落語の中の言葉47「淡島さまと夢」
八代目桂文楽「夢の酒」より
店がひとっきり片付いて奥へ来てうたた寝をした若旦那は夢をみる。女房のお花が揺り起こし、夢の話を聞かせてくれとせがむ。怒らないという約束で話をする。本所へ用足しにいくと雨に降られ、おつな家の軒下に雨宿りをしていると、女中が見つけて、これぞ美人という御新造も上にあがるように勧め、酒肴で馳走する。普段は酒を飲まない若旦那が酒を飲み、頭が痛くなって離れに床を敷いて休ませてもらう。気分が良くなったところで、今度は御新造が頭が痛くなったといって若旦那の蒲団へ入ってくる。そこで起こされたというと、女房のお花はふしだらだといって泣き騒ぐ。店にいた大旦那がやってきてたしなめると、お花は夢の中の家に行って御新造に小言をいってくれと大旦那に頼む。淡島様の上の句を詠みあげて誰それが見た夢に導いてください、そうしたら下の句を詠みあげますといって頼むときっと導いてくれるという。大旦那は引き受けて、普段はしない昼寝をすると悴が夢に見た本所の家にいく。ところが小言をいうどころか大旦那も酒の支度をされる。ただ、火をおとしていまったので燗がつくまで冷酒でつなぐように云われるが、冷酒は飲まないことにしているのでと断っているところでお花に起こされ、「冷やでもよかった。」
淡島様の歌と夢の中へ導かれることについては、この落語以外には聞いたことがない。そもそも淡島明神は、江戸の町にはすくなかったようで、網野宥俊氏の『浅草寺史談抄』(昭和三十七年)には「江戸の近在で、淡島神を祀ったところは、当浅草寺の他に、文京区音羽の護国寺(真言宗)と世田谷区北沢の森厳寺(浄土宗)の三ヵ所であった。」とある。また『江戸名所図会』(ちくま学芸文庫の事項索引)には、淡島明神は四ヶ所載っているが、江戸の町には浅草の浅草寺内に一ヶ所あるだけで、あとは郊外の北沢村と相模国、下総国である。
浅草寺の淡島明神のところにも、この場所にはもと東照宮があり、それが焼けて城内紅葉山へ遷座し、そのあとに淡島明神が勧請されたことしか書かれていない。
内容はまったく違うが、夢と関係があるのは北沢村の淡島明神で、ここは「夢想の灸」で賑わったという。『江戸名所図会』によれば、八幡山森巌寺の開山清誉上人は、積年腰痛に悩まされていたが産土神である淡島明神(上人は紀州名草郡の産)に祈願して夢で霊示を受けて灸治の法を授けられ腰痛から開放された。それで紀州名草郡加太の淡島明神を勧請し、灸治の法は代々寺に伝えられたという。
文化十一年三月ここを訪れた十方庵敬順は次のように書き残している。
また、淡島様の歌については、
窪田福男『浜町史』上巻(窪田ビル竣工記念 昭和五十九年四月)に、淡島社は「浜町一丁目十一番地にある。祀神四座即ち正殿には、少彦名神相殿の左方に月読命及大己貴命右方に気足姫命(神功皇后)を祀る。社傅に曰く」として、その縁起を記述した最後に
と書かれている。
窪田福男氏はこの本について「内容は主として日本橋区役所発行『日本橋区史』『新編日本橋区史』より浜町に関する事の抜萃である」と述べているが、淡島神社の記載は一瞥したところでは二書には見当たらなかった。別の資料からとったものであろうか。この御神詠も浜町の淡島神社だけのものなのか、本社と共通のものなのかわからない。またこの歌が落語「夢の酒」の歌かどうかも定かでない。
江戸時代の浜町辺(浜町は明治五年起立)はすべて武家地で、大名の中屋敷や下屋敷で占められていた。明治以後は毛利邸と細川邸になっており、明治四十年一月調査の東京市日本橋区全図には清正公祠と淡島神社が載っているが、明治九年の東京全図には清正公祠はあるものの淡島神社は見えない。浜町の淡島神社は明治になってからできたものであろうか。
