落語の中の言葉65「掘抜井戸」

          六代目三遊亭円生「子は鎹」より

 夫婦別れした父親にしばらくぶりに会い、お金を貰った亀坊。母に糸を巻くのを手伝わされるところで、鼻をかむように云われる。
「あたいの洟〔はな〕はすぐ出てきちゃう、かんでも駄目なんダ、あたいの鼻は掘り抜きなんダ」
「何いってんの、井戸じゃないやね、掘り抜きだなんて」

 この「掘抜井戸」、普通の井戸とはどこが違うのであろうか。
三田村鳶魚氏は『江戸ッ子』の中で享保の頃の人で代々の井戸掘りである五郎右衛門の話として次のように書いている。
「すべて掘抜井戸を拵えるには、五間ほど掘っていくと、底には青ヘナという土がある、その青ヘナを竹で突き通していくと、その下に岩がある、この岩に突き当れば手答がある、その手答があった時に、さし込んでいた竹を抜き取れば、いい水が得られる。けれども、これはまだ中水の井戸であって、掘抜ということになると、下の岩を突き通してからでないといけない。」
 節を抜いた竹では下の岩を突き通すことはできず、高い櫓を組んで先に金属をつけた重い道具を使って打ち込んでは引き上げを繰り返して掘ったらしい。しがって掘抜井戸を掘るには大層な金がかかり、江戸の中頃までは数える程しかなかったという。
掘貫井戸の事、先年より有之しが、武家には更になし、金子弐百両程もかゝる事故、大商ならでは掘ざりしにより、彼所に一ッ、爰に一ッ有て、やうやう尋る程に有しが、二三十年以前、大坂より井夫〔イドホリ〕来り、アヲリといふ奇器を以て、無造作に掘る事を覚へしより、価も至て下直也、我知れる極楽水豆腐屋井戸、かわ共三両弐分にて出来し由、向にみつまたといふ湯屋は、最初掘抜せしにより、弐拾両程かゝりし由、夫故にや、近辺第一の井戸となれり、近頃は、江戸中掘抜井戸多くなり、一町の内に三四ヶ所も是あり、(小川顕道『塵塚談』文化十一年(1814)成)
 そもそも江戸は大坂と同じく海を埋め立てたりして出来た土地であるだけに、井戸を掘っても飲み水にできるいい水はなかなか出なかったようである。たまたまいい水が出ると何々の井と名を付けて呼ばれるほどである。戸田茂睡の『紫の一本(ひともと)』巻三(天和三年)には、井の項目に次の九箇所があげられている。
極楽の井(小石川松平播磨守の屋敷の後、宗景寺の前)、蜘の井(四谷自性院の寺内)、堀兼の井(牛込逢坂の下)、柳の井(湯島天神の下)、糀町の井(神田明神の社内)、亀の井(神田、永井甲斐守屋敷内)、亀井戸(天神の近所、百姓家の裏)、油井(源助橋の近所、桑山主水の屋敷内)、策の井(四谷伊賀町の先)
三田村鳶魚氏によるとこのうち七つは湧き水を井戸にしたものだという。
 家康が江戸へ入った当初から飲み水の確保は緊急の課題で、最初は神田川の水と赤坂溜池の水を濾して飲んでいたらしい。
 江戸町水道の事
 見しは昔、江戸町の跡は、今大名町になり、今の江戸町は、十二年以前まで大海原なりしを、当君の御威勢にて南海をうめ陸地となし、町を立給ふ。然るに町ゆたかにさかふるといへども、井の水へ塩さし入、万民是をなげく。君聞召、民をあはれみ玉ひ、神田明神山岸の水を北東の町へながし、山王山本の流を、西南の町へながし、此二水を江戸町へあまねくあたへ給ふ。(以下略) (三浦浄心『慶長見聞集』慶長十九年(1614)序)

 画像 その後、上水が整備される。最初につくられたのは神田上水で一説には入国前であるという。続いて玉川上水・本所上水(白堀上水)・青山上水・三田上水・千川上水と十七世紀の内につくられている。
掘抜井戸が多くつくられるまでは、飲み水用の井戸といっても地下に埋められた木製石製の樋を流れる上水から引かれた水道井戸が主だったようである。『守貞謾稿』に水道井戸の図があるのであげておく。

 ただこの水道井戸も「一ヵ町に四ヵ所以内で、玉川上水の通る四谷の通りだけが特別に五ヵ所を設けることを許された」(西山松之助+芳賀登編『江戸三百年1天下の町人』)という。

