落語の中の言葉62「かかし」
三代目三遊亭金馬「三人旅」より
咄の中で案山子をお百姓と間違えて道をたずねるところがある。案山子だと教えられお百姓にたずねる。
「いつ拵えたの 去年 それからずうっとここへ立ったっきり。草臥れるだろうなあ」「馬鹿だなアこいつは。かかしが草臥れるかい」「草臥れてるよ」「どうして」「御覧よ、脚が棒になってるもん」
江戸時代の越谷吾山『物類称呼』(安永四年(1775)刊)には次のようにある。
今では鳥おどしの人形を「かかし」と呼ぶのが普通のようで、
「関東地方では〈かかし〉、関西地方では〈かがし〉と発音されており、江戸時代後半には「かかし」が勢力を増していったものと思われる(『日本国語大辞典』)」という。
田畑の作物を害獣害鳥から守る道具・装置は、大きく三つに分かれるように思われる。一つは嗅覚にうったえるもので、主に獣に対しその嫌がる臭いを嗅がせて追い払うもの。二つには聴覚にうったえるもので、音でおどかす。「そほづ」あるいは「そほど」と呼ばれるもの。現在「そうず」というと日本庭園などに使われる「ししおどし」とも呼ばれる竹製の装置であるが、昔は害獣害鳥を追い払うものであったようである。三つ目は視覚に訴えるもので、鳥おどしの人形である。最近は光を反射するテープの方が多いようである。
明治八年生まれの柳田國男は「私は播州で生まれたが、カガシという言葉は書物によって始めて学んだ。山田のカガシという唄はまだ出来ておらず、土地ではただトリオドシといっていたのである」(「案山子祭」『年中行事覚書』)と書いている。
「かかし」というのは元々は人形ではなかったようである。
柳田國男も次のようにいう。
もう一つの呼び名「そうず」であるが、土地によっては水の流れを利用して、米を精〔しら〕げたり陶石を砕いたりする唐臼、あるいは簡単な水車を「そうず」と呼ぶところもあることから、貞徳翁の云うように田へ水を引く板であったかどうかはわからないが、「添水」あることは確かなようである。そして、人形型の鳥オドシが「かかし」と呼ばれるようになったのと同様に、鳥オドシを「そふづ」と混同することも昔からのようである。古事記上の大国主神と少彦名神が出会うところに
大国主神が出雲の御大〔みほ〕の御前〔みさき〕にいると、海からやって来るものがある。名を問わせても答えない。従う神々にたずねても皆知らないという。すると多邇具久〔たにぐく=ひきがえる〕が久延毘古〔くえびこ〕なら必ず知っているというので、召してたずねると神産巣日神〔かみむすひのかみ〕の御子で少名毘古那神〔すくなひこなのかみ〕だと答える。そこで神産巣日御祖命に申し上げると、「実に我が子である。子の中で手俣〔たなまた〕から漏〔く〕しき子である。汝と兄弟〔あにおと〕となってこの国を作り堅めよ」といわれた。そこで大穴牟遲と少名毘古那の二柱相並び、この国を作り堅めた。
とあって、そのあとにこうある。
然後者、其少名毘古那神者、度于常世国也。故、顕白其少名毘古那神、所謂久延毘古者、於今者山田之曾富騰者也。此神者、足雖不行、盡知天下之事神也。
「そうず」を僧都と書くのは間違いであろう。玄賓僧都は添水〔そほづ〕と僧都〔そうづ〕の音がちかいところから、自身と通わせて僧都と書いたまでのことであろう。
ところで、人形のカカシは単に人間をまねて作っただけのものではないともいう。収穫が終わったあと、案山子祭とかカカシアゲとか呼んで、祀ることが行われていた。
それは案山子が一本足であることからもわかる。案山子が身につけるものは時とともにその時代に合わせて変化してきているが執拗に一本足を守っている。田の神の依代としての信仰は忘れ去られてしまった今でも。
落語の中の言葉 一覧へ
咄の中で案山子をお百姓と間違えて道をたずねるところがある。案山子だと教えられお百姓にたずねる。
「いつ拵えたの 去年 それからずうっとここへ立ったっきり。草臥れるだろうなあ」「馬鹿だなアこいつは。かかしが草臥れるかい」「草臥れてるよ」「どうして」「御覧よ、脚が棒になってるもん」
