落語の中の言葉55「鞴祭」
十代目桂文治「随談」より
桂文治師匠は、後世に名を残した人として、士農工商からそれぞれ次のように挙げている。
武士では敵討ちとして、「一富士、二鷹、三なすび」の言葉を使い、「一富士」は富士の裾野の牧狩りでの曾我兄弟。「二鷹」は赤穂義士(鷹の羽のぶっちがえは浅野内匠頭の紋所)。「三なすび」は、伊賀上野鍵屋の辻で名を成すという荒木又右衛門。
農では佐倉宗吾郎。工では左甚五郎。そして商では紀伊国屋文左衛門。
紀伊国屋文左衛門が財を成したきっかけは蜜柑船だとして、次のようにいう。
江戸時代十一月八日は鞴祭で蜜柑を供えて祀った。鞴祭が近いのに海が荒れて紀州からの蜜柑船が一艘も江戸に来ない。一方紀州では蜜柑が豊作なのに船が出せない。蜜柑が腐ってしまう。そこに目を付けた文左衛門は、祖父さんの代からあるボロ船を修理して幽霊丸と名を変え、乗組員一同経帷子を着て決死の覚悟で荒海に乗り出し、江戸に着いて大いに儲けた。それを元手に材木の商売をし、一代で財を成した。二代目は金使いにの名人で、死ぬときにはその財産をちょうど使い果たしていた。
紀文については、いろいろと話も残っているが、大岡政談や水戸黄門の漫遊と同様、確かな事は少ないらしい。ただ財を成したもとは、紀文と並び称された奈良茂(奈良屋茂左衛門)と同様、材木であったようだ。特に幕府事業の請負によるという。
今回取り上げるのは「鞴祭」。恵比須講で引用した『絵本江戸風俗往来』にあるように、江戸時代には職業集団によって祀る神が違っており、鍛冶のように鞴や火を使う者達は鞴祭あるいは「ほたけ」といって稲荷神を祀った。
鞴祭について、滝沢解(曲亭馬琴)も一文を書いている。
この蜜柑まきは江戸の中期にはすでに行われていたようである。
これも一時禁止されていたらしい。享保延享(享保元年は一七一六、延享元年は一七四四)ころのことを記したものに「今は絶てなし」とある。
最後に、鍛冶が稲荷を祀る理由について、一つの説を挙げておこう。三条小鍛冶宗近が刀を打つ時、稲荷神が出現して相鎚をうって鍛えるのを助けたという。
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桂文治師匠は、後世に名を残した人として、士農工商からそれぞれ次のように挙げている。
武士では敵討ちとして、「一富士、二鷹、三なすび」の言葉を使い、「一富士」は富士の裾野の牧狩りでの曾我兄弟。「二鷹」は赤穂義士(鷹の羽のぶっちがえは浅野内匠頭の紋所)。「三なすび」は、伊賀上野鍵屋の辻で名を成すという荒木又右衛門。
農では佐倉宗吾郎。工では左甚五郎。そして商では紀伊国屋文左衛門。
紀伊国屋文左衛門が財を成したきっかけは蜜柑船だとして、次のようにいう。
江戸時代十一月八日は鞴祭で蜜柑を供えて祀った。鞴祭が近いのに海が荒れて紀州からの蜜柑船が一艘も江戸に来ない。一方紀州では蜜柑が豊作なのに船が出せない。蜜柑が腐ってしまう。そこに目を付けた文左衛門は、祖父さんの代からあるボロ船を修理して幽霊丸と名を変え、乗組員一同経帷子を着て決死の覚悟で荒海に乗り出し、江戸に着いて大いに儲けた。それを元手に材木の商売をし、一代で財を成した。二代目は金使いにの名人で、死ぬときにはその財産をちょうど使い果たしていた。
紀文については、いろいろと話も残っているが、大岡政談や水戸黄門の漫遊と同様、確かな事は少ないらしい。ただ財を成したもとは、紀文と並び称された奈良茂(奈良屋茂左衛門)と同様、材木であったようだ。特に幕府事業の請負によるという。
北八丁堀三丁目紀伊国屋文左衛門といふは、御材木御用達、金子沢山にて威を振ひしなり、第一悪所にて金遣ひの名人、上方にも今西鶴が賛た古本あり、(以下略)(『江戸真砂六十帖』寛延宝暦頃(寛延元年は一七四八))
元禄の頃、紀伊国屋文左衛門といふ材木の問丸、本八町堀一町のこらず持地面にて、大厦高堂を構え、片名に呼で紀文といふ、今も其名人口に膾炙す、其角門人にて、俳名を千山といへり(以下略)」(山東京山『蛛の糸巻』弘化三(一八四六)年序)
今回取り上げるのは「鞴祭」。恵比須講で引用した『絵本江戸風俗往来』にあるように、江戸時代には職業集団によって祀る神が違っており、鍛冶のように鞴や火を使う者達は鞴祭あるいは「ほたけ」といって稲荷神を祀った。
