落語の中の言葉66「駆込寺」

        五代目春風亭柳朝「駆込寺」より

 自分では締められないと女房お竹に角帯を締めてもらって出かけた亭主が、酔っぱらって帰ってきた時には帯の締め方が違うところから、翌朝夫婦げんかとなる。女房は「今までと違って、いざ鎌倉と言うときには相談に来いという所がある」といって、出て行く。いつもは町内を一回りして戻ってくるのに今回はなかなか戻ってこない。変なことを言っていたなア、鎌倉、鎌倉と言っていると大家さんが来る。夫婦喧嘩の末女房が、いざ鎌倉という時には行くところがあるといって飛び出してなかなか戻ってこないというと、松が岡の東慶寺に駆け込むと離縁になると教えられる。亭主は驚いて連れ戻しに飛び出す。
 女房は長いこと上方へ商いの修行に行っていて最近江戸へ戻ってきた兄のところへ相談に行き、意見をされ戻ってくると亭主がいない。隣のおばさんと話をしていると、途中から話へ加わった人から、亭主はさっき、鎌倉だ鎌倉だとうなされたように言って急いでいたと聞かされる。隣のおばさんから松が岡の東慶寺に駆け込むと夫婦別れしなければならないと聞いた女房は、駕籠で追いかける。亭主は東慶寺の門番に、さきほど渋皮のむけたおつな女が飛び込まなかったかと尋ねると、三十前後のおつな女が飛び込んだと聞かされ、がっかりして泣いている。女房のお竹も到着し門番にうちの亭主が駆け込まなかったかと尋ねる。男が来るところではない、亭主と別れたくて来たのなら捕まらないうちに早く入れと言っているところで亭主と出会う。二人して、よかったと安心したら腹が減ったと話していると、門番は、この寺へ駆け込まずに前の茶店で茶漬けでもかっこんだらいいだろう。

 江戸時代の後期には幕府から認められた駆け込み寺(尼寺)が二ヶ所あった。相州松が岡の東慶寺と上州勢田郡徳川の満徳寺である。
石井良助氏は、「縁切寺の制も、大体において、公事方御定書制定前後を境にして、その内容が違っていたように思われます」。この以前には尼寺(特に男結界=男子禁制であったところは)一般的に縁切寺的な意味を持っていたという。「それがのちに幕府や藩の制度が整備するにつれて、そういう特権が失われたのであり、比丘尼寺についていえば、徳川幕府と特別の縁故を有するもののみに、古例がある程度保存されたものと見るべきでありましょう。そして、このことは寛文延宝ごろに固定したもののように思われます。」と述べている。(『第一江戸時代漫筆』)
江戸時代前半は、女が東慶寺に駈け入ると寺で吟味をし、理由があると認めれば、かならず縁切寺としての特権に基づく離縁(「寺法離縁」)になり、女は二十四ヶ月(足かけ三年)寺に奉公した。
後半期の東慶寺の具体的手続は次のようであったという。
女が駆け入ると寺で吟味の上、女の実家を支配する名主を通して召喚状を出す。実家に夫方と交渉させ、それでも内済離縁が成立しないときは、夫の支配名主あてに寺法書を持って出役する旨の達書を出し、夫方の名主・家主に交渉させる。ここまでで夫が離縁状を出せば内済離縁となり、二十四ヶ月の在寺奉公はしないですむ。それでも内済離縁が成立しないと東慶寺の役人が寺法書を持って出役して、名主・家主等立会のうえで読み聞かせる。夫方は離縁状を出すか、違背書(松が岡の指示に従わない理由を書いたもの)を出す。寺法書を示されただけでまだ封を切っていない段階で離縁状を出した場合には二十四ヶ月の在寺期間が半分になったという。違背書が出されると、東慶寺は寺社奉行に願って夫方から離縁状を出させた。東慶寺の役人が出役した後の離縁状は通常のものとは違う特殊なものである。差出人には家主・五人組が連印し、名主の奥書も必要であった。また宛先も東慶寺(松が岡御所)となっている。
東慶寺所蔵の離縁状が高木侃著『三くだり半と縁切寺』に載っているので紹介する。