江戸時代の越谷吾山『物類称呼』(安永四年(1775)刊)には次のようにある。
かゝし(わら人形なり)○西国にて○鳥をどし 加賀にて○がんをどし 肥前にて○そふづと云(関西より北越辺かゞしといふ、関東にてかゝしとすみていふ)又添水〔そふず〕を 肥前にて○うさぎつゞみ 河内にて○そふづがらうす 上野にて○みづなるこ 信濃のて○しかつゞみ 加賀にて○はじきといふ 貞徳翁の云 そふづは田へ水を添る具にて 板にて拵たる物也 そふ は添也 つ は水也 季吟翁の云 そふづ は水辺にしかけて 水の力を添て音を出す鹿おどしなり 続古今
山田もる僧都の身こそかなしけれ秋果ぬれば問ふ人もなし 玄賓
今では鳥おどしの人形を「かかし」と呼ぶのが普通のようで、
「関東地方では〈かかし〉、関西地方では〈かがし〉と発音されており、江戸時代後半には「かかし」が勢力を増していったものと思われる(『日本国語大辞典』)」という。
田畑の作物を害獣害鳥から守る道具・装置は、大きく三つに分かれるように思われる。一つは嗅覚にうったえるもので、主に獣に対しその嫌がる臭いを嗅がせて追い払うもの。二つには聴覚にうったえるもので、音でおどかす。「そほづ」あるいは「そほど」と呼ばれるもの。現在「そうず」というと日本庭園などに使われる「ししおどし」とも呼ばれる竹製の装置であるが、昔は害獣害鳥を追い払うものであったようである。三つ目は視覚に訴えるもので、鳥おどしの人形である。最近は光を反射するテープの方が多いようである。
明治八年生まれの柳田國男は「私は播州で生まれたが、カガシという言葉は書物によって始めて学んだ。山田のカガシという唄はまだ出来ておらず、土地ではただトリオドシといっていたのである」(「案山子祭」『年中行事覚書』)と書いている。
「かかし」というのは元々は人形ではなかったようである。
団水が俳諧独鈷鎌論に云「初秋の一葉散と云は、桐にてあるを一葉の舟といふにいて柳に紛らはしたる句昔よりありけるよしさもあるべし。惣じて是のみにかぎらず、案山子を鳥驚シと一つして弓をもたせ編笠を着せ、さまざま人形〔かたち〕のある物のやうに句作りたる句あまた見えたり」といふ意は、かがしは獣の肉を焼き串につらぬきて田畑へさしおき其にほひを嗅しめて獣をさくる名なり。〔割註〕鹿をさくるには鹿の肉、猪をさくるには猪の肉ならではしるしなしと。」ゆゑにかゞしといひては、獣の肉を焼たる事にて、人形の事にはならず、人形は鳥おどしなり。故に人形をかゞしといふときは立チかゞしと上に立の字をつけていへり。都曲〔割註〕元禄三年刻。」前 侍がほの黒きいく秋 撰者言水」附 さむきともいはぬは野辺の立鹿驚〔タチカヽシ〕 同」大橋集 誰ガうつゝ朱雀にちかき立案山子〔タチカガシ〕 如泉」島原のちかきあたりに編笠きてたてる鳥驚シをいひしなり誰ガ現なき姿ぞやと詞をそへてきくべし。今かゞしを清音にいふはいよいよその元をうしなひしなり。(以下略)(柳亭種彦『柳亭記』巻之下)
柳田國男も次のようにいう。
カガシという語の起りにはいろいろの説もあるらしいがまず大よそカグ(嗅ぐ)という語の他動形を、名詞にしたものと解するのが正しいであろう。すなわち悪い臭気のするものを田畠のへりに立てて、動物の中でも主として獣類に不安を感じさせて追い退けることから、導かれた命名なのである。普通山村に入ってよく見かける実例は、今日では石油を襤褸に浸していぶすものであるが、以前は竹の串に髪の毛を少し綰〔わが〕ねて挟み、その片端を焦がしたもの、あるいは野猪〔のじし〕の生皮を一寸角ばかりに切って、これもちょっと焼いて竹のさきに挟んだものなどを立てる。猪は同類の皮の焼ける香だから、ことに気味悪く感じて遁〔に〕げ去るものと解していたようである。
