落語の中の言葉48「ばくち」
落語にはサイコロを使った「ばくち」にかかわる噺がいくつかある。「へっつい幽霊」「今戸の狐」「狸賽」「看板のピン」等々。「へっつい幽霊」は二つ賽の丁半(長半)、「今戸の狐」は賽子を三つ使うというばかりで内容はわからない。一方「狸賽」と「看板のピン」は賽が一つの「ちょぼいち」である。
昔の映画などには賭場がよく出てきたので、なんとなく知ってはいるがその程度である。最近、江戸時代に書かれた、その名も「博奕仕方風聞書」というものを見たので紹介しておこう。これは「御代官手代などの記録せしものゝ如し」といわれる。
丁半(長半)については次の通り。
「きつね」という名のものは書かれていない。「丁半」というのは賽の目(複数の賽を使う場合は目の合計)が「丁」(偶数)であるか「半」(奇数)であるかに賭けるもので、勝った者は賭け金の倍額を受け取る。これは賭ける者同士の勝負であって、主催者は賭の当事者にはならない。丁方、半方の賭け金を同額に導くことによって勝負のリスクを負わない。丁方が少ないと思えば「丁方ないか、丁方ないか」と、丁方を募って同額にして「盆中コマ揃いました。勝負」ということになる。
では主催者の収入はなにかというと、賭け金を融通した場合の利子と寺銭であるという。そのため主催者は貸元と呼ばれる。
ここに「はぐり」というのは、博奕の場を提供する者へ払う場代(敷という)である。
一方、「ちょぼいち」はというと丁半とは大分違う。
こちらは筒取(胴取)と 張方の勝負である。一から六までの目に均等に張られれば、筒取は出た目の者に四倍払っても賭け金の六分の二は手元に残る。しかし、賭け金が偏った場合には大きく儲かることもあるが、大損することもある。「看板のピン」で胴を取る者が、金は充分にあって胴が潰れることはないから安心して賭けろというのはそのためである。
ついでに云うと、壺振りは映画などでは一種の専門職のように描かれことが多いが、同書では違う。
勿論これらは実際のものではあっても、一例であって、すべてがこの通りではないことは同文に次のようにある通りである。
「尤博奕之善悪又は場所に寄少々ツヽ仕方又は割合等相違も有之候得共、荒増前書之通に御座候」
ところで博奕からきたといわれる言葉に「ぼんくら」というのがある。
辞書によると、例えば広辞苑では
「(もと、ばくちの語で、采を伏せた盆の中に眼光がとおらないで常にまけるという意)ぼんやりしている人。うつけもの。」
とあり、小学館『日本語源大辞典』では
「ぼんやりしていて物事の見通しがきかないさま。
語源説
①博徒用語で、盆の上での勝負に対する眼識が暗い意〈大言海〉
②賭博用語で、サイコロを振り、勝負を見きわめる胴親の補助役が、勝った方に渡すコマをまちがえることで、盆の上の計算に暗い意〈サイコロの周囲=加太こうじ〉
③ボンは小児の意の坊の訛〈俚言集覧〉」
とある。
語源説の③は別にして、語源説①のもとである大言海には
「ぼんくら(盆暗) 博奕ノ語。簺ヲ伏セタル盆ノ中ニ、眼光トホラズ、負目ニノミ賭ケル気ノ利カヌコト。又、ソノモノ。ボンヤリモノ。」とあって、負けてばかりいること(またその者)という。人間がしっかりしているかぼんやりしているかと、博奕での勝ち負けは別物だと思うのだが。
また語源説②については、勝った方に賭けたコマの倍を渡すのであるから、それを間違えることなどよっぽどの愚かで、だからこそ「盆暗」なのだといわれれば、その通りではあるが、なにか腑に落ちない。これとは少し違う意味を三田村鳶魚氏が書いている。
三田村氏は明治時代に実際に賭場を見て、その様子を次のようにいう。
