落語の中の言葉49「寿限無」
寿限無という噺がある。初めて生まれた子供が長命になるようにと八五郎が檀那寺の和尚さんに名前を付けてほしいと頼む。いろいろ考えてくれたものを全部つけたために長ーい名前になるというもの。
その名前は「ジュゲム、ジュゲム、ゴコウノスリキレ(ズ)、……」と続き、最後は「チョウキュウメイノチョウスケ」である。八五郎が鶴亀の千年や万年では不足だというので、和尚さんは『無量寿経』の中にある、「ジュゲム」ではどうだという。寿限り無しと書いて「寿限無」だという。
「仏説無量寿経」には「寿限無」という言葉は、やはり見当たらない。ただ、法蔵菩薩が世自在王仏に向かって述べた四十八願の内に次の詞がある。
設我得佛、國中人天、壽命無能限量。除其本願 脩短自在。若不爾者、不取正覺。
(もし私が仏になるときには、国中の人々や天人の寿命は無限になりましょう。ただし、寿命の長短を自在にしたいものは除きます。もしそうでなければ、わたしはさとりをひらきません。)
「やはり」と云ったのは、「寿限り無し」を漢字で書けば「寿無限」となって、「寿限無」とはならないからである。
ここで思い出すのが「盲導犬」という言葉である。
加納喜光氏によると、漢字を使って文又は熟語をつくる際には五つの法則(シンタックス)があるという。
「『盲導犬』は正シンタックスだと『盲人が犬を導く』、あるいは『盲人の導く犬』の意味になる。」
盲人を導く犬であれば導盲犬とならねばならない。
「しかし『導盲』にすると、『獰猛』と衝突して具合が悪い。『盲導』は『妄動』と衝突するけれど、『獰猛犬』の語呂よりはましである。」と述べている。(『漢字の常識・非常識』)
次に、寿限無に続く「ゴコウノスリキレ(五劫の摩り切れ)」について、和尚は磐石劫を使って説明している。仏教辞典等によると、「劫」とは古代インドの時間の単位であって、あまり長い時間なので、譬喩で表している。その一つが磐石劫で、それは次のようなものである。
いま一辺が一由旬〔ゆじゅん〕のサイコロ状の大岩があるとする。一由旬の長さについてはいろいろの説があるが、一応七・四キロメートルとしておこう。すると海抜ゼロメートルのところにこの岩を置いても、富士山(海抜三、八八三メートル)の倍近い高さになる巨大な岩ということになる。そこへ百年に一度天人が舞い降り、絹のように柔らかい衣でこの大岩をひと撫でする。上の面だけでも七・四キロ四方もあるのだからひと撫でするといっても大仕事だと思うのだが、それはさておき、片方が岩、片方が絹のように柔らかい衣であるから、衣の方が擦り切れるはずであるが、岩の方もほんのわずかではあるがやはり減る。百年に一度降りて来てはひと撫でし、百年に一度降りて来てはひと撫でしているうちに、さしもの大岩も擦り減って消滅してしまう。それでも一劫は終わらないという。
また別の譬喩である芥子劫では、一辺一由旬の立方体の形をした城を芥子粒でいっぱいにし、百年毎に一粒ずつ取り出してゆく時、すべての芥子粒を出し終えてもまだ一劫は終わらないという。
ところで、人の名についてはこんな話がある。
石田三成について、昭和十二年発行の平凡社『日本人名大事典』には イシダカズシゲの項目が有り、「石田ミツナリ」としている。平成十七年発行の吉川弘文館『日本近世人名辞典』には、イシダカズシゲの項目はない。「石田三成 幼名は佐吉、はじめ三也と名乗る。」とある。
『善庵随筆』にある石川之聚の話は間違いなのであろうか。また「三成」と名乗るようになったあとに三成自身が書いた仮名書き文にミツナリとしたものがあるのであろうか。「真田幸村」の例もあるので知りたいところである。
チヤウソカメの関連では、次のようにもいわれる。
また、人の実名を呼ぶことは無礼にあたるという。
補:この文について、曲亭馬琴は『燕石雑志』(文化七年1810序)に、「頼家弱冠なりといへども君なり。北条は元老なりといへども臣なり。君臣の間すらなほその実名を呼るゝを恨とせり。」と記し、
