えることは、現在、行進のときに見られる足をあげ大きく腕を振って歩く歩き方は、明治になって軍事教練に西欧から導入され、それが学校教育を通して一般化したものらしい。江戸時代に腕を振って歩くことは異様なものと見られ、嘲笑の対象とされていた。
利倉屋庄左衛門は、銀のはりがね元結にて蔵前本田に髪を結ひ、鮫鞘の一腰差て両手を振て、下谷広徳寺前へ通りかゝる折節、髪結床に若い者四五人集り遊び居て、庄左衛門が髪の元結ひ、又は手を振て歩行を見てあざ笑ひけるを、庄左衛門振かへり見て、につくきやつら、何を笑ふといふて髪結床へ這入、上ケ板を取てみぢんに床を打こわせば、髪結の親方ひたすら詫すれど更に聞いれず、腹さんざんに打こわして内に上り、懐中より金子二十両出して、此金にて普請せよと親方に差出す。髪結あきれて、右の金をいたゞきひら過に詫て、其座で済して立帰りけり。都而其比の蔵前者といふは、手を振て歩行を風儀とするは、いかにしても馬鹿々々敷ものとしるべし。(三升屋二三治『十八大通』弘化三年(1846)自序)
ただ、左足を振り出したときに、右腕を前に出すことは自然なことであるという。
ネコの背中を下に腹を上にして落としても、からだをくねらせて、四足で着地する。(中略)着地その他の運動は骨格筋のはたらきによって行なわれ、このように四肢の筋肉におこる反射運動は、姿勢反射と呼ばれる。(中略)ヒトでは、動物ほど強くはないが姿勢反射は残っており、ヒトのいろいろの姿勢はこれにのっとっているものと考えられる。「頸を左に向けると左腕が伸びて右腕が屈曲する」といっても実際に動くわけではなく「調べる筋にあらかじめ弱い随意収縮(放電間隔約0・1秒ぐらい)を加えておいて、(中略)反射による放電間隔の変化をみるという方法で調べたもの」である。
(中略)たとえば、頸反射においては、頸を左に向けると左腕が伸びて右腕が屈曲する。(中略)この姿勢は、頸を左に向け、左腕を伸ばして弓を握り、右肘をまげて矢をつがえている姿勢に似ているから、弓を引く姿勢は頸反射にのっとっているものということができる。
腰反射についても同様であって、腰を右へ回転すると、右腕は曲がり右下肢は伸び、左腕は伸びて左下肢は屈曲する。この姿勢は、歩行時の一瞬、つまり右足で着地して左足をもち上げて振脚にしようとするときの姿勢である。(近藤四郎『足の話』昭和五十四年)
我々の歩き方は人様々である。理想的な歩き方も、人から見て美しい歩き方、エクササイズとしての歩き方、体に負担をかけない歩き方はそれぞれ別であろう。効率的な歩き方として指摘されていることをあげると
あおり(古語では、あふり)とは、接地は踵の外側でまず行なわれ、次いで小趾球、拇趾球の順序で着地し、最後に主に親ゆびと第Ⅱ・第Ⅲの足ゆびで蹴り出しが行なわれて離地するということである。(中略)
足を外から内へ、あおって歩くということは重要である。というのは、親ゆびのつけ根、すなわちボールのところに着地が小ゆび側から移るときに、反対側の足はスムーズに振り出されるからである。エネルギーの消費が少なくてすみ、長道を歩いても、われわれが疲れないもとになっている。(近藤四郎『足の話』)
一番最後に、拇指球と第一指(親指)で支え、足圧の中心がここに集まると「第一指が伸びる」いわゆる、バネが利いて、小さな力や力感で、身体を長く強く押しだしてくれる可能性が高まります。(小山裕史『小山裕史のウオーキング革命』2008年)
脚は上げるのではなく、身体重心の移動が先行し、それに追従するかのように、必要最低限度に上がるのが神経筋制御、運動制御にとって自然な動作です。いまだによく指導される、脚を上げる動作を行うことによる腰や首へのストレスは大変なものです。この脚の動作に「腕を振る」、とりわけ「腕を体側でしっかり振る」動作を加えると、更に首、肩のストレスは増大します。(『小山裕史のウオーキング革命』)
一方でエクササイズウオーキングといって、歩行をエクササイズ(運動)にするための歩き方が、広がっているようである。時々見かけるが、曲げた臂を大きく振って歩く姿は見慣れないせいもあって違和感を禁じ得ない。運動量を増やすためのポイントは三つあって、歩行距離・歩行速度・歩行姿勢であるという。エクササイズによいとされる歩き方は、
①少し速く歩く ②少し大股で歩き踵着地 ③腕を曲げ大きく振って歩く
である。そしてさらに、歩行速度を上げなくてもエクササイズウオーキング以上の運動量の得られる歩き方(ニューエクササイズウオーキング)も推奨されている。そのポイントは、
①上体を引き上げて歩く(おなかを引き締め、背すじを伸ばす)
②胸を張って歩く(あごを引いて、肩を下げる)
③一直線上を意識して歩く(つま先少し外向きで、膝を伸ばして踵着地)
④後足で地面を強く押し出して歩く(少し大股で股関節を過伸展)
である。腕の臂を曲げて大きく振る必要はなく、また「歩行速度を上げることなく、腕振りも自然ですので、街中でも人目を気にせず行うことができ」るという(岡本勉・香代子『ニューエクササイズウオーキング』2004年)。
エクササイズはわざと体に負担をかけることであるから、これらと逆の歩き方が体に対する負担が少ない歩き方ということになるのであろうか。だとすれば
①小股で歩く
②胸を張らない(やや猫背で歩く)
③膝を曲げて歩く
④2直線上を歩く(左右の足の外側が平行線上、つま先が外向きにならない)
⑤地面を蹴り出すのではなく、身体の重心の移動が先行
ということになるが、はたしてどんなものであろうか。
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