ところで江戸の淡島信仰は、淡島願人によってひろめられたといわれているが、この淡島願人は、「願人」という言葉からもわかるように、銭を貰うことが目的であったようで、貰い歩く先も主に色町だったようである。
『江戸名所図会』巻之一(天保五年(一八三四)刊)の藪小路の図の右の方に淡島願人が描かれているのであげておく。ついでにその百四十年ほど前の『人倫訓蒙図彙』(元禄三年(一六九〇)刊)にある粟嶋殿の図(左側が粟嶋殿で右は御優婆勧進)もあげておく。
ところで、落語には夢の噺がいくつもあり、夢についていわれていることの多くが出てくる。
一、心にある願望や恐れの現れとしての夢。「浮世床」・「夢金」そしてこの「夢の酒」は願望の現れであり、「鼠穴」・「水屋の富」・「百年目」の夢は心配・不安の表れである。落語の夢では願望がストレートに表現されているが、願望には社会規範に反する身勝手なものも多く、それらは無意識のうちに修正を受け、全く違う姿となって現れる場合もある。したがって夢判断や夢の精神分析を経なければ真の姿が解らないことも多い。
一、天の啓示としての夢。「御慶」で富に夢中になっている八五郎が見た、梯子のてっぺんに鶴が留まっている夢はこれであろう。
一、幸運(または不運)を呼ぶ夢。「天狗裁き」では、蛇を跨いだ夢を見た寅さんは、それからとんとん拍子に商売がうまくいって、表に店を出し、これも繁昌しているから、お前さんにもいい夢をみてもらいたいと、女房に頼まれることから始まる。
かっては、いい夢を貰い受けたり買い取ったりすることもおこなわれていたようである。
たとえば、北条時政の長女政子は腹違いの妹が見た夢(いづくともなく、たかき峰にのぼり、月日を左右の袂におさめ、橘の三なりたる枝をかざす)を、悪い夢だとウソをいい、人に売り渡せばその難を逃れられるとだまして、妹が欲しがっていた唐の鏡に唐綾の小袖一かさねをそえて買い取っている。(仮名本『曾我物語』、ただし真名本にはこの話は見えない)
また、徳川家康も家臣から夢を知行五十石で買い取っているという。
家康の話を以下に紹介しておこう。
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店がひとっきり片付いて奥へ来てうたた寝をした若旦那は夢をみる。女房のお花が揺り起こし、夢の話を聞かせてくれとせがむ。怒らないという約束で話をする。本所へ用足しにいくと雨に降られ、おつな家の軒下に雨宿りをしていると、女中が見つけて、これぞ美人という御新造も上にあがるように勧め、酒肴で馳走する。普段は酒を飲まない若旦那が酒を飲み、頭が痛くなって離れに床を敷いて休ませてもらう。気分が良くなったところで、今度は御新造が頭が痛くなったといって若旦那の蒲団へ入ってくる。そこで起こされたというと、女房のお花はふしだらだといって泣き騒ぐ。店にいた大旦那がやってきてたしなめると、お花は夢の中の家に行って御新造に小言をいってくれと大旦那に頼む。淡島様の上の句を詠みあげて誰それが見た夢に導いてください、そうしたら下の句を詠みあげますといって頼むときっと導いてくれるという。大旦那は引き受けて、普段はしない昼寝をすると悴が夢に見た本所の家にいく。ところが小言をいうどころか大旦那も酒の支度をされる。ただ、火をおとしていまったので燗がつくまで冷酒でつなぐように云われるが、冷酒は飲まないことにしているのでと断っているところでお花に起こされ、「冷やでもよかった。」