鞴祭 当月(十一月)八日は鞴祭にて、鍛冶師・鋳物師・錺師・時辰〔とけい〕師・箔打師・石職は平日鞴を遣う家業として、火防〔ひぶせ〕または実業の徳を報いんと稲荷神を祭る。この鞴祭はすなわちこの業の稲荷祭なり。当日は皆家業を休み、前々より家内を繕い、畳を敷き替え、掃除綺麗に客を招く。稲荷神の宝前供物うず高く、燈明かがやき、近隣へは蜜柑、膳部の配物〔くばりもの〕丁寧になす。この日未明に蜜柑まきの催しあるまま、この業の家ある近辺は、児童等早天に起きて蜜柑を拾いに趣く。「まけまけ拾え、鍛冶やの貧ぼ」と大声にどなりて馳せ廻る。その騒ぎいとかまびすし。この催し朝の中にして止む。」(菊池貴一郎『絵本江戸風俗往来』明治三十八年刊)
鞴祭について、滝沢解(曲亭馬琴)も一文を書いている。
霜月八日の吹革祭は、みやこ知恩院の元賀茂明神よりはじまりて、三十九世満霊和尚稲荷八幡のふた神を加へ給ふ、よて世に稲荷のほたけ祭といへり、(中略)あづまには、たへてきけることさへなきを、いつの頃よりか、鍛冶、いもぢ(鋳物師)、いしのたくみ(石の匠)、すべて吹革もて世のわたらひごとせるものゝいへ(家)には、このことなしつるになん、そはまつりに名をおほせて、またくわらべの遊びぐさになめり、その祭いかにすといふに、八日のあした、まだほのぐらきより、をさなきものゝかぎりつどひ来て、かぢがびんぼう、とはうし(拍子)とりさへづりのる(宣)めり、この祭せるいへのなほとめるもあべいに、などてかくいやしめのるにやあらむ、はた鍛冶にもあらぬ石のたくみをも、みなおなじごちして、かぢとのみのりぬるぞ、いは(稚)けなきものゝかたくなにひがおぼ(癖覚)へたるいとおかしきや、やゝ明行ころは、軒における朝霜のましろにして、いらかはさゞなみのごとみえたる、二かいのさうじ(障子)引あけて、あるじあなかまやとつぶやきつゝ、柑子をいくつともなくうちかくれば、みなむらだ(群立)ちあさりてきそひかづけり、(中略)とかくする程にいつしかくだものゝ数つきたりと見えて、かうじのこのうつぼなるをひとつふたつ投おろしつゝ、さうじ(障子)とぢてあるじのつと入たれば、わらはべはなほあかずや有けん、かづ(被)けるものゝおほからぬをあざむ(欺)きつ、いよゝびんぼうとのりどよみて、のこれる門もゝらすまじと、となれるまちにざればみてはしりゆきぬ、(『ひともと草』寛政十一(一七九九)年)
この蜜柑まきは江戸の中期にはすでに行われていたようである。
十一月八日 吹革祭 鍛冶・鋳物師・餝・白銀細工、すべて吹革をつかふ、職人此日、稲荷の神を祭る。俗にほたけと云。此夜子共あまた鍛冶が軒にあつまり、ほたけほたけとはやせり。柿・蜜柑をなげて子共にあたふ。(菊岡沾凉『続江戸砂子温故名跡志』巻之一 享保二十(一七三五)年自序)
これも一時禁止されていたらしい。享保延享(享保元年は一七一六、延享元年は一七四四)ころのことを記したものに「今は絶てなし」とある。
十一月には所々鍛冶ふいご祭火焚とて、殊之外いわゐ、夕方には蜜柑を投て、大勢子供にひろわせ、殊之外賑ひし事也、然れ共喧嘩抔出来てあしき事故、御停止になりしより、今は絶てなし、(子供大勢鍛冶の前に集り、ほたきほたきかぢやのびんぼとはやしたつる)(著者未詳『享保延享江府風俗志』寛政四(一七九二)年)これを見ると蜜柑を撒くのも昔は夜や夕方だったようである。
最後に、鍛冶が稲荷を祀る理由について、一つの説を挙げておこう。三条小鍛冶宗近が刀を打つ時、稲荷神が出現して相鎚をうって鍛えるのを助けたという。
十一月八日、稲荷社火焼、新御供、社家松本氏調進、相伝鍛工三条小鍛冶宗近鋳刀剣時、稲荷神出現而搗鉄槌、以助鍛錬刀云爾、宗近錬刀之石盤、今在東山知恩院山門下、銀匠鍛工等、凡設槖籥〔ふいごう〕者、悉祭之。或謂槖籥祭、知恩寺鎮守元賀茂明神也、三十九世満霊和尚加稲荷八幡、故今日有稲荷明神之火焼。(黒川道祐『日次〔ひなみ〕紀事』延宝四(一六七六)成)
鍛冶、十一月八日稲荷を祭事は、むかし三条小鍛冶宗近剣〔つるぎ〕を造るに、いなり山の埴〔ねばつち〕を取て、刃〔やいば〕をやくに最すぐれたりし故、此埴を取の神恩を謝する為此神を祭、時々稲荷山へ詣でたりし其遺風なり。俗説のごとく狐の相鎚にて刀を造し事、たへて無稽の妄言なり。(新井白蛾『牛馬問』宝暦五(一七五五)年自序)
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