石原正明は『年々随筆』(文化二年1805脱稿)に「人の実名は、かりにも他より呼ぶべきものならねば、排行と成功との二ッをもて称(トナ)へし物なり。其排行といふは、兄を太郎といひ、つぎを二郎といひ、三郎、四郎、ついでのまゝによぶ事なり。(中略)成功とは、(中略)、物をいだして四府の尉、諸司の三分になりて、その官名をなのるなり。かくてその族々に太郎、二郎、兵衛、衛門ありて、(中略)何事につけても、まぎらはしき故、その上に姓の一もじをそへて、藤太郎、源二郎、清兵衛、宗左衛門などやうに名乗たる物にて、今時の名はこの姿なり。」と書いている。
只野真葛という女性(『赤蝦夷風説考』を著した工藤平助の長女)が、年老いてから書き上げた『独考』を、江戸に住む妹萩尼を通して曲亭馬琴に届け添削と板行を依頼した時、
ところで、小学校か中学校か定かでないが、「滝沢馬琴」と教わった記憶がある。これは考えてみれば変な呼び方で、戯作者としての名が「曲亭馬琴」で、本名は「滝沢解」である。いわばペンネームと本名を混ぜて呼んだことになる。馬琴は色々な名を使っていて、「曲亭馬琴」「著作堂主人」「簑笠漁隠」「曲亭主人」、「馬琴 滝沢解」というのもある。本人が「滝沢馬琴」という名を使ったことがあるのであろうか。あの世とやらで腹を立てているのではなかろうか。彼は著作によって名前を使い分けていたようである。兎園会に寄せた「真葛のおうな」の中に次のように書いている。
また、人の名前に関しては、子供に一郎、二郎、三郎と順に名前をつけることがあるが、これについて次のようにいわれる。
曾我十郎、同五郎に関しては
とある。
『仮名本曾我物語』によれば、曾我十郎、同五郎は元服前は、一萬、箱王といい、その父は河津三郎祐重〔すけしげ〕である。工藤祐経〔すけつね〕の郎党八幡三郎が父河津三郎を射殺した時、兄弟の母は身籠もっており、祐重の四十九日の翌日に男児を産むが、これは祐重の弟で子供のない伊東九郎祐清〔すけきよ〕が貰い受けている。
弟箱王が元服したのは、十郎が箱王を北条四郎時政のところに連れて行き頼んだのであり、時政は
とあり、東洋文庫『真名本曾我物語』では、
となっている。そもそも河津三郎祐重が殺される原因を作ったのはその父(兄弟の祖父)伊東二郎祐親〔すけちか〕であり、河津三郎祐重はその嫡子である。河津三郎には姉が二人あったのであろうか。それとも伊東二郎の嫡子で河津三郎という名付け方もあったのであろうか。
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その名前は「ジュゲム、ジュゲム、ゴコウノスリキレ(ズ)、……」と続き、最後は「チョウキュウメイノチョウスケ」である。八五郎が鶴亀の千年や万年では不足だというので、和尚さんは『無量寿経』の中にある、「ジュゲム」ではどうだという。寿限り無しと書いて「寿限無」だという。
「仏説無量寿経」には「寿限無」という言葉は、やはり見当たらない。ただ、法蔵菩薩が世自在王仏に向かって述べた四十八願の内に次の詞がある。
設我得佛、國中人天、壽命無能限量。除其本願 脩短自在。若不爾者、不取正覺。
(もし私が仏になるときには、国中の人々や天人の寿命は無限になりましょう。ただし、寿命の長短を自在にしたいものは除きます。もしそうでなければ、わたしはさとりをひらきません。)
「やはり」と云ったのは、「寿限り無し」を漢字で書けば「寿無限」となって、「寿限無」とはならないからである。
ここで思い出すのが「盲導犬」という言葉である。
加納喜光氏によると、漢字を使って文又は熟語をつくる際には五つの法則(シンタックス)があるという。
1.主述の構造…「地震」(地が震う) 「獅子吼」(獅子が吼える)といって「油送船」「霊安室」「内視鏡」そして「盲導犬」等を挙げて正しいシンタックスになっているか問うている。