壺皿に暗い、賽の目に暗いというのなら賭ける者に対しての言葉だと思うが、盆に暗いというのであれば盆を仕切る者に対しての言葉と解した方がよさそうに思うが、どうであろう。
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昔の映画などには賭場がよく出てきたので、なんとなく知ってはいるがその程度である。最近、江戸時代に書かれた、その名も「博奕仕方風聞書」というものを見たので紹介しておこう。これは「御代官手代などの記録せしものゝ如し」といわれる。
丁半(長半)については次の通り。
一、長半博奕仕方
是はぼん蓙〔ござ〕と唱蓙を敷、手合之者、何人にても廻りに並び、賽弐ツ又は一ツ坪皿に入伏置、銘々長半と分け当分に金銭張置、坪明ケ勝負いたし申候
一、投長半
是は賽三ツにいたし、手に持投申候、其外仕方は右同断
「きつね」という名のものは書かれていない。「丁半」というのは賽の目(複数の賽を使う場合は目の合計)が「丁」(偶数)であるか「半」(奇数)であるかに賭けるもので、勝った者は賭け金の倍額を受け取る。これは賭ける者同士の勝負であって、主催者は賭の当事者にはならない。丁方、半方の賭け金を同額に導くことによって勝負のリスクを負わない。丁方が少ないと思えば「丁方ないか、丁方ないか」と、丁方を募って同額にして「盆中コマ揃いました。勝負」ということになる。
では主催者の収入はなにかというと、賭け金を融通した場合の利子と寺銭であるという。そのため主催者は貸元と呼ばれる。
一、貸元
是は金高に勝負有之候節之儀にて、貸元は手合之者へ金銭貸遣候て、口之子と唱、金壱両に付利分弐百文又は三百文ツヽ取申候
博奕場にて張銭受候者より、てら銭と名付、金銭之高に寄拾文弐拾文程ツヽも溜置、はぐりと一緒に致置諸雑用相払、残りは貸元引取候由に御座候
此寺銭貸元引取候訳は貸遣候金銭之内には捨〔すた〕り多く出来候故、寺銭と名付、引取申候由に御座候
ここに「はぐり」というのは、博奕の場を提供する者へ払う場代(敷という)である。
一、筒敷
是は博奕之宿いたし候者之儀にて、一日座料を敷と唱、何貫文と極取申候
但座料の儀は博奕場張置候銭高之内にてはぐりと唱、四文五文ツヽ取溜置敷に遣申候
一方、「ちょぼいち」はというと丁半とは大分違う。
一、ちょぼ市
是は蓙之上に壱より六迄之賽の目を印置、坪皿に賽壱つ入伏置、銘々好きの目へ金銭張置、坪明け勝負いたし申候
手合大勢に成候得は、張所込合候故、張紙にて賽の目形にいたし置申候
一張置候賽の目出候得は、銭一文張置候得ハ四文、金一分張置候得ハ金壱両受取申候、右之通四割に為請取申候
一筒取之者は仮令〔たとえ〕は、六之目出候得者六之張銭残し置、外目に張置候金銭引取候内にて、六之目に有之候金銭へ四割に払ひ遣し、残銭有之か又は不足有之候処にて勝負いたし申候、廻り筒と申、順々ニ筒取いたし候節は右之通四割に為請定、筒に極め候得ハ四割八分に為請申候
こちらは筒取(胴取)と 張方の勝負である。一から六までの目に均等に張られれば、筒取は出た目の者に四倍払っても賭け金の六分の二は手元に残る。しかし、賭け金が偏った場合には大きく儲かることもあるが、大損することもある。「看板のピン」で胴を取る者が、金は充分にあって胴が潰れることはないから安心して賭けろというのはそのためである。
ついでに云うと、壺振りは映画などでは一種の専門職のように描かれことが多いが、同書では違う。
一、坪ふり
是は手合之内銭高成、張銭当り銭多く筒取より請候者、祝儀の様に五拾文三拾文ツヽ遣し、又は寺銭の内少々も遣し坪ふらせ候由
此坪ふりは右場にて負候者、多くは坪ふりいたし候由に御座候
勿論これらは実際のものではあっても、一例であって、すべてがこの通りではないことは同文に次のようにある通りである。
