落語の中の言葉46「足袋屋の看板(続)」
十代目桂文治「蛙茶番」より
前回に続いて、今回は判じものの看板についてとりあげる。
まずは饅頭(餅)の看板・白粉の看板。
次に白粉の看板。
元禄の頃に使われたもので、文化度にはもう使われていなかったようである。
判じ物の看板として有名なのは風呂屋の弓矢と焼き芋屋の八里半であろう。
また『守貞謾稿』には「古の湯屋の招牌なり。ゆいいる、と云ふ謎なり。『射入る』と『湯に入る』と、言近きをもってなり。」とあり、別の所に江戸丹前風呂の古図を載せている。風呂屋女(湯女)が盛んであった時代のもののようである。風呂屋女は明暦三年、吉原が日本堤に移転(新吉原)するのと同時に一掃された。
幕府から吉原年寄達に示された移転の条件の中に
「一只今迄、昼許商売いたし候得共、遠方え被遣候代り、昼夜の商売御免の事」と並んで
「一御町中に、弐百軒余有之候風呂屋共、悉く御潰し被遊候事」
の一条がある。(庄司勝富『異本洞房語園』享保五年自序)
丹前風呂の時代の風呂は、湯に身体を浸すものではなく、蒸気風呂が主である。喜田川守貞が云う「『射入る』と『湯に入る』と、言近きをもってなり」というのはどうであろうか。『東牖子』にいう、「いると云義なり」の方をよしとしたい。
また、それが使われた時期も
「湯屋に矢の形作りたるを出せしことは、寛政ごろまでもありし也。」(喜多村筠庭『筠庭雑考』天保十四年自序)とあって、江戸時代を通して使われたわけではなく、天保には一般的ではなかったようである。
焼き芋については、
また『絵本江戸風俗往来』には
とあって図を二つあげている。また
ともある。
左にあげるのは東都歳事記の八月十五日、麻布六本木芋洗坂の図で、次のように書かれている。
旧暦八月十五夜は中秋の名月で供え物から「芋名月」とも呼ばれる。ただし「芋名月」の芋は里芋であって薩摩芋ではない。
『絵本江戸風俗往来』にある挿絵もあげる。
左は「木戸際の番太郎の店」、右は「御外曲輪・見付御門外御堀端にある焼芋屋」であろう。
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前回に続いて、今回は判じものの看板についてとりあげる。
まずは饅頭(餅)の看板・白粉の看板。
古来は、まんぢうみせの縁先に木馬を出したり、あらむましと云心を表したり、元禄頃よりやみたり(曳尾庵『我衣』文化文政頃)
宝暦の頃刊行なしゝ『お伽鳥つくし』という草紙に見えたる図なり(下図)。(中略)馬に面をかぶらせたるは、馬の息の餅にかゝるがゆゑ、ふく面を掛しといふ洒落ならんと或人いへり。〔我衣〕に、元禄頃やみたりとあるは誤にて、宝暦年間まで駒込追分の餅屋には、此木馬の看板ありしとぞ。
是も又古老の話に、木馬は真粉馬の看板なり。昔は真粉馬、飴の鳥、一対の物なりしが、今飴の鳥はありて、真粉馬は絶たりと。(柳亭種彦『用捨箱』天保十二年刊)
次に白粉の看板。
おしろい屋に、凸形の箱に鷺をかきたるは、白い物のなぞ、箱の凸なるは、顔の形よきを中高といふによれり(喜多村筠庭『嬉遊笑覧』文化十三年自序)
元禄の比おしろいの看板に、白鷺をゑがきたる事あり。左にあらはす図の如し。按に、これしろきものといふはんじ物なるべし。(岩瀬醒(山東京伝)『骨董集』文化十年成)
元禄の頃に使われたもので、文化度にはもう使われていなかったようである。
判じ物の看板として有名なのは風呂屋の弓矢と焼き芋屋の八里半であろう。
風呂屋に矢を出せるは、いると云義なり(田宮仲宣『東牖子』享和元年自序)
また『守貞謾稿』には「古の湯屋の招牌なり。ゆいいる、と云ふ謎なり。『射入る』と『湯に入る』と、言近きをもってなり。」とあり、別の所に江戸丹前風呂の古図を載せている。風呂屋女(湯女)が盛んであった時代のもののようである。風呂屋女は明暦三年、吉原が日本堤に移転(新吉原)するのと同時に一掃された。
幕府から吉原年寄達に示された移転の条件の中に
「一只今迄、昼許商売いたし候得共、遠方え被遣候代り、昼夜の商売御免の事」と並んで
「一御町中に、弐百軒余有之候風呂屋共、悉く御潰し被遊候事」
の一条がある。(庄司勝富『異本洞房語園』享保五年自序)
丹前風呂の時代の風呂は、湯に身体を浸すものではなく、蒸気風呂が主である。喜田川守貞が云う「『射入る』と『湯に入る』と、言近きをもってなり」というのはどうであろうか。『東牖子』にいう、「いると云義なり」の方をよしとしたい。
また、それが使われた時期も
「湯屋に矢の形作りたるを出せしことは、寛政ごろまでもありし也。」(喜多村筠庭『筠庭雑考』天保十四年自序)とあって、江戸時代を通して使われたわけではなく、天保には一般的ではなかったようである。
焼き芋については、
江戸にては蒸芋ありといへども、焼甘薯を専らとす。これを売る店数戸、挙げて数ふべからず。また阡陌番小屋にてこれを売る。価京坂より賤〔ひく〕し。市街番小屋、俗に番太郎と云ふ。武家の辻番には、賈する者これなし。(中略)
京坂にも焼芋店あり。多くは路傍に小店を携へ出てこれを売る。あるひは小戸にて売る。ともに行燈あり。○やき 全薯焼〔まるやきいも〕の謎なり。また 八里半 と誌すあり。栗の美味に近きの謎なり。栗と九里と和訓近き故なり。江戸も専らこの二書を用ふ。甘薯は、三都ともに冬を専らとす。(『守貞謾稿』)
また『絵本江戸風俗往来』には
江戸市中町家のある土地にして、冬分に至れば焼芋店のあらぬ所はなし。また町々木戸際なる番太郎の店にては、必ず焼芋を売る。総じて焼芋屋は、御外曲輪・見付御門外御堀端にある焼芋屋は必ず店大きく、丸焼焼芋と印したる看板行燈も巨大なり。(菊池貴一郎『絵本江戸風俗往来』明治三十八年自序)
とあって図を二つあげている。また
切焼〔きりやき〕とて割りて焼くに塩を用い、丸の儘焼くに塩を用いず。(中略)年々九月下旬より十二月までこの業の繁昌とす。正月より二、三月までは焼芋を焼かず蒸芋〔むしいも〕、また芋の丸揚〔まるあげ〕等を商いたり。
ともある。
左にあげるのは東都歳事記の八月十五日、麻布六本木芋洗坂の図で、次のように書かれている。
中古までは、麻布六本木芋洗坂に青物屋ありて、八月十五夜の前に市立ちて芋を商ふこと夥しかりしゆゑ、芋あらひ坂とよびけるなり。近来は坂上に市立てり。
旧暦八月十五夜は中秋の名月で供え物から「芋名月」とも呼ばれる。ただし「芋名月」の芋は里芋であって薩摩芋ではない。
『絵本江戸風俗往来』にある挿絵もあげる。
左は「木戸際の番太郎の店」、右は「御外曲輪・見付御門外御堀端にある焼芋屋」であろう。
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