淡島様の歌と夢の中へ導かれることについては、この落語以外には聞いたことがない。そもそも淡島明神は、江戸の町にはすくなかったようで、網野宥俊氏の『浅草寺史談抄』(昭和三十七年)には「江戸の近在で、淡島神を祀ったところは、当浅草寺の他に、文京区音羽の護国寺(真言宗)と世田谷区北沢の森厳寺(浄土宗)の三ヵ所であった。」とある。また『江戸名所図会』(ちくま学芸文庫の事項索引)には、淡島明神は四ヶ所載っているが、江戸の町には浅草の浅草寺内に一ヶ所あるだけで、あとは郊外の北沢村と相模国、下総国である。
浅草寺の淡島明神のところにも、この場所にはもと東照宮があり、それが焼けて城内紅葉山へ遷座し、そのあとに淡島明神が勧請されたことしか書かれていない。
内容はまったく違うが、夢と関係があるのは北沢村の淡島明神で、ここは「夢想の灸」で賑わったという。『江戸名所図会』によれば、八幡山森巌寺の開山清誉上人は、積年腰痛に悩まされていたが産土神である淡島明神(上人は紀州名草郡の産)に祈願して夢で霊示を受けて灸治の法を授けられ腰痛から開放された。それで紀州名草郡加太の淡島明神を勧請し、灸治の法は代々寺に伝えられたという。
文化十一年三月ここを訪れた十方庵敬順は次のように書き残している。
武州瀬田がや領北沢村淡嶋大明神といふは、中渋谷道元坂の上、石地蔵より右へ入て弐拾余町、台座村といふより八町といえり、寺を森厳寺と号し、当時の住持は灸点に感応せしとて、毎月三・八の日は未明より日終〔ひねもす〕灸点を施し、淡嶋明神より夢想の告によりて名灸の治法を得たりとかや、(中略)一切諸症の煩ひに甚よしと、いひ広めるが故に、諸人これを信じて、三・八の日は山をなして群集しつゝ、施点に預らんが為に、繁々に来る人は講中と号し、一番より五十番までは札を除置もらひて灸点にあふ事となん、依之振がゝりに来る人は、夜を籠て三・八の日は早朝にいたるといへども、人先の施点にあふ事はなりがたく、朝より暮に及ぶ迄、番数三百有余に満るは儘ある事とかや、(中略)
扨、淡嶋明神の祠は南の垣根通の土手際にあるに、甲斐なき板囲ひの纔壱間四方のほこらの内にすえ置ぬ、灸点の噂さは広けれども、社壇の狭く麁抹なるには、又、目を驚せり、
此神の霊告によりて、斯〔かく〕寺の繁栄する事なれば、崇敬の仕様、模様もあらんに、番小屋の如く、いぶせきありさまは笑止いふ斗〔ばかり〕なし、(以下略)(十方庵敬順『遊歴雑記初篇』)
また、淡島様の歌については、
窪田福男『浜町史』上巻(窪田ビル竣工記念 昭和五十九年四月)に、淡島社は「浜町一丁目十一番地にある。祀神四座即ち正殿には、少彦名神相殿の左方に月読命及大己貴命右方に気足姫命(神功皇后)を祀る。社傅に曰く」として、その縁起を記述した最後に
御神詠にいはく
われたのむ人の悩をなこめすは
世にあはしまの神といはれし
と書かれている。
窪田福男氏はこの本について「内容は主として日本橋区役所発行『日本橋区史』『新編日本橋区史』より浜町に関する事の抜萃である」と述べているが、淡島神社の記載は一瞥したところでは二書には見当たらなかった。別の資料からとったものであろうか。この御神詠も浜町の淡島神社だけのものなのか、本社と共通のものなのかわからない。またこの歌が落語「夢の酒」の歌かどうかも定かでない。
江戸時代の浜町辺(浜町は明治五年起立)はすべて武家地で、大名の中屋敷や下屋敷で占められていた。明治以後は毛利邸と細川邸になっており、明治四十年一月調査の東京市日本橋区全図には清正公祠と淡島神社が載っているが、明治九年の東京全図には清正公祠はあるものの淡島神社は見えない。浜町の淡島神社は明治になってからできたものであろうか。
ところで江戸の淡島信仰は、淡島願人によってひろめられたといわれているが、この淡島願人は、「願人」という言葉からもわかるように、銭を貰うことが目的であったようで、貰い歩く先も主に色町だったようである。
