落語の中の言葉44「鯉の滝登り」
十代目柳家小三治「道具屋」より
大家をしている伯父さんから呼ばれた与太郎、いってみると、伯父さんが世間に内緒でしている道具屋をやるように言われ、道具屋の符牒で「ごみ」といわれるガラクタを見せられる。その中に、与太郎はボラが素麺を喰っているのと間違うが、「鯉の滝登り」の絵がある。
鯉は滝を登って竜になるという伝説から、日本では、出世魚とされ、端午の節供には「鯉幟」として空に泳がされてもいる。しかし、鯉は流れの緩やかな川に棲む魚で、鮭やアユやシシャモのように海から川の急流を遡ったりしない。どうも間違いから起こったことのようである。
日本人は中国から漢字を輸入して使い始めた。その中には中国で使われている物とは別のものに当てられた漢字もある。「鮎」はナマズのことであるが日本では「アユ」として使い、ナマズには同じ音の「鯰」を当てる。「鰒」もアワビのことであるが日本では「フグ」に当て、アワビには「鮑・蚫」を当てている。そんなわけで、日本人が「黄鯉魚」を黄色いコイと勘違いしたことから起こったのかと思ったら、そうではなかった。中国にも鯉が滝を登って竜になるという伝説が広く知られていたようである。
和漢三才図会は、鯉の説明に『五雑組』を引用して次のようにいう。
ところで鯉幟といえば現在では、柏餅とともに端午の節供にかかせないものであるが、江戸時代それも幕末近くに、主に江戸で使われはじめたもののようである。
長谷川雪旦が描く挿絵では、外に立てているのは父方母方の家紋の幟や鍾馗、吹き流しが中心で鯉幟は吹き流しの後ろにわずかに見えるだけである。因みに家紋は父方を上に、母方を下に染めて一対立てたようである。
「幟にも下になってる母の紋」(誹風柳多留初編)
その二十年ほど後、広重の名所江戸百景「水道橋駿河台」には鯉幟が大きく描かれている。
ところで、『東都歳時記』は「婦女子の佳節と称して遊楽を事とすれども、いまだその拠るところを知らず」と述べているが、
五来重氏によれば
「稲作の開始にあたって田の神を祭るのが女子であり、女(早乙女)のほかは田の中に入ることができず、早乙女の潔斎のために女だけの斎籠〔いみこもり〕が」あった。そのための仮屋は「穢れや魔が入らないように、呪的霊力があると信じられた蓬や菖蒲で屋根を葺いたであろう。」「これに菖蒲と蓬をもちいることと、五月の田植月のあいだであればいつでもよいものを五月五日と日をきめたことは、中国の端午の影響が入ったとかんがえてよい」という。
江戸時代にも菖蒲や蓬を家の軒にさしたことは前述の『東都歳時記』の通り。又、川柳にも「隣へも階子〔はしご〕の礼にあやめ葺〔ふき〕」(誹風柳多留初編)などとある。
鯉幟については、「早乙女の忌み籠る仮屋の前や村境には恐ろしい顔を描いて刀をさした藁人形なども立てたにちがいない。」「こうした人形を忌み籠りの仮屋の前に立てる代わりに、布に鍾馗や武者絵を書いて幟にしたのが、その第一の変化とかんがえられる。(中略)武者絵の方は、源平盛衰記の勇士、悪七兵衛景清と三保谷の錣〔しころ〕引きとともに、足柄山の山姥と金太郎や朝比奈三郎義秀の鯉退治はもっとも愛用された図柄であった。」「しかしこれが五月空におよぐ鯉幟になるためには、もう一つの中間項が必要である。」
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大家をしている伯父さんから呼ばれた与太郎、いってみると、伯父さんが世間に内緒でしている道具屋をやるように言われ、道具屋の符牒で「ごみ」といわれるガラクタを見せられる。その中に、与太郎はボラが素麺を喰っているのと間違うが、「鯉の滝登り」の絵がある。
鯉は滝を登って竜になるという伝説から、日本では、出世魚とされ、端午の節供には「鯉幟」として空に泳がされてもいる。しかし、鯉は流れの緩やかな川に棲む魚で、鮭やアユやシシャモのように海から川の急流を遡ったりしない。どうも間違いから起こったことのようである。
五月五日の端午の節句(現在の子供の日)に鯉幟を立てる風習は比較的新しいもので、江戸時代から始まるといわれている。これは鯉が滝を登ると竜になるという言い伝えに由来するもので、中国が起源である。この伝説のもとになった『三秦記〔さんしんき〕』(現在伝わらない)には、
竜門の下に、毎歳季春、黄鯉魚が海および諸川から、
争い赴く。一歳の中で、竜門を登るものは、七十二
に過ぎず。初めて竜門を登れば、雲雨が起こり、天
火が後ろからその尾を焼き、そこで化して竜となる。
