落語の中の言葉19「上野のかね」
十代目桂文治の「掛取り」より
大晦日に掛けの払えない夫婦は借金の言い訳に窮して、好きなものには心を奪われると言うからと、相手の好きなもので支払を待ってもらおうとする。喧嘩の好きな魚屋の金さんには喧嘩で、芝居の好きな酒屋の番頭には芝居仕立てで、そして狂歌の好きな大家には狂歌でというわけである。その際の狂歌というのは、
貧乏の棒もしだいに長くなり、振り回されぬ年の暮れかな
貧乏をすれば悔しき裾綿の、下からでても人に踏まれる
貧乏をしてもこの家〔や〕に風情あり、質の流れに借金の山
貧乏をしても下谷の長者町、上野のかねのうなる音〔ね〕を聞く
下谷長者町はJR山の手線の御徒町から秋葉原へ向かう右手の線路沿いに二丁目、一丁目とあった。明治の末頃に下谷をとって「長者町」となり、現在は上野三丁目他になっている。
天正の頃(1573~92)に朝日長者という豪戸があり、その邸地にできた町ゆえの名という。(台東区『上野・浅草歴史散歩』)
幕府の命により各町につき名主等が報告した「町方書上」の下谷長者町二丁目の分(文政九(1826)年町方取調箇条書)には次のようにある。
「一町名起立の儀、往古は只今の上野の地の小高
き方を忍ケ岡と申し、低き所を下谷岡と申し候
由。その頃この所に長者と申す者の住居致し、
これを下谷長者と申し習わし、姓名等は相知れ
ず。当時浅草新寺町通にこれ有る浄土宗永昌寺
は天正年中に長者の開基に候由、かつまた町内
東向側御徒方組屋敷内に長者ケ池と唱え候小さ
き池の残りこれあり候由を承り及び申し候。こ
れは昔、下谷長者の庭中にこれ有り候池の由を
申し伝え候。右等をもって相考え候えども当町
は申すに及ばず近辺武家方御屋鋪等もその頃は
ことごとく長者構えの内にて、その後おいおい
に土地も相変り只今の形ちに相成り候ように存
じ奉り候。右長者の宅地の内、町屋に相成り候
所のゆえに長者町と名付け候儀に御座あるべき
やに存じ奉り候。」
次に「上野のかね」というのは、一つには上野寛永寺の寺鐘や時の鐘を指す。
江戸城内で時刻を知らせるために鐘を撞いていたが、うるさいため太鼓に変えられた。その際、それまで鐘の音で時刻を知っていた町人が困るというので石町〔こくちょう〕に鐘撞堂を造らせたのが時の鐘のはじめだという。その後各所に出来、江戸名所図会には「その余、都城の繞〔めぐ〕りにありて、候時を報ずるもの、すべて八ヶ所なり。いはゆる、浅草寺・本所横川町・上野・芝切通・市谷八幡・目白不動・赤坂田町成満寺・四谷天竜寺等なり」とある。
因みに、花の雲鐘は上野か浅草か という芭蕉の句について
「上野と浅草の時の鐘を詠んだものであると、そ
れぞれの時の鐘の所に説明板があるが、芭蕉の
深川生活の時代には浅草の鐘はまだできていな
かった様である。従って芭蕉の句はそれぞれの
寺鐘とした方が正しい様である。」
(橋本万平『日本の時刻制度増補版』)
浅草寺日記の寛政九(1797)年七月の条に
一何年頃より撞始候哉御尋之事、
此儀、鐘楼堂之鐘を撞始候年月等は、往古之
事故難相分候、当時撞候弁天山之鐘者、元禄
五申年八月 撞始候由伝候、
とあるという。元禄五年は1692年で、一方芭蕉の句は貞享四(1687)年に芭蕉庵で詠まれたと言われている。ただ、浅草寺の鐘は至徳四(1387)年に鋳造され、その後度々焼失したとの記録もあり、元禄五年は新たに鋳造した鐘で再興したようである。しかし元禄二年の江戸図には浅草寺に時の鐘は見えないという。
上野寛永寺の時の鐘は、鐘撞銭を近辺の武家、寺社、町方から徴収していたのに対し、浅草寺の時の鐘は町方からは徴収せず、三十近い子院からの徴収と「時之鐘屋敷」と呼ばれる屋敷の貸し賃とで賄っていたという(浦井祥子『江戸の時刻と時の鐘』)。
また、「上野のかね」のかねは鐘と同時に「金」の意味もある。
「文化六年から執当救済というのが発端で、御府
庫金貸付が始まった。これは、五分の利足で預
かって、一割で貸し付ける。御府庫金の利足は、
折半して元金へ繰り込み、他の半分を一山へ配
分した。(中略)返済の時期は毎年十二月一日
より十日までであったが、(中略)黒門から
大油担〔おおゆたん〕を掛けて千両箱を積んだ
吊台が続々担ぎ込まれる。それが十日間に亙っ
て毎日であるから、江戸の市民は上野の資金の
豊富なのに驚いた。(中略)それだから上野に
は小判が唸っていると誰も思った。」
(三田村鳶魚『芝・上野と銀座』)
千両箱を積んで黒門から入った吊台は、谷中門を空になって出て行くが、千両箱は寛永寺に納まったわけではないという。返済できない大名は一旦返してまた借りた。黒門から入って谷中門へ抜ける間の金(いわば見せ金)を用立てる商人が坂本に四五軒あり、その利息として千両につき二三両取ったという。