   差出申一札之事
一、私妻はる、御山え駈入、離縁御寺法奉願上候ニ付、
 御届之御奉書被成下拝見仕、委細奉畏候、以後右之女
 何方え嫁候共、少も構無御座候、為後日連印差上申候処、
 仍て如件
                 南本所横網町直八店
 文化七午年三月廿八日       夫    佐 兵 衛 ○印
                      家主  直  八 ○印
                      五人組 惣右衛門 ○印
    右之通少も相違無御座候
                      名主  六郎左衛門 ○印
 鎌 倉 松 岡
  御 所 様
   御 役 所

満徳寺の手続きは東慶寺とは別で、離縁状も別形式である。最後のところにあげておく。

古く江戸時代前半期においては、縁切寺における離縁は、寺法離縁のみであったのに対し、その後半期においては、内済離縁が大部分を占め、寺法離縁はむしろ例外的となったのであって、そこに大きな変化を認めることができます。そして、それをさらに考えてみますと、縁切寺の縁切寺たる所以は寺法離縁の制があったことにあるといえますから、内済離縁が主となるにいたっては、東慶寺の機能は斡旋人的なものを多く出るものではなくなったといえましょう。(『第一江戸時代漫筆』)
この変化について高木侃氏は次のように述べている。
アジールの機能がますます衰えたことを意味するが、一方では、縁切寺の制度・機能が周辺に熟知されてくるにしたがって、妻に寺へ駆け込まれたら夫は離縁を承伏せざるをえないと認識されるにいたったことをも意味する。(『三くだり半と縁切寺』)

 ところで、東慶寺と満徳寺は両寺とも千姫(二代将軍秀忠の長女)との関係が伝えられているのも面白い。東慶寺の開基は北条貞時で開山は北条時宗夫人の潮音院殿覚山志道尼である。時宗が亡くなる直前に夫婦そろって出家している。東慶寺の五代目は用堂尼で、後醍醐天皇の皇女で護良親王の姉、足利直義に殺された弟の菩提を弔うために東慶寺に入ったといわれる。それ以来東慶寺は「松が岡御所」と呼ばれるようになる。この用堂尼が離縁のための三ヵ年を二十四ヵ月(足かけ三年)に短縮したという。そして第二十代が天秀法泰尼で、この人は豊臣秀頼の娘(側室の娘)で、大坂落城の後、千姫の養女となって東慶寺に入っている。
徳川家康の命令で、東慶寺に入寺するとき、「なにか願いはないか」と権現様から聞かれて、「自分は囚われの身だから、たいしたこともできないけれど、そうおっしゃられるならば、開山よりの御寺法を断絶しないようにしていただければ、これに過ぎた願いはございません」と答えて、これが許されて江戸時代を通じて縁切寺法が維持されたのだといいます(井上禅定『東慶寺と駆込女』)

 一方満徳寺は、開山は新田義季の娘、義姫で浄念尼である。大坂城から脱出した千姫が入寺したとも、また本多忠刻に再嫁する際に、
自分の腰元の一人、刑部の局という人に身替りに尼さんになってもらい、徳川の満徳寺に入寺させる。これが満徳寺中興の俊澄上人です。それで、豊臣家との縁が切れたという形になって、本多家に再嫁した。
 そうした経験から千姫は、どうしても、一旦は前夫の縁を切って再婚しなければならない立場の人たちをあわれと思って、満徳寺を縁切寺として、特別の寺法をつくったということになっている。(同書)
ともいう。
 因みに、東慶寺は明治三十五年から男僧が住職をする寺となっている。井上禅定氏は男僧住職の四代目で昭和十六年から四十年余東慶寺住職をつとめた方である。
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