落語の中の言葉23「年季あけ」
六代目三遊亭円生の「紺屋高尾」より
貧しい職人や奉公人が、評判の太夫に惚れて喰う物も喰わずに金を貯めて会いに行き、年季〈ねん〉があけて夫婦になるという筋は、幾代餅と全く同じである。
紺屋高尾 高尾太夫--紺 屋 の 職 人--甕覗の起こり
幾代餅 幾代太夫--舂米屋の奉公人--幾代餅の起こり
遊女は年季勤奉公の形式をとっており、その年季は二十五歳または二十七歳が限度とされていた。「傾城が客を見立てる二十七」という句は、年季あけを前に身の振り方を考える遊女を詠んだものであるといわれている。三田村鳶魚氏は天保八年(一八三七)から十二年五月までの吉原のある店の「遊女抱入帳」について名前・年齢・年季・給金を記した上で「これで見ますと、江戸の末になりましても、大体十三年二十七までを限度としていたように思われます」と述べている(『江戸の花街』)。三十人を載せているが長くなるのではじめの十人だけを示すと次の通りである。
○キン、十二、十五年、十三両(廿七歳年明き、勤め十三年)
○せい、十一、十七年(アシカケ)、十四両(廿八まで、勤め十四年)
○たま、十三、丸十四年、八両(廿七まで、十三年)
○いち、十四、丸十三年、十両(廿七まで、勤十三年)
○ゆき、十二、十五年、七両(廿七まで、勤十三年)
○やす、十六、十一年、四十三両(廿七まで、勤十一年)
○まさ、十二、丸十五年、九両(廿七まで、勤十三年)
○よし、九、重織、丸十八年、五両(廿七まで、勤十三年)
○ぬい、十八、丸六年、四十両(廿四まで、勤六年)
○こう、廿一、丸二年、十五両(廿三まで、勤二年)(以下略)
因みに十四、五歳までは禿〔かむろ〕として、花魁について身の回りの雑用をしながら作法・仕来りなどを覚え、遊女としての勤めはしない。年季と勤めの差はそのためである。
高尾については、庄司勝富の『異本洞房語園』(享保五年)に、
「三浦屋四郎左衛門抱への高尾七代あり。
初代妙心高尾 我生みたる子を乳母にいだかせ
道中せしゆへ、子持高尾とも云。
二代目仙台高尾
三代目西条高尾 御蒔絵師西条吉兵衛うけ出す。
四代目水谷高尾 水谷庄左衛門請出す。
五代目浅野高尾 浅野因幡守請出す。此家今は断絶。
六代目だぞめ高尾 だぞめや九郎兵衛請出す。神田の
紺屋也。享保十年也。
七代目榊原高尾 延享、寛延の頃なり。」 とある。
大田南畝は『高尾考』で「御留守居番与力原武太夫ものがたりを、書留置候を写すもの也」として次のように記す。
一方、『江戸真砂六十帖』(寛延・宝暦頃)には
とあって、両者大いに異なっている。
山東京伝は『高尾考補綴』でこの『江戸真砂六十帖』を引いたあと
「昔は、上紺屋、駄染屋とて別あり、駄染やは木綿のみ染て、縮緬、きぬを染る事ならぬさだめ也、しかも大家は駄染屋にありし、とある紺屋の老人語りき、」と述べている。
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貧しい職人や奉公人が、評判の太夫に惚れて喰う物も喰わずに金を貯めて会いに行き、年季〈ねん〉があけて夫婦になるという筋は、幾代餅と全く同じである。
紺屋高尾 高尾太夫--紺 屋 の 職 人--甕覗の起こり
幾代餅 幾代太夫--舂米屋の奉公人--幾代餅の起こり
