落語の中の言葉35「まぐろ」

        五代目古今亭今輔の「ねぎまの殿様」より

 「目黒のさんま」と同様の噺に「ねぎまの殿様」がある。本郷辺のお大名、雪の日に馬で向島へ雪見にゆくとて三太夫を供にして忍びで出かける。上野広小路にかかると両側の煮売屋から鍋物のいい匂いがしてくる。三太夫が下賤のものの飲食するところだからと止めるのを、「苦しゅうない」と一喝して入る。煮売屋のおやじが早口でまくし立てるので葱鮪をニャーと聞き取り、注文して醤油樽に腰掛けて食べる。酒を注文するとサブロクとダリがあり、ダリは四〇文で少し高いが品はよい、灘の生一本だというのでダリにする。たいそう満足して、向島行きはまたの日にしてそのまま屋敷へ戻る。数日してまた雪の日に昼食の一品は好みのものを言えるので「予の好みはニャーである」という。御膳番の当番にあたった留太夫はニャーが何だかわからない、通りかかった友達の三太夫から話を聞き、料理番へ取り次ぐが、料理番は殿のからだを心配して鮪は蒸して油を落とし、葱は茹でて臭みを抜いて調理する。それを食べた殿様は「これはニャーではない。三毛のニャーをもて」と立腹。困った留太夫は三太夫に相談。鮪は血合いの部分も入れ、葱は青いところを炙って入れると白・赤・青と三色になると教えられそのとおりにして出すと満足する。すると今度はダリをもてと言う。再び三太夫に聞いて燗徳利に酒を入れ猪口を添えてお盆にのせて出すと、「ニャーといいダリといい予は満足じゃ」と喜ぶ。「座って飲むのは面白うない。醤油樽をもて」

 生の鮪を食べるようになったのはいつ頃からであろうか。江戸の中期までは塩まぐろが多かったという。『宝暦現来集』には「文政年比より天保二年に至り、流行之分」としていろいろ列挙しているが、その中で食べ物関係を拾うと
「一、牛房は刻で枡で売る
 一、団子の串さし四つが多し
 一、ふかし芋より焼芋売れる
 一、塩まぐろを止めて、すき身が売れる
 一、法事白強飯止で、まんぢう配る
 一、甘酒は年中歩行 」
等とある。すき身とあって刺身はまだのようである。

三田村鳶魚氏は『娯楽の江戸 江戸の食生活』に
文化七、八両年は、冬になって、伊豆・相模方面で、一日一万尾の鮪が捕れたということです。沢山捕れたから安くもなり、安いから広がりもしたんでしょう。(中略)天保三年の二三月頃に捕れたのは、また大変なもので、(中略)文化の大漁の時には、仕方がないから肥料にしたので、今度も無論そうしたけれども、しきれぬほど沢山ある。弱ってしまった。何とか早く消化する法を考えなければいかぬ。ということになって、その時分に思いついたのが、一番いいところを択って鮓にするということなのです。鮪の鮓はこの時はじめて出来た。私の祖父は文政生れでしたが、鮪の鮓が出来た時分に、評判だからやってみたが、どうもいけない。元来鮓というやつは、酢の利いたものを乗っけるのだが、鮪ではそれが出来ない。鮪に酢を利かせようとして、酢に浸けたら肉が変色する、真白くなるだけで、肌がザラザラになって、見たところもキタナクなる、是非あの儘で酢の気のないところでいく、その頃は醤油をつけて鮓を食うことを知らないから、前からある鮓につもりでやるといけない、いくらもあって安いものだし、見た目も綺麗だから、ひょっとやってみるが、どうもあれには困った、と言っておりました。
 と述べている。

また、滝沢解(曲亭馬琴)は『兎園小説余録』に「壬辰三月四日記」と註して
天保三年壬辰の春二月上旬より三月に至て、目黒魚(まぐろうを)〔割注〕鮪の類なり。」最下直也。いづれも中まぐろにて、二尺五六寸或は三尺許のもの、小田原河岸の相場、一尾二百文也など聞えしが、後には裁売も片身百文、ちひさきは八十文に売たり。巷路々々にまぐろたち売をなすもの多くあり。わづか廿四文許費せば、両三人、飯のあはせ物にして、なほあまりあり。かくまで、まぐろの多く捉られたる事はおぼえず。
  と記している。

ただ、まぐろは以前から大変に賤しまれていたという。
「今の世は驕盛にはなりたれ共、下品上品の差別なきに似て、延享の初頃は、さつまいも、かぼちや、まぐろは甚下品にて、町人も表店住の者は食する事を恥る躰也。」(『享保延宝江府風俗志』寛政四年)
また江戸の後期、文化七年(一八一〇)に八十九歳の老幕臣は
「昔はまぐろを食たるを、ひとに物語するにも耳を寄てひそかに咄たるに、今は歴々の御料理に出るもおかし」と書いている(柴村盛方『飛鳥川』)。
 江戸末期でも京阪では「鮪は下卑の食として中以上および饗応にはこれを用ひず。また更に鮪、作りみにせず。」、一方江戸では、大礼の時は鯛を用いても平日には鮪を専らとしたという(『守貞謾稿』)。

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