と出ている。ここから「鯉の滝登り」や「登竜門」の語が生まれた。鯉をかたどった幟は立身出世のシンボルというわけである。
ところがここに見える「黄鯉魚」は鯉ではなく、実は黄魚、また単に鱑あるいは鰉〔こう〕とも呼ばれる魚で、チョーザメのことなのである。なぜチョーザメが竜になるのか。古代の中国人は体長が五メートルほどもあり、ギザギザの五列の骨板をもつチョーザメの姿を竜に見立てた。遡河性のあるチョーザメは一年の決まった季節に黄河の上流まで来る。竜門は山西省にある黄河の難所である。ここを登りきった魚が竜になるという伝説は、チョーザメの遡河から生まれたのであった。(加納喜光『漢字の常識・非常識』)
和漢三才図会は、鯉の説明に『五雑組』を引用して次のようにいう。
『五雑組』に、〈世間一般に鯉はよく竜に化するというが、これは必ずしもそうではない。鯉の性は霊に通じ、よく江湖を飛び越すことができる。竜門の水は千仭のように険急で、どんな魚もよくこれを越えるものはないが、ただ鯉だけがこれを登ることができる。こんなところから鯉が竜に化成するという説が出てきたまでのことである〉(物部一)とある。
ところで鯉幟といえば現在では、柏餅とともに端午の節供にかかせないものであるが、江戸時代それも幕末近くに、主に江戸で使われはじめたもののようである。
五月五日 ○端午御祝儀。諸侯御登城。粽〔ちまき〕献上あり。貴賤、佳節を祝す(家々軒端に菖蒲・蓬をふく。菖蒲酒を飲み、また角黍〔ちまき〕・柏餻を製す。小児、菖蒲打ちの戯れをなす。○武家は更なり、町家に至るまで、七歳以下の男子ある家には戸外に幟を立て、冑人形等飾る。また座鋪のぼりと号して屋中へかざるは近世の簡易なり。紙にて鯉の形をつくり、竹の先につけて幟とともに立つること、これも近世のならはしなり。出世の魚といへる諺により、男児を祝するの意なるべし。ただし東都の風俗なりといへり。初生の男子ある家には、初の節句とて別けて祝ふ)。
六日 ○諸人、菖蒲湯に浴す。
○今日は、婦女子の佳節〔せっく〕と称して遊楽を事とすれども、いまだその拠るところを知らず。(斎藤月岑『東都歳時記』天保九年)
「幟にも下になってる母の紋」(誹風柳多留初編)
ところで、『東都歳時記』は「婦女子の佳節と称して遊楽を事とすれども、いまだその拠るところを知らず」と述べているが、
五月五日を「女の家」とか「女の夜」、あるいは「女の屋根」「女天下の日」などというのは、民俗学の常識である(五来重『宗教歳時記』)という。
五来重氏によれば
「稲作の開始にあたって田の神を祭るのが女子であり、女(早乙女)のほかは田の中に入ることができず、早乙女の潔斎のために女だけの斎籠〔いみこもり〕が」あった。そのための仮屋は「穢れや魔が入らないように、呪的霊力があると信じられた蓬や菖蒲で屋根を葺いたであろう。」「これに菖蒲と蓬をもちいることと、五月の田植月のあいだであればいつでもよいものを五月五日と日をきめたことは、中国の端午の影響が入ったとかんがえてよい」という。
江戸時代にも菖蒲や蓬を家の軒にさしたことは前述の『東都歳時記』の通り。又、川柳にも「隣へも階子〔はしご〕の礼にあやめ葺〔ふき〕」(誹風柳多留初編)などとある。
鯉幟については、「早乙女の忌み籠る仮屋の前や村境には恐ろしい顔を描いて刀をさした藁人形なども立てたにちがいない。」「こうした人形を忌み籠りの仮屋の前に立てる代わりに、布に鍾馗や武者絵を書いて幟にしたのが、その第一の変化とかんがえられる。(中略)武者絵の方は、源平盛衰記の勇士、悪七兵衛景清と三保谷の錣〔しころ〕引きとともに、足柄山の山姥と金太郎や朝比奈三郎義秀の鯉退治はもっとも愛用された図柄であった。」「しかしこれが五月空におよぐ鯉幟になるためには、もう一つの中間項が必要である。」
それは五色の〈吹き流し〉であって、丸い大きな竹の輪のまわりに五色の布五枚の半分ほどを筒状に縫いつけ、その端を吹き流したもので、いまも鯉幟竿の下の段につけてある。この五色の旗というものも陰陽道や修験道では魔除けの旗とする。これが鯉の形に変化して、鯉幟ができあがったと推定される。鯉幟という名称も、本来は幟旗〔のぼりばた〕、すなわち縦に長方形の旗であったことをしめしており、本来は幟に書かれた鯉の絵であったろう。これに横に長い五枚の旗を円形にした吹き流しを組み合わせることによって、鯉は立体化され、五月空におよぎ出したのである。という。
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