落語の中の言葉56「四貫相場に米八斗」

        五代目古今亭志ん生「鶴亀」他より

 五代目古今亭志ん生師匠は噺の中で、昔は物の値段が安かったといって「四貫相場に米八斗」という言葉をよく使っている。
 これは、江戸時代に「昔はよかった」という意味合いを込めて使われた言葉で、その意味は、銭相場が金一両に四貫文、米の値段が金一両に八斗ということである。銭を稼いで銭を使う八ッつアんや熊さん達職人や小商人にとっては、銭が高くて米が安ければ暮らしいいに違いない。
 江戸時代を通して見ると不作の続いた時などを除けば米の値段は大旨安かったようである。そのため米を収入源にしている武士は困って、幕府は米を安く売買しないように命じたり、富裕な町人に米を買わせて米価のつり上げを図っている。
 享保八癸卯年(1723)十月江戸御触書写
米直段次第に下直に相成、武家並に百姓難義の事に候、町人諸職人に至るまで、商ひ薄くかせぎ事も無之、世間一統の困窮に及び候間、当冬より江戸大坂米屋は諸国払米、江戸は金壱両に付、米一石四斗以上に買受候て、大坂米一石に付、銀四十二匁以上に買受可申候、若〔もし〕右直段より以下に買受申においては、当月十五日より米一石に付、銀十匁宛の運上、買受候米屋より差出可申事、」(喜多村香城『五月雨草紙』慶応四(1868)年)
同年(延享元年(1744))豊作に付、新米一石三斗がへなり、案、此節は、文金一両に付、銭三貫七八百文がへ 依之、御蔵米の御旗本衆困窮に及ぶ、則御買上御米の儀評定有之といへども、御損毛有之事ゆへ、奉行役、有徳の町人九人へ買上の儀御頼み也、伊勢町成井善三郎、小船町村田七右衛門、茅場町冬木万蔵、新堀冬木喜平次、小網町天野甚右衛門、中橋石田何某、両替町海保半兵衛、同三谷三九郎、飯田町万屋伊兵衛等也、彼等が買上わづかなるゆへ不及力といへども、公儀の御威光にて一石一斗迄にはなりぬ、(中略)夫より又々二番の有徳者五十八人買上米被仰付、何も少し宛の事ゆへ、米高は多き事なれば、詮方なし、きびしき被仰付有て、九斗二三升になる、前九人の売米は不及申、後五十八人の買米も、町奉行より封を付て売事を不許、貯之、(以下略)(曳尾庵『我衣』)

勿論不作の時には米の値段は暴騰する。
正徳五年(1715)、米高直にて、両に四斗より三斗七八升也、水油は一升に付八百六十四文也、(『江戸真砂六十帖』広本 寛延宝暦頃(十八世紀半ば))

 江戸で打ち壊しが起こった天明の飢饉の時には、
○米穀高直之事、予、東海道藤沢宿に寓居せし所、天明四年(1784)甲辰春、米穀高価也、
藤沢宿穀物直段 一六の日、市なり
 金壱両に付、
二月廿六日  玄米三斗九升
三月六日   玄米四斗
三月廿六日  玄米四斗三升
(小川顕道『塵塚談』文化十一(1814))

(文政十二(1829)年)八月より九月へ掛て、米価追日騰貴し、大相場両に五斗、小売佰銭に六合に至りぬ。かくては世上騒がしく、丙午、丁未の変、又生じてんと、人々危懼の思をなしけるに、官府より大倉の紅粟を発し給ひければ、皆安堵してけり。(「己丑漫録 第壱編」文政十二(1829))
 引用者註:丙午、丁未の変とは、丙午=天明六年、丁未=天明七年の饑饉をさす。天明七年五月には江戸で打ち壊しが起きている。

天保の飢饉の時には(天保七(1836)年十一月中)
此の節、米両ニ弐斗六升より八九升位、白米百文ニ四合、麦四合五勺、小豆四合、引割五合より六合位迄、米御蔵相場百廿四両也。

 豊作になって飢饉が収束した天保十三(1842)年九月には、
此節、米両ニ九斗二升、当年は殊の外暖気ニて、此節、中より以下の者ハ単物を着し居り候(鈴木裳三『藤岡屋ばなし続編』)

 新人物往来社『日本総覧』Ⅳには、複数の資料から作成した米価一覧が載せてあり、江戸におけるそれを見ると一石一両前後が多いようである。米の値段は日々に変化していたのでこの価格が何時の時点のどういうものかは、元資料を見ていないのでわからないが、おおよその見当を付けることはできそうである。参考のためグラフにして最後に載せておく。

 一方銭相場の方は、金一両が四貫文だったのは江戸時代の初期の話で一時期銭高であったものの銭は概して安い。

金一両に銭四貫をかへて売買すべし。もし此制にたがひ、価を高低して売かふものあらば、その金銭を過料として双方より出さしむべし。其市井の過料は前件におなじかるべし(年寄は五貫文、其ほかは毎戸百文づゝ)。(『台徳院殿御実紀』巻四十八 元和四(1618)年二月十八日)
一、明和五(1768)、五匁銀、四文銭通用、其一両年前に銭相場両に三貫二百文、一分に八百文、一匁六十七八文より七十二三文ぐらゐ、湯銭五文、芝居百三十二文なり。」(『明和誌』)
予十八九の時、両国回向院にて嵯峨の釈迦の開帳ありし時(明和七(1770)年)、(中略)此開帳のころより銭相場下りて、金一分に壱貫三百文をめづらしき事に思ひしに、はや今は一貫六百文余になれり。明和五年に四文銭南鐐出来てより段々下りしなり。(大田南畝『金曾木』文化七(1810))
 引用者註:金一分に一貫六百文余=金一両に六貫四百文余)

(天保十三(1842)年)八月廿五日
一 去年より銭相場甚だ下直ニて、六〆九百文より七〆二百文位迄の処、御趣意ニ付、八月五日より金一両ニ六〆五百文と定まル。」(『藤岡屋ばなし続集』)

 江戸の銭相場については、金森敦子氏が『日本総覧』の「近世貨幣相場一覧」をグラフ化したものを『伊勢詣と江戸の旅』に載せているので、それをあげておく。

 銭で買う米の値段は、米相場と銭相場によって決まる。米の値段が下がっても銭が安くなれば銭で買う米の値段は下がらない。
おおざっぱに言って、「四貫相場に米八斗」の場合一貫文で二斗になるが、一両で一石二斗と「米八斗」にくらべ大幅な米安の場合でも一両に六貫五百文の銭相場では、一貫文で一斗八升五合弱にしかならない。
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