浅黄頭巾は風流を天窓〔あたま〕から示しけるに、銭を貰うには濃染〔こぞめ〕の羽織の色里に入りて、草鞋の紐、甲掛〔こうがけ〕の紐の固き手の内を和らぐ鈴の音、野袢纏の鼠地に白き剣鋒〔けんぽう〕小紋の数を願い、奉納の折鶴・縊猿〔くくりざる〕は客をつる不吉をさるの縁起言葉、新内節の印本による時は、淡島の名をば丹七と呼びしとかや。当時丹七・丹次郎は為永春水が小本に精〔くわ〕しく、色男の淡島に身をやつしたるは当時の作意なり。勿論淡島大明神は、町家にても、格子戸作りの粋家に、立ちて銭を乞う。工商の店頭へは立つこと少なし。捧〔ささ〕げ来たる所の宮作りはいと美しく粧いたりし。これなん銭もらい中に聊か念ある考案にして、一種の別物というべし。(菊池貴一郎『絵本江戸風俗往来』明治三十八年刊)
『江戸名所図会』巻之一(天保五年(一八三四)刊)の藪小路の図の右の方に淡島願人が描かれているのであげておく。ついでにその百四十年ほど前の『人倫訓蒙図彙』(元禄三年(一六九〇)刊)にある粟嶋殿の図(左側が粟嶋殿で右は御優婆勧進)もあげておく。
ところで、落語には夢の噺がいくつもあり、夢についていわれていることの多くが出てくる。
一、心にある願望や恐れの現れとしての夢。「浮世床」・「夢金」そしてこの「夢の酒」は願望の現れであり、「鼠穴」・「水屋の富」・「百年目」の夢は心配・不安の表れである。落語の夢では願望がストレートに表現されているが、願望には社会規範に反する身勝手なものも多く、それらは無意識のうちに修正を受け、全く違う姿となって現れる場合もある。したがって夢判断や夢の精神分析を経なければ真の姿が解らないことも多い。
一、天の啓示としての夢。「御慶」で富に夢中になっている八五郎が見た、梯子のてっぺんに鶴が留まっている夢はこれであろう。
一、幸運(または不運)を呼ぶ夢。「天狗裁き」では、蛇を跨いだ夢を見た寅さんは、それからとんとん拍子に商売がうまくいって、表に店を出し、これも繁昌しているから、お前さんにもいい夢をみてもらいたいと、女房に頼まれることから始まる。
かっては、いい夢を貰い受けたり買い取ったりすることもおこなわれていたようである。
たとえば、北条時政の長女政子は腹違いの妹が見た夢(いづくともなく、たかき峰にのぼり、月日を左右の袂におさめ、橘の三なりたる枝をかざす)を、悪い夢だとウソをいい、人に売り渡せばその難を逃れられるとだまして、妹が欲しがっていた唐の鏡に唐綾の小袖一かさねをそえて買い取っている。(仮名本『曾我物語』、ただし真名本にはこの話は見えない)
また、徳川家康も家臣から夢を知行五十石で買い取っているという。
家康の話を以下に紹介しておこう。
神君浜松御在城の砌、御家人の内天野三平となん云し人の下女、正月の初夢に富士山の頂上にて笠をかむり、簑を着て粥を食ける夢を見候と語りければ、主人の三平下女より貰ひ請、我夢になして神君の御前に出仕して夢の様申上ければ、神君大に悦せ玉ひ、右の夢を天野三平より知行五十石に買求させ玉ひ、御心の内に夢を判ぜられ、富士山の嶺にて笠を着つれば上見ぬ人なり。簑を着つるは美濃の岐阜御手に入の前兆、粥を喰と云は甲斐の信玄も亡びて手に入の表事也と、何となく御口号に不二の山にてかひを喰けり、と歌の下句に云出させ玉ひ、浜松御城下勘間道場教興寺住持其阿を被召出、宗匠被仰付連歌御興行有之、右の富士の山にて粥を喰けりの御口すさびを題にして、百韵満尾なされ、御夢想判じの御思召の通り、其年に岐阜も甲州も御手に入との御事也。」(大田南畝著後人追補『半日閑話』)
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