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大晦日に掛けの払えない夫婦は借金の言い訳に窮して、好きなものには心を奪われると言うからと、相手の好きなもので支払を待ってもらおうとする。喧嘩の好きな魚屋の金さんには喧嘩で、芝居の好きな酒屋の番頭には芝居仕立てで、そして狂歌の好きな大家には狂歌でというわけである。その際の狂歌というのは、
貧乏の棒もしだいに長くなり、振り回されぬ年の暮れかな
貧乏をすれば悔しき裾綿の、下からでても人に踏まれる
貧乏をしてもこの家〔や〕に風情あり、質の流れに借金の山
貧乏をしても下谷の長者町、上野のかねのうなる音〔ね〕を聞く
下谷長者町はJR山の手線の御徒町から秋葉原へ向かう右手の線路沿いに二丁目、一丁目とあった。明治の末頃に下谷をとって「長者町」となり、現在は上野三丁目他になっている。
天正の頃(1573~92)に朝日長者という豪戸があり、その邸地にできた町ゆえの名という。(台東区『上野・浅草歴史散歩』)
幕府の命により各町につき名主等が報告した「町方書上」の下谷長者町二丁目の分(文政九(1826)年町方取調箇条書)には次のようにある。
「一町名起立の儀、往古は只今の上野の地の小高
き方を忍ケ岡と申し、低き所を下谷岡と申し候
由。その頃この所に長者と申す者の住居致し、
これを下谷長者と申し習わし、姓名等は相知れ
ず。当時浅草新寺町通にこれ有る浄土宗永昌寺
は天正年中に長者の開基に候由、かつまた町内
東向側御徒方組屋敷内に長者ケ池と唱え候小さ
き池の残りこれあり候由を承り及び申し候。こ
れは昔、下谷長者の庭中にこれ有り候池の由を
申し伝え候。右等をもって相考え候えども当町
は申すに及ばず近辺武家方御屋鋪等もその頃は
ことごとく長者構えの内にて、その後おいおい
に土地も相変り只今の形ちに相成り候ように存
じ奉り候。右長者の宅地の内、町屋に相成り候
所のゆえに長者町と名付け候儀に御座あるべき
やに存じ奉り候。」
次に「上野のかね」というのは、一つには上野寛永寺の寺鐘や時の鐘を指す。
江戸城内で時刻を知らせるために鐘を撞いていたが、うるさいため太鼓に変えられた。その際、それまで鐘の音で時刻を知っていた町人が困るというので石町〔こくちょう〕に鐘撞堂を造らせたのが時の鐘のはじめだという。その後各所に出来、江戸名所図会には「その余、都城の繞〔めぐ〕りにありて、候時を報ずるもの、すべて八ヶ所なり。いはゆる、浅草寺・本所横川町・上野・芝切通・市谷八幡・目白不動・赤坂田町成満寺・四谷天竜寺等なり」とある。
因みに、花の雲鐘は上野か浅草か という芭蕉の句について
「上野と浅草の時の鐘を詠んだものであると、そ
れぞれの時の鐘の所に説明板があるが、芭蕉の
深川生活の時代には浅草の鐘はまだできていな
かった様である。従って芭蕉の句はそれぞれの
寺鐘とした方が正しい様である。」
(橋本万平『日本の時刻制度増補版』)
浅草寺日記の寛政九(1797)年七月の条に
一何年頃より撞始候哉御尋之事、
此儀、鐘楼堂之鐘を撞始候年月等は、往古之
事故難相分候、当時撞候弁天山之鐘者、元禄
五申年八月 撞始候由伝候、
とあるという。元禄五年は1692年で、一方芭蕉の句は貞享四(1687)年に芭蕉庵で詠まれたと言われている。ただ、浅草寺の鐘は至徳四(1387)年に鋳造され、その後度々焼失したとの記録もあり、元禄五年は新たに鋳造した鐘で再興したようである。しかし元禄二年の江戸図には浅草寺に時の鐘は見えないという。
上野寛永寺の時の鐘は、鐘撞銭を近辺の武家、寺社、町方から徴収していたのに対し、浅草寺の時の鐘は町方からは徴収せず、三十近い子院からの徴収と「時之鐘屋敷」と呼ばれる屋敷の貸し賃とで賄っていたという(浦井祥子『江戸の時刻と時の鐘』)。
また、「上野のかね」のかねは鐘と同時に「金」の意味もある。
「文化六年から執当救済というのが発端で、御府
庫金貸付が始まった。これは、五分の利足で預
かって、一割で貸し付ける。御府庫金の利足は、
折半して元金へ繰り込み、他の半分を一山へ配
分した。(中略)返済の時期は毎年十二月一日
より十日までであったが、(中略)黒門から
大油担〔おおゆたん〕を掛けて千両箱を積んだ
吊台が続々担ぎ込まれる。それが十日間に亙っ
て毎日であるから、江戸の市民は上野の資金の
豊富なのに驚いた。(中略)それだから上野に
は小判が唸っていると誰も思った。」
(三田村鳶魚『芝・上野と銀座』)
千両箱を積んで黒門から入った吊台は、谷中門を空になって出て行くが、千両箱は寛永寺に納まったわけではないという。返済できない大名は一旦返してまた借りた。黒門から入って谷中門へ抜ける間の金(いわば見せ金)を用立てる商人が坂本に四五軒あり、その利息として千両につき二三両取ったという。
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