落語の中の言葉34「馬方船頭おちの人」

 落語では、「馬方船頭お(を)ちの人」といって、大きな声をする人には悪い人はいない、あるいは、言葉は荒いが心根は違うなどと云う(「馬の田楽」五代目柳家小さん、「三人旅」三遊亭円丈、「三十石」二代目三遊亭百生など)。
落語では「声の大きい」にひっかけて「彼方[をち]の人」としたものであろうか。しかし普通は「馬方船頭御乳の人」(御乳の人とは乳母のこと)と言い、人の弱みにつけ込んだり、ねだりがましいことをするあくどい者の代表とされている。

心だての悪敷きものを『馬追・船頭・お乳の人』と申せど、分限なる家にては、万を願ひなき程にして、すこしでも奉公にわたくしあれば、明日待ず追出さるゝにおそれ、かりにもすね事いはず、若子様を大事にかけまいらする事ぞかし。(『西鶴織留』)

 また元禄時代の育児書には、乳母に行儀作法や言葉遣いを教え込もうとすると、それがストレスになって、乳の出が悪くなるものだからといって、
『乳母は気つまりては、乳も出ぬものなり。とかく乳母は、我ままに働かせたるがよき』と許せば、和俗の諺にいうがごとく、『船頭・馬方・御乳母人〔おちのひと〕』というごとく、我まま過ぎて奢りやすく、(中略)児子をもおろそかに取り扱いて、不慮に怪我をさせ、疵付くる事多く、そのうえ児子も、乳母の事を贔屓〔ひいき〕して、多くは乳母の性に馴れて我まま者に成る事あり。乳母はよくよく撰ぶべき事なり。(香月牛山『小児必用養育草』元禄十六年 巻一 乳母を撰ぶの説)
 とある。

 ついでに云うと、将軍家や大名など上級武士の乳母には二種類あり、一つは「めのと」とも呼ばれる養育係であり、もう一つは「乳持」とも呼ばれるもっぱら乳を飲ませるだけで添い寝も許されない者である。「乳持」は軽い身分の妻から選ばれたという。
十一代将軍家斉は子供が多く、乳母の採用に苦労したようで、旗本森山孝盛は次のように書き残している。
当御代は男女の御子、腹々に数多出来させ賜ひければ、御留守居衆御乳母に事欠て、様々に求め集められたりけり。むかしよりいかなる故にや、御乳を奉る者は、御目見以下の妻、(御徒与力同心、其外小給の御家人の妻)をのみ用ひられけるが、引続て御誕生多かりければ、こと足らぬまゝに、大御番小十人の面々の妻も、相応の乳持たらんは、御用ひ有べき由にて求められたり。
 御乳母のあつかひ方、朝夕の食事は御上りの通りにて、美味なれども、自ら冷になりて煮立の様にはあらず。しかも御台所に於て、御広舗番頭同添番なんど立合て喰すること故、少しも能く育たる者にて、前後をたしなむ心の女は、快く食することはなし。其上部屋にても、湯茶を己が儘に呑こともならず、御茶所へ行て、目付立合て呑ことなる由、薬とても同じことなれば、中々気血のめぐりて、乳をよくたもつことあたはずなり。去によりて、小給の者の妻なんど、しかるすべをも何とも思はず弁へなきそだちならざれば、しばしも乳をたもつことあたはず。夫〔それ〕さへ小給の身にて己が生たる子は里にやりて、御乳に出るに、君の御為冥加とは云ながら、わづか三四ヶ月の中に、己が乳をば失ひて、其間は夫も家事の扱ひに差つかへ、又下りては、里にやりたる子の手当を出すべき設なければ、多く御乳に出ることを不好により、弥々御用とゝのひがたくて、後は御乳に出たるものには、乳止りて下りても其子の四つに成迄、御扶持を給ることに成たりしが、猶御乳に出る者少かりしかば、近き頃は御目見に出る者には、有無によらず、銀三枚づゝ被下べき旨被仰出て、漸く今迄御用を弁じたり。
 すべて御乳に出る者、両三ヶ月、又はよく保ちて六ヶ月余りも乳を奉れば、はや乳細く成て里へ戻さるゝこと定例なり。(『蜑の焼藻の記〔あまのたくものき〕』寛政十年)

 江戸時代の天皇家も同様で、幕末から明治にかけての公家勢多章甫〔せたのりみ〕の随筆には次のようにある。
「惣て新誕の宮には、御乳の人〔割註〕必農家の女子に限れり。」二人、御伽二三人召出さる。煕宮の時には、御世話卿池尻前大納言延房の妻某上﨟代を心得られし。」
また別のところでは
「御幼少の宮方へは御合力米五拾石、銀弐拾枚、呉服代米五石を附られ、其代銀にて諸入費支払する例なり。召抱になりし人員御伽三人、〔割註〕或弐人。」二季に銀弐枚ヅヽ、中元には晒一疋、歳末には縮緬一反ヅヽ被下、御乳人御乳持〔オチモチ〕といふ三人〔割註〕或弐人。」に、扶持切米凡八石被下、下乳母あり、御乳持の児童の料なり、此外に奴婢二人あり、」(『思ひの儘の記』)

役割は違うけれども、富裕な商人も乳母を二人抱えたようである。
町人にても、世盛の家に出生する子は前生の定まり事、格別世界の縁ふかし。本乳母・抱媼〔だきうば〕とて二人まで、氏すじやうまで吟味して、家久しき年寄を睪〔よこめ〕に付て、(『西鶴織留』)

 また、船頭については、落語「三十石」の中で船玉様へあげるものだと云って銭を集めるところがある。実際も、東海道の佐屋から桑名への川船(この船渡しは、川下り三里ですむところから、宮から桑名への海上七里の渡しを避けて、こちらの利用者も多かったという)でも、命を預かっていることをいいことに、酒手をねだったという。
船賃三一文(二八八円)を払った他に一人前七〇文(六三〇円)の酒手を請求された、船賃三六文(三二四円)に酒手四八文(四三二円)を払った、桑名まで舟賃二九文(二六一円)と番所で定めてあるのに、川下に下ってから酒手を六〇文(五四〇円)ずつ取られて大いに困った、四六人乗の舟一艘借切代が一貫四〇六文(一万二六五四円)なのに、祝儀として三朱と二〇〇文(一万三〇五円)を取られた、船賃五八文(五二二円)と酒手六〇文(五四〇円)を払った、二五人の一行で五四人乗りの船を三貫九六四文(三万五六七六円)で貸切にしたが、船玉祝いとして一朱ずつ取られた(二五人から一朱ずつ集めると九万三七五〇円)など、ほとんど船賃以上の酒手をいわれるままに差し出している。こうした例をあげればきりがない。(『伊勢詣と江戸の旅』)

(注)金森氏は、「大ざっぱな目安として」、米1石=1両=6貫600文。米1石=150キログラム。米10キロ=4000円。で換算している。
また、曲亭馬琴は上方旅行の記録の最後に、「旅にてにくむべきもの」と「旅にてこゝろうべき事」を附録として書いているが、にくむべきものの最初に
「貪りてあくことしらぬ舟人」を挙げている。(『羇旅漫録』享和三年)

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