2.並列の構造…「天地」(天と地) 「知情意」(知と情と意)
3.修飾の構造…「大地」(大いなる地)「空閑地」(空いて閑〔ひま〕な地)
4.補足の構造…「昇天」(天に昇る) 「奪三振」(三振を奪う)
5.認定の構造…「不問」(問わず) 「不可解」(解すべからず)
日本人が漢字語を造るとき間違えやすいのが4の「補足の構造」、つまり動詞の後に補足語(または目的語)をもってくる構造である。車に乗る→乗車、人を求める→求人は小学生でもわかるが、
「『盲導犬』は正シンタックスだと『盲人が犬を導く』、あるいは『盲人の導く犬』の意味になる。」
盲人を導く犬であれば導盲犬とならねばならない。
「しかし『導盲』にすると、『獰猛』と衝突して具合が悪い。『盲導』は『妄動』と衝突するけれど、『獰猛犬』の語呂よりはましである。」と述べている。(『漢字の常識・非常識』)
次に、寿限無に続く「ゴコウノスリキレ(五劫の摩り切れ)」について、和尚は磐石劫を使って説明している。仏教辞典等によると、「劫」とは古代インドの時間の単位であって、あまり長い時間なので、譬喩で表している。その一つが磐石劫で、それは次のようなものである。
いま一辺が一由旬〔ゆじゅん〕のサイコロ状の大岩があるとする。一由旬の長さについてはいろいろの説があるが、一応七・四キロメートルとしておこう。すると海抜ゼロメートルのところにこの岩を置いても、富士山(海抜三、八八三メートル)の倍近い高さになる巨大な岩ということになる。そこへ百年に一度天人が舞い降り、絹のように柔らかい衣でこの大岩をひと撫でする。上の面だけでも七・四キロ四方もあるのだからひと撫でするといっても大仕事だと思うのだが、それはさておき、片方が岩、片方が絹のように柔らかい衣であるから、衣の方が擦り切れるはずであるが、岩の方もほんのわずかではあるがやはり減る。百年に一度降りて来てはひと撫でし、百年に一度降りて来てはひと撫でしているうちに、さしもの大岩も擦り減って消滅してしまう。それでも一劫は終わらないという。
また別の譬喩である芥子劫では、一辺一由旬の立方体の形をした城を芥子粒でいっぱいにし、百年毎に一粒ずつ取り出してゆく時、すべての芥子粒を出し終えてもまだ一劫は終わらないという。
ところで、人の名についてはこんな話がある。
石田三成は、カヅシゲと云ふべし、世人ミツナリ、又はカヅナリと云ふは、非也。〔割註〕藤堂侯及び伊勢一身田に所蔵の三成の仮名文数通、何れも仮名にてカヅシゲと署名すと石川之聚の話。」長曾我部は長曾カメと云べし、長曾カベと云ふは、非也、〔割註〕異国往来記などに長曾我部を、チヤウソカメと仮名附あるにて知るべし、津阪孝綽曰、長曾我部盛親の仮名文に、何れもチヤウソカメとあり、仮名文のみならず、真名にて長曾亀と、亀の字を借用して、三字姓に書けるを見しこともありしと、鼎案ずるに長曾我部を、長曾亀といふは、たとへば、草花に字は、ヲミナヘシと書てとなへは、ヲミナメシと云ふ如し。」信雄は、ノブカツと云ふ、ノブヲに非ず、〔割註〕薦野侯上方氏の祖先は、信雄の家老にて、諱の一字を賜はりて、至今歴代通り字に雄の字を用ゆ、カツと訓してヲといはず。」滝川一益は、イチマスと、一を音にて呼ぶ、カヅマスといはず。〔割註〕阿斯能屋検校の語。」何れも今其家絶ぬれば、世人其名姓の称呼さへ、審にせずして、意を以て杜撰するに至、この類猶多かるべし。(浅川鼎『善庵随筆』嘉永三年刊)
石田三成について、昭和十二年発行の平凡社『日本人名大事典』には イシダカズシゲの項目が有り、「石田ミツナリ」としている。平成十七年発行の吉川弘文館『日本近世人名辞典』には、イシダカズシゲの項目はない。「石田三成 幼名は佐吉、はじめ三也と名乗る。」とある。
『善庵随筆』にある石川之聚の話は間違いなのであろうか。また「三成」と名乗るようになったあとに三成自身が書いた仮名書き文にミツナリとしたものがあるのであろうか。「真田幸村」の例もあるので知りたいところである。
