落語の中の言葉61「月代」ー「髪結床」の続きその2

 ヒゲのついでに月代(さかやき)についても少し触れておこう。
林美一氏は『時代風俗考証事典』で月代についてこう述べている。
月代は剃るのが礼儀
 ひげの慣習以上に、時代劇で当惑するのは前にもちょっと書いた月代の風習である。月代は武士が兜をかぶる際、のぼせるのをふせぐため髪を剪ったり抜いたりしたのが始まりだが、これも江戸時代には綺麗に剃っておくことが慣習化し、男子の礼儀ともなっていた。
 『里見八犬傅』の著者である曲亭馬琴の日記を見ると、墓参・外出・家内での仏事などの前によく月代をあたっている記事にぶつかる。
 昼後予お路(息子の嫁)に月代をそらせ其後諸神家廟等拝礼し畢。(天保元年五月五日)
 また次のような記述もある。
 昼飯後九半時(午後一時)頃より家内深光寺(菩提寺)へ参詣、予当年今に年始墓参せざる 故に今日参詣可致処、今に長髪に付不能、……(天保五年三月二十六日)
 これは久しく病中であったため月代をしていないので墓参を遠慮しているのである。髪月代をしないことは、江戸時代にあっては正に不敬不祥の至りであった。

三代将軍家光も病後で月代を剃らないうちは紅葉山東照宮へお参りはしていない。
正保三年十一月
十七日 御病後月代そらせ給はぬをもて。御宮参なし。(「大猷院殿御実紀巻六十五」)

因みに17日は家光の祖父家康(東照大権現)の月命日

また「御能拝見」といって、江戸城内で行われる能を町人が見物することをゆるされる場合があるが、その際にも

一明三日於御本丸御能御座候ニ付、御白洲ニ而町人見物被仰付候間、町々割付之人数之分、さかやきをそり髪を結、対之麻上下を着、衣装見苦敷無之様ニ仕、明三日明六前ニ銭亀橋より河岸通ニ五百人宛、きりきりニ指置可申候(以下略)(宝永六年丑五月の御能拝見に関する町触)
と、月代を剃ることが命ぜられている。月代を剃らなくても無礼に当たらないのは病人だけである。また忌服に際しては月代を剃ることが禁止される。たとえば七代将軍家継が正徳六年四月晦日に死去した際には
御一七日過候は、御直参之面々髭そり可申候、陪臣之輩はさかやきそらせ可申候、尤 御目見仕候陪臣も同前ニ候以上、
正徳六年五月
一坊主組頭ともに、さかやき明十一日よりそり可申候、
一同心以下其外かろき者、さかやき右同断、
正徳六年五月十五日
御目見以下之者共ハ、さかやきそり可申候、
正徳六申年五月
国持衆、外様一万石以上、表高家、寄合幷小普請之面々ハ明後(六月)二日より、さかやきそり可被申候、御譜第衆、詰衆竝、番頭、物頭、諸役人、御番衆、さかやきそり候儀は先可有延引候、
正徳六申年六月
御譜第衆、詰衆、詰衆竝、番頭、物頭、諸役人、御番衆、不残明後五日よりさかやきそり可被申候以上
(以上「御触書」より)

京都など江戸から遠い所に勤める者は連絡が遅れるため通知があった日から服喪が始まる。
(正徳六年)五月六日組下へ御触之写、
一、公方様御不例御養性不相叶、先月晦日之夜被為遊薨御に付、鳴物普請御停止に候間、可被得其意候、尤火用心可被入念候、以上、
  月 日 諏訪肥後守  山口安房守

御直御奉公人御旗本衆等月代之儀、卅五日御忌相済御剃被レ成候、御精進は五十日の由、京都御所司代町御奉行衆御番衆、六月十一日に月代剃被成候、是は江戸より申参候日数に有之故如此に候(『月堂見聞集』巻之八)