「尤博奕之善悪又は場所に寄少々ツヽ仕方又は割合等相違も有之候得共、荒増前書之通に御座候」
ところで博奕からきたといわれる言葉に「ぼんくら」というのがある。
辞書によると、例えば広辞苑では
「(もと、ばくちの語で、采を伏せた盆の中に眼光がとおらないで常にまけるという意)ぼんやりしている人。うつけもの。」
とあり、小学館『日本語源大辞典』では
「ぼんやりしていて物事の見通しがきかないさま。
語源説
①博徒用語で、盆の上での勝負に対する眼識が暗い意〈大言海〉
②賭博用語で、サイコロを振り、勝負を見きわめる胴親の補助役が、勝った方に渡すコマをまちがえることで、盆の上の計算に暗い意〈サイコロの周囲=加太こうじ〉
③ボンは小児の意の坊の訛〈俚言集覧〉」
とある。
語源説の③は別にして、語源説①のもとである大言海には
「ぼんくら(盆暗) 博奕ノ語。簺ヲ伏セタル盆ノ中ニ、眼光トホラズ、負目ニノミ賭ケル気ノ利カヌコト。又、ソノモノ。ボンヤリモノ。」とあって、負けてばかりいること(またその者)という。人間がしっかりしているかぼんやりしているかと、博奕での勝ち負けは別物だと思うのだが。
また語源説②については、勝った方に賭けたコマの倍を渡すのであるから、それを間違えることなどよっぽどの愚かで、だからこそ「盆暗」なのだといわれれば、その通りではあるが、なにか腑に落ちない。これとは少し違う意味を三田村鳶魚氏が書いている。
三田村氏は明治時代に実際に賭場を見て、その様子を次のようにいう。
八王子に六斎の市が立つ、その六斎市の日にやることになっている。三間盆といいまして、本当に畳を三間繋ぐ、二枚ずつ合せて鎹〔かすがい〕を打ちます.そうしてその正面のところに、賽と壺皿を持った者が立膝をしている。張る人は両側にいるので、畳の竪一畳目一畳目のところに、子分の目の利いたやつが一人ずついる。三間ですから、片側に五人くらいいることになりますかね。無論野天博奕です。
こういう博突になりますと、張る方もナマで張る。壺皿は目籠の底を深くしたようなやつを、紙で張って渋が引いてある。賽は一寸角もある、鹿の角の大きなやつです。これを二つ打ち込んで壺皿をポンと伏せる。長方・半方はきまっていますから、長の人はあっち、半の人はこっちに分れる。草鞋穿きの人もあり、下駄穿きの人もありますが、盆の上へは上りません。皆しゃがんでいる。畳の境にいる若い者は、尻端折りで膝をついていますが、壺皿が伏せられるのを見ると、「張ったり張ったり」と言う。長方も半方もどんどん張るので、札もあれば銀貨もあり、随分複雑しています。それを境目にいるやつが見ている。両側互いに向い合って、頷き合うような様子をしていますが、それがずっとしまいまでゆくと、「勝負」と言ってあけるのです。長方に張ったのが百両あれば、半方にも張ったのも百両なければいけない。それを金へ手をつけないで勘定して、両方が合わなければ、何とかして同じようにする。大勢いますから、造作なく平均することが出来る。この張った金をすぐ勘定出来るやつを、盆が明るいというので、反対にそれが出来ないやつは、何だこの盆暗野郎、といわれる。ボンクラという言葉は博奕の盆から来ているのですが、今の人はおそらく知らないでしょう。私もそこではじめて聞いたので、これはよほどの学者でもわからないに相違ない。(『三田村鳶魚全集』第十三巻 「侠客の話」)
壺皿に暗い、賽の目に暗いというのなら賭ける者に対しての言葉だと思うが、盆に暗いというのであれば盆を仕切る者に対しての言葉と解した方がよさそうに思うが、どうであろう。
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