遊女は年季勤奉公の形式をとっており、その年季は二十五歳または二十七歳が限度とされていた。「傾城が客を見立てる二十七」という句は、年季あけを前に身の振り方を考える遊女を詠んだものであるといわれている。三田村鳶魚氏は天保八年(一八三七)から十二年五月までの吉原のある店の「遊女抱入帳」について名前・年齢・年季・給金を記した上で「これで見ますと、江戸の末になりましても、大体十三年二十七までを限度としていたように思われます」と述べている(『江戸の花街』)。三十人を載せているが長くなるのではじめの十人だけを示すと次の通りである。
○キン、十二、十五年、十三両(廿七歳年明き、勤め十三年)
○せい、十一、十七年(アシカケ)、十四両(廿八まで、勤め十四年)
○たま、十三、丸十四年、八両(廿七まで、十三年)
○いち、十四、丸十三年、十両(廿七まで、勤十三年)
○ゆき、十二、十五年、七両(廿七まで、勤十三年)
○やす、十六、十一年、四十三両(廿七まで、勤十一年)
○まさ、十二、丸十五年、九両(廿七まで、勤十三年)
○よし、九、重織、丸十八年、五両(廿七まで、勤十三年)
○ぬい、十八、丸六年、四十両(廿四まで、勤六年)
○こう、廿一、丸二年、十五両(廿三まで、勤二年)(以下略)
因みに十四、五歳までは禿〔かむろ〕として、花魁について身の回りの雑用をしながら作法・仕来りなどを覚え、遊女としての勤めはしない。年季と勤めの差はそのためである。
高尾については、庄司勝富の『異本洞房語園』(享保五年)に、
「三浦屋四郎左衛門抱への高尾七代あり。
初代妙心高尾 我生みたる子を乳母にいだかせ
道中せしゆへ、子持高尾とも云。
二代目仙台高尾
三代目西条高尾 御蒔絵師西条吉兵衛うけ出す。
四代目水谷高尾 水谷庄左衛門請出す。
五代目浅野高尾 浅野因幡守請出す。此家今は断絶。
六代目だぞめ高尾 だぞめや九郎兵衛請出す。神田の
紺屋也。享保十年也。
七代目榊原高尾 延享、寛延の頃なり。」 とある。
大田南畝は『高尾考』で「御留守居番与力原武太夫ものがたりを、書留置候を写すもの也」として次のように記す。
五代目高尾
紺屋九郎兵衛請出す、四代目にはなきうつくしき女にて、筆跡もことの外よろしく、心ばへすなをにて、誠に貴人の奥方となるともはづかしからぬ生れのよし、しかる処、九郎兵衛は至てあしき男にて、背ひきく、はなひしげ、猿眼にて、ことの外醜男なりしよし、しかし請出して、随分中むつまじく覚しとなり、九郎兵衛染もの下手にて、常にだ染だ染と人みないひたりしゆゑ、是をだぞめ高尾といふ、
一方、『江戸真砂六十帖』(寛延・宝暦頃)には
大伝馬町壱丁目横町に、藍屋九兵衛とて駄染屋有り、身上能、家屋敷を持て、家来大勢にて染物せしに、親の九兵衛と違ひ、幼少の頃より花車にして、諸芸に達し、殊に美男也、家業を賤しと思ひ、遊びを専らとす、三浦の高尾に深く馴染て通ひぬ、外の客は、高尾が客は駄染屋なり、と笑ひける、商売も倒れて、詮方なくして、高尾、去ル屋敷の聞番を頼て、采女が原の町屋にて茶屋を出して、繁昌し賑ふ、大勢聞番の振廻家として居たり、其後は如何仕たりけん、本所三ッ目に、夫婦つまらぬ体に見へしと也、
とあって、両者大いに異なっている。
山東京伝は『高尾考補綴』でこの『江戸真砂六十帖』を引いたあと
「昔は、上紺屋、駄染屋とて別あり、駄染やは木綿のみ染て、縮緬、きぬを染る事ならぬさだめ也、しかも大家は駄染屋にありし、とある紺屋の老人語りき、」と述べている。
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