 このように江戸時代にあって月代はなかなかやかましい。月代をのび放題にするのはわずかな髪結賃にも事欠く赤貧の者か、社会常識を無視するような者のいずれかであろう。
 落語「中村仲蔵」のなかに月代をのび放題にした浪人が出てくるが、これは着ている物や破れ傘しか貸してもらえないなど貧乏士を表すのに効果的である。一方「佐々木政談」(三代目金馬師匠は「池田大助」の名で、大岡越前守と池田大助で演じている。四代目金馬師匠も同じ)のなかで主人公の四郎吉を描写するのに、「月代がぼうぼうにのびて」と演出されるが、これは二重の間違いである。桶屋渡世の父をもち母もある者が月代をぼうぼうにしているはずはない。それよりもっと根本的な間違いは、四郎吉は十三歳という設定になっているのであるから、そもそも月代はしていない、前髪があるはずなのである。江戸も半ば頃には十五歳が成年である。月代をするのは男子の成年の証しである。「佐々木政談」でも四郎吉が十五歳になるまで、父綱五郎に預け、十五歳になったら近習にとりたてると佐々木信濃守に言わせている。親が重罪を犯し死罪になり、子が未成年のため遠島になる場合でも、十五歳になるまでは親類預けで、十五になってはじめて島へ送られる。
「御定書百箇条」
九十七 御仕置に成候もの之伜親類え預ケ置候内出家願いたし候もの之事
(従前々之例)
一御仕置に成候もの之伜。遠島追放等に申付候もの。幼少故。拾五歳迄。親類え預ケ置候処。
 出家にいたし度旨。寺院より相願候はゞ。伺之上出家に可申付事。

女子の成年も十五歳だったようである。遊女の年季の際に紹介した遊女屋の抱入帳に書かれた年季と勤めの期間の違いからもわかる。落語「八百屋お七」では火罪を免れるようにとの意図から「そちは十四歳であろう」と奉行が尋ねるが十六歳と答えたために火あぶりになったとしている。(十代目桂文治師匠)

 ちなみに「御定書百箇条」には次のようにある。
七十九 拾五歳以下之者御仕置之事
(寛保元年極)              拾五歳迄親類預置
一子心にて無弁人を殺候もの        遠  島
(同)                  右同断
一子心にて無弁火を附候もの        遠  島
(同)
一盗いたし候もの         大人之御仕置より一等軽く可申付

ここに「拾五歳以下之者」とあるが十五歳未満の意味である。
江戸時代では、以上、以下という言葉の意味ははっきりしていません。現在では、法律上、十五歳以上というのは、十五歳未満に対するものであって、十五歳を含むのですが、江戸時代では、しばしば同じ箇所で、たとえば、二十両以上、二十両以下のようにも書いているのであって、以上、以下がどういう意味であるかは、各場合について調べなければならないのです。
 そこで御定書の規定を見ると、「拾五歳以下」となっていますが、これが十五歳を含むのか否かの問題を生じます。(中略)そこで、幕府は安永元年(一七七二)に左のように定めて、「拾五歳以下」とは、十五歳未満の意であることを明らかにしました。
 一拾五歳以下之もの御仕置之儀、仕来之通、十四歳より内之ものを幼年之御仕置申付、十五歳より大人之御仕置申付くべき事
 「仕来之通」とありますから、すでに、この以前よりこういう解釈は行なわれていたのであり、これを確認したわけです。(石井良助『第四江戸時代漫筆』)
 火付けを「拾五歳迄親類預置 遠島」と決めたのは寛保元年(1741)で、その以前は違っている。
幕府は享保八年(一七二三)に、放火犯について左の規定を設けました。
  一附火いたし候もの、十五歳より内ハ遠島、十六歳以上ハ火罪たるべき旨相極候間、向後、其旨心得らるべく候、(同書)
更にその前、八百屋お七が火罪になった同じ日に、何人か火罪になっているがその一人喜三郎については御仕置裁許帳に記載がある。
同年(天和三年)二月十二日
壱人喜三郎 是ハ浄光院門前梅軒召仕、此者主人之家え火を付候付、穿鑿之内、評定所より籠舎、
 右之者、同亥三月廿九日火罪、

この喜三郎、『天和笑委集』では十三歳としている。これが正しければ天和三年(1683)には十三歳でも火罪にされていたことになる。
一、爰に喜三郎といふわらはあり、生年十三才、主人の家に火を付、其事あらわれ、ほのふにやかれて命を失ひ侍る、(以下略)


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