チヤウソカメの関連では、次のようにもいわれる。
書〔かく〕ときはハヒフヘホの濁音〔にごるこえ〕もてかき、訓〔よむ〕ときはマミムメモの清音〔すむこえ〕もてよむが、もとの定めにて、書法読法といへるものなり。かれけぶり(煙)とかきてけむりとよみ、をみなべし(女郎花)と書て、をみなめしとよめり。今の人はこゝのこゝろうとく、そのけぢめをもわきためぬゆゑ、みだりにけむり、をみなめしなどかき、をみなべしとかきたるをも、ヘをエの音のごとくよめるはいとをかし。(釈 立綱『うき草のあと』文化十四年)
また、人の実名を呼ぶことは無礼にあたるという。
同書(吾妻鏡)に、平の政子が頼家を諫めたる語に、源氏等者幕下と一族、北条者我親戚也、仍先人頻被施芳情、常令招座右給、而今於彼輩等無優賞、剰皆是喚実名給間、各以貽恨之由有其聞、とあり、人の実名を呼ぶ事をば無礼とする事、是にても知るべし、(石上宣続『卯花園漫録』文化六年)(源氏等は幕下の一族、北條は我親戚なり、仍つて先人頻りに芳情を施され、常に座右に招かしめ給ふ、而るに今、彼輩等に優賞無く、剰へ皆実名を喚〔よ〕ばしめ給ふの間、各以て恨を胎〔のこ〕すの由、其聞有り)
補:この文について、曲亭馬琴は『燕石雑志』(文化七年1810序)に、「頼家弱冠なりといへども君なり。北条は元老なりといへども臣なり。君臣の間すらなほその実名を呼るゝを恨とせり。」と記し、
石原正明は『年々随筆』(文化二年1805脱稿)に「人の実名は、かりにも他より呼ぶべきものならねば、排行と成功との二ッをもて称(トナ)へし物なり。其排行といふは、兄を太郎といひ、つぎを二郎といひ、三郎、四郎、ついでのまゝによぶ事なり。(中略)成功とは、(中略)、物をいだして四府の尉、諸司の三分になりて、その官名をなのるなり。かくてその族々に太郎、二郎、兵衛、衛門ありて、(中略)何事につけても、まぎらはしき故、その上に姓の一もじをそへて、藤太郎、源二郎、清兵衛、宗左衛門などやうに名乗たる物にて、今時の名はこの姿なり。」と書いている。
只野真葛という女性(『赤蝦夷風説考』を著した工藤平助の長女)が、年老いてから書き上げた『独考』を、江戸に住む妹萩尼を通して曲亭馬琴に届け添削と板行を依頼した時、
その「馬琴様、みちのくの真葛」とばかり宛名し、文辞も尊大な手紙を見て、馬琴は礼節を弁えぬものと感じ、早速非難の返事を書き、翌朝萩尼に渡す。最も強く非難したのは、「馬琴」という戯作者の名を不用意に用いたことである。戯作以外の書物を送るのであれば、戯作者の名を宛名にするのは失礼だというのである。これは書翰のなかで真葛が、馬琴の実名とは知らずに「瀧澤解〔とく〕」という名を使っていたため、「滝沢清右衛門」が通称であると教えたものと思われる。武士などは、他人から呼ばれるための名前を本名とは別に持っていた。これも人の実名を呼ぶことは無礼にあたると思われていたためであろう。
二十日ばかりの後、萩尼から馬琴のもとへ三月十一日付「瀧澤先生」宛の真葛著「とはずがたり」(『独考餘編』)、それに萩尼の書簡とが届けられる。(中略)三月二十四日、馬琴は書簡を書く。その中で「七種のたとへ」に感動したことを述べた後、『独考』の出版について意見を述べる。(中略)
さらに、自分の名前「解」は実名であり、通称「滝沢清右衛門」であると教える(落合直文氏「滝澤馬琴の手簡」による)。(鈴木よね子『只野真葛集』解題)
ところで、小学校か中学校か定かでないが、「滝沢馬琴」と教わった記憶がある。これは考えてみれば変な呼び方で、戯作者としての名が「曲亭馬琴」で、本名は「滝沢解」である。いわばペンネームと本名を混ぜて呼んだことになる。馬琴は色々な名を使っていて、「曲亭馬琴」「著作堂主人」「簑笠漁隠」「曲亭主人」、「馬琴 滝沢解」というのもある。本人が「滝沢馬琴」という名を使ったことがあるのであろうか。あの世とやらで腹を立てているのではなかろうか。彼は著作によって名前を使い分けていたようである。兎園会に寄せた「真葛のおうな」の中に次のように書いている。