 日本橋(人形町の近辺)にあった元吉原にあった水道井戸は三ヵ所である。
水道尻 江戸町壱丁目、二丁目の境より角町の角、並京町壱丁目、二丁目の境中通りに、三ヶ所の井筒あり。大サ六尺四方、厚板にて補理、四寸角をもて縁とす。その井戸に小桶を置、杉丸太をもて柄とし、つる柄杓四本をつけたり。此井戸は玉川上水を引取て、地底壱丈二尺余、石にて樋をふせ、長谷川町より江戸町の辻へ廻り、夫より角町、京町の辻へ水を取故に、その末を水道尻とは名づくとなむ。(西村藐庵『花街漫録』文政八年(1825)序)
ここに「玉川上水」というのは誤りで、喜多村節信は「この辺の水道は、神田上水にて、玉川上水には非ず。」と正している。(『花街漫録正誤』)
 ついでに云うと、明暦三年(1657)に浅草に移転して出来た新吉原には上水は引かれていなかったようである。
水戸尻〔すいとじり〕といふは。いにしへ吉原に井戸なし。砂利場〔ざりば〕の井戸。ならびにたんぼの井戸。両所より水をくみいれしを。元禄宝永の比〔ころ〕。きの国や文左ヱ門といゝし人。あげや丁尾張や清十郎かたにて。はじめてほりぬき井戸をほらせしに。水おびたゞしくわき出。ことさら名水なりければ。皆々この水をよび井戸して遣ひけり。中の丁のすへ。呼〔よび〕戸樋のとまりなれば。水戸尻といふ。紀文此井をほらせし時。祝義として。舛にて金銀を斗〔はか〕り。まきちらしけると。今にかたり伝へ侍る。(以下略) (沢田東江『古今吉原大全』明和五年(1768)刊)

また古町と呼ばれる江戸初期からの町の一つである浅草平右衛門町の文政八年(1825)の書上を見ると、総家数257軒(地主1、家持4、地借102、店借150)のところに水道井戸は三ヵ所である。
一千川上水、先年の通り懸け渡しの儀、願人これあり願いの通り仰せ付けられ、水筋町々井戸掘り渡しにつき、水銭差し出すべき旨、安永九子年十月廿七日町御奉行牧野大隅守殿御番所にて仰せ渡されこれあり、右上水井戸上平右衛門町河岸の方町家前に一か所、下平右衛門町同断町家前に二か所掘り渡しこれあり候ところ、天明七未年四月十三日御差止めに相成り候旨通達これあり、その節埋め立てに相成り申し候。
 この千川上水は最初のものではなく、享保七年(1722)に一旦廃止され安永年間に再興されたものである。
 掘抜井戸が多くできるまでは、水道が通っているところでも、水はかならずしも十分ではなかったであろうし、水道樋から離れているところでは、水屋から買うしかなかったようである。
「銭瓶橋左・右と一石橋の左・右には玉川上水の余水を堀に捨てる吐口があり、ここから勢よく吐き出される水を汲んで舟で運び、本所・深川辺に売りにいく水売人が仲間(組合)をつくるほどたくさんいた。」(西山松之助+芳賀登編『江戸三百年1天下の町人』)
という。落語にも「水屋の富」という咄があり、富に当たった水屋が律儀な男で、あとを引き継ぐ者ができないうちにやめては水を買っていた人が困るだろうと、床下に隠した金を心配しながら水を売りに出ている。この水屋は江戸が東京と変わったあとの明治十四五年頃にもあったという。明治八年生まれの三田村鳶魚氏は
元禄度には、江戸に水屋さんなる者が営業になっておりました。この水屋さんは、飲料水になる井戸水を汲み、一担二荷の水を細長い桶へ入れて荷なってあるきました。水道の枡に遠い家々では、水屋さん一荷入れておくれと叫んでいるのを、私どもの幼時に聞きました。明治の十何年という頃、一荷一銭であったと思います。(三田村鳶魚『三田村鳶魚全集』第十七巻「玉川上水の建設者安松金右衛門」)
と記している。
また
八百八町に井戸は何程あっても、よい水は出ない。明治になっても、雑水と飲料とは、整然と分けてありました。水道の水と、掘り井でも清冽な水とを、飲料に供し、一般の不良水は雑用としてありました。決して混用いたしません。もし飲料水を雑用にすれば、誰も勿体ないことをするといい、家内ではお眼玉を頂戴する。近所隣からは不道徳な人間だといって指弾されます。それが習慣になっておりましたから、子供でも飲料水を他事に費消することはなかったのです。それから雑水しか出ない井戸でも、井戸を潰すということは厳禁で、井戸を潰せば、その家に祟る、その町が寂びれると信じられておりました。さすがに欲張った地主も、古井戸を潰すさえ忌み憚ったものです。(同書)
 現代の我々のように、水道から出る飲料水を飲み水ばかりかトイレにまで流して、それを当たり前のように思っている人間には、なかなか実感できないことである。「江戸っ子」が自慢の一つとしていた「水道の水で産湯を使った」という言葉も、こういう意味合いを含んでいたのであろうか。
最後に元吉原の図と新吉原の図をあげておきます。
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