もしこの説のように、嗅がすものだからカガシという名出来たとすると、いわゆる山田の案山子の簑着て笠着てただつっ立っているものを、カガシと呼ぶのは誤りということになるわけだが、それは誠に致し方がない。前はこういう一種の駆除法だけの名であったものでも、良い名でありまた人が元の意味を考えなくなると、広く鳥獣害防止法の全体の名にもなり、またその中でも最も目につき易い人形の名ともなることは不思議でない。(前書)
もう一つの呼び名「そうず」であるが、土地によっては水の流れを利用して、米を精〔しら〕げたり陶石を砕いたりする唐臼、あるいは簡単な水車を「そうず」と呼ぶところもあることから、貞徳翁の云うように田へ水を引く板であったかどうかはわからないが、「添水」あることは確かなようである。そして、人形型の鳥オドシが「かかし」と呼ばれるようになったのと同様に、鳥オドシを「そふづ」と混同することも昔からのようである。古事記上の大国主神と少彦名神が出会うところに
大国主神が出雲の御大〔みほ〕の御前〔みさき〕にいると、海からやって来るものがある。名を問わせても答えない。従う神々にたずねても皆知らないという。すると多邇具久〔たにぐく=ひきがえる〕が久延毘古〔くえびこ〕なら必ず知っているというので、召してたずねると神産巣日神〔かみむすひのかみ〕の御子で少名毘古那神〔すくなひこなのかみ〕だと答える。そこで神産巣日御祖命に申し上げると、「実に我が子である。子の中で手俣〔たなまた〕から漏〔く〕しき子である。汝と兄弟〔あにおと〕となってこの国を作り堅めよ」といわれた。そこで大穴牟遲と少名毘古那の二柱相並び、この国を作り堅めた。
とあって、そのあとにこうある。
然後者、其少名毘古那神者、度于常世国也。故、顕白其少名毘古那神、所謂久延毘古者、於今者山田之曾富騰者也。此神者、足雖不行、盡知天下之事神也。
そして後には、そのスクナビコナノ神は、海原のかなたの常世国にお渡りになった。さてそのスクナビコナノ神であることを顕わし申しあげたいわゆるクエビコは、今では山田のソホドという案山子である。この神は足は歩けないけれども、ことごとく天下のことを知っている神である。(次田真幸訳『古事記(上)』講談社学術文庫)
「そうず」を僧都と書くのは間違いであろう。玄賓僧都は添水〔そほづ〕と僧都〔そうづ〕の音がちかいところから、自身と通わせて僧都と書いたまでのことであろう。
ところで、人形のカカシは単に人間をまねて作っただけのものではないともいう。収穫が終わったあと、案山子祭とかカカシアゲとか呼んで、祀ることが行われていた。
始めて鳥獣の嚇〔おど〕しのこの人形を立てた人の心持は、これが自分達の姿のように見えて、相手を誤解させようというのではなかった。形はどうあろうともこれが霊であって、むしろ人間以上の力で夜昼の守護をするものと信じられていたことは、日向のシオリジメも注連縄も同じことであった。
(中略)
天龍川上流の村のカガシアゲは、見には行かぬが、私はその写真を貰って持っている。屋敷の一隅の静かな処、たとえば土蔵の蔭などに、田から迎えて来たソメ(案山子のこと)を立てて、片手に熊手を、他の片手には箒を突かせて、その日の祝いの食物を供えて丁寧な祭をする。そうしてまたこれを山の神でもあるように考えているらしい。それは不思議なようであるが、私にはなお理解が出来る。農家の信ずる山神は、どこでも狩人の信ずるのとは別である。春は山から降りて来て田の神となり、秋の刈入が終ると、送られてまた山に帰って行くことは、どこの府県も大よそは同じである。その田の神が自身田の守護をせられるとすると、これほど慥〔たし〕かなことはないわけであり、またしみじみとそのお礼をするのも、もっとも千万なことだと思う。(柳田國男「案山子祭」『年中行事覚書』)
それは案山子が一本足であることからもわかる。案山子が身につけるものは時とともにその時代に合わせて変化してきているが執拗に一本足を守っている。田の神の依代としての信仰は忘れ去られてしまった今でも。
落語の中の言葉 一覧へ
この記事へのコメント