曲亭も、馬琴も予が戯号なれど、戯作、狂詩、狂歌などのうへにのみ交はる友ならば、しか唱へられんに咎むべき事にはあらず。もし実学正文のうへをもて交はる友に、なほ曲亭とたゝへられ馬琴といはるゝは、是われをしらざるものに似たり。(中略)近ごろ平賀源内が、儒学、蘭学のうへには鳩渓と号し、戯作には風来山人と称し、浄瑠璃本の作あるには、福内鬼外としるしけり。又大田譚は、儒学に南畝と称し、狂詩に寐惚先生と称し、狂文狂歌に四方赤良、四方山人、巴人亭、李花園などもしるし、晩年には蜀山人と号したれども、戯作浄瑠璃のうへならでは、鳩渓を風来とも、鬼外とも称するものなく、狂文、狂詩、狂歌のうへならで、南畝を寐惚とも、四方とも、巴人亭とも称するものはあらざりき。
また、人の名前に関しては、子供に一郎、二郎、三郎と順に名前をつけることがあるが、これについて次のようにいわれる。
むかしは第一の子を太郎、つぎを次郎といひ、それより、三郎、四郎と十郎まで名づけ、十一人めより余一、余二と次第に名づくることなり。十は成数なれば、十郎よりはあまりといふ意なるべし。盛衰記に、金子十郎家忠の弟金子与一、那須十郎資隆の弟那須与一なり。余を与に作るは仮借なり。平惟茂を余五将軍といふも、十五郎たる故なり。源義経は第八子なるを九郎判官といへるは、八郎為朝の成行よからざれば、八郎をいみて九郎としたりとかや。曾我兄弟の、兄を十郎、弟を五郎といふも、わけあることなり。むかしは兄弟の排行正しかるうちに、たまたまみだれたりとおもふには、みな故あることなり。(山崎美成『三養雑記』天保十一年)
曾我十郎、同五郎に関しては
鎌倉時代、人の嫡子より次を太郎二郎三郎と次第に名付る。なべての事なり。曾我十郎祐成、同五郎時宗と名乗し事、人ごとに不審する事なり。今按るに、十郎が元服せし時は、祖父伊藤祐親は三浦介に預けられて存生なるべければ、祐成を祐親が子とし、其末子伊藤九郎祐清が弟に准じて、十郎とは呼ける成べし。五郎は文治六年九月七日に北条時政の亭にて元服して、五郎時致と名乗よし、東鑑に見へたれば、其時に時政の子として時致と名乗らせ、江島小四郎義時の弟に准じて、五郎とは称せしにぞ。東鑑に時致とも、時宗とも書たり。実は時宗なるを、後に北条時宗出来より、是を諱て所々時致と書改しものなる歟〔か〕。(土肥経平『春湊浪話』安政四年成)
とある。
『仮名本曾我物語』によれば、曾我十郎、同五郎は元服前は、一萬、箱王といい、その父は河津三郎祐重〔すけしげ〕である。工藤祐経〔すけつね〕の郎党八幡三郎が父河津三郎を射殺した時、兄弟の母は身籠もっており、祐重の四十九日の翌日に男児を産むが、これは祐重の弟で子供のない伊東九郎祐清〔すけきよ〕が貰い受けている。
弟箱王が元服したのは、十郎が箱王を北条四郎時政のところに連れて行き頼んだのであり、時政は
「まことに、面々の御事、見はなし申べきにあらず。しかれば、よそにても、さあらば、無念なるべし。もつ共本望也。時政が子と申さん」とて、髪をきり、烏帽子をきせて、曾我五郎時致〔ときむね〕となのらせける。
とあり、東洋文庫『真名本曾我物語』では、
「我と発心せざらむ法師は、げには悪しき心も出で来ぬべし。しかるに、かやうに(私を)打憑〔うちたの〕みて坐〔ましま〕す事こそ喜び入りて候へ」
とて、やがて御前にて本鳥〔もとどり〕を取り挙げ、名をば北条五郎時宗とぞ着けられける。
となっている。そもそも河津三郎祐重が殺される原因を作ったのはその父(兄弟の祖父)伊東二郎祐親〔すけちか〕であり、河津三郎祐重はその嫡子である。河津三郎には姉が二人あったのであろうか。それとも伊東二郎の嫡子で河津三郎という名付け方もあったのであろうか。
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