落語の中の言葉18「九ッ、四ッ」

          十代目柳家小三治の「時そば」より

 寒い夜のこと、一人の男が夜鷹そばを食べ、割り箸を使っているの、丼がきれいだのとさんざん褒めたあげく、銭がこまかいからとそば屋の親父に手を出させ一、二、三、四と声をだして数えながら七、八まで来たたところで、「今何時〔なんどき〕だい」と時を尋ね「九ッで」の答えに十、十一、十二、十三、十四、十五、十六と払って行ってしまう。それを近くで見ていた別の男は、男のくせによく喋るやつだ、それにやたらに褒めるから食い逃げすんじゃないかと思ったら払いやがってよけいに許せねへ、それに変なときに時を聞いたなと思い出してみてはじめて一文ごまかしたのに気が付く。俺もやってみようと次の晩こまかいのを用意して早々に出かける。同じようにやろうとするが、すべてが昨日のそば屋とは逆で褒めるところがない。不味いそばをやっと食べて支払にかかり、昨夜の男と同様に一、二、三、四と八まで渡し、時を聞くと「四ッで」と言われ五、六、七、八………
 時計が普及していなかった江戸時代は、一般には太陽の運行に基づく不定時法が使われていた。夜明けを明け六ッ、日暮れを暮れ六ッといい、夜明けから日暮れまでを昼とし、それを六等分して、一刻という。同様に日暮れから夜明けまでを夜とし、それも六等分してこれも一刻という。春分の日と秋分の日の各前後では昼間の一刻と夜間の一刻はほぼ同じ長さになるが、それ以外は昼夜で一刻の長さが違う。夏至・冬至の前後では大幅に違ってくる。また時刻の称え方は明け六ッから五ッ、四ッそして九ッ(正午)となり、八ッ、七ッ、暮れ六ッとなる。夜間も同様に暮れ六ッから五ッ、四ッそして九ッとなり、八ッ、七ッ、明け六ッとなる。
真似をした男は七、八できって時を聞くには一刻早かったのである。
 このように時の鐘で告げた時刻は不定時法であったが、暦の作成等については一日を百刻(さらに一刻を百分)とする定時法が使われている。一日を十二等分して一辰刻とし、子、丑、寅、……の十二支で呼んでいる。したがって一辰刻は八刻三分の一となる。最初が初刻で次に一刻、二刻……最後が八刻、但し八刻は他の刻の三分の一の長さとなる。昼夜の区切りも日の出から日の入りまでを昼とし、日の入りから日の出までを夜としている。(日の出を明け六ッ、日の入りを暮れ六ッという記載を時々見かけるが厳密には間違いである。)太陽が出る前と、太陽が沈んだ後にしばらく明るい状態が続くがこれを「薄明」という。日の出前の薄明の頃を夜明けといい、日没後の薄明の頃を日暮れという。したがって、夜明けから日暮れまでを昼とする方が日の出から日の入りまでを昼とするよりも長い。寛政五年(1793)の暦には次のように記載されている。
 
雨水正月中今夜ねの二刻
     日の出より日入まで  昼四十四刻余 夜五十五刻余
     六より六まで     昼四十九刻余 夜五十刻余

寛政暦(寛政十年(1798)から使用)以前の暦では薄明の分をそれぞれ二刻半ずつと年間一定にしていた。したがって明け六ッから暮れ六ッまでを昼とする方が(一日百刻制の)五刻だけ長い。寛政暦からは、改暦のために実測を行った京都における春分・秋分の日の日の出前二刻半の太陽の俯角もって夜明けとしたため、薄明の時間が季節によって変化することになった。
京都の改暦所の緯度三五度〇・八分で俯角を計算すると七度二一分四〇秒になるそうで、明治以後の夜明け・日暮れもこの基準で推算されているという。
 ところで「草木も眠るうしみつ時」という言葉も落語ではよく使われるが、これは平安時代の延喜式の時刻制度によるもので、丑の三刻のことであるという。延喜式の陰陽寮の規定の中には、時報に関する箇条があり、日出と日入の時刻とそれに従って変化する宮門開閉の時刻が極めて詳細に記載されている。それによると延喜式の時刻制度は定時法であり、一日を十二辰刻とし、子、丑、寅、……の十二支で呼ぶ。さらに一辰刻を四刻に分け一刻、二刻……四刻と呼んでいる。現行の時刻との対応を見ると午の三刻(午の刻の真ん中)が太陽の南中時刻、すなわち昼の十二時に当たっている。したがって子の三刻が現在の午前〇時であり、子の四刻は午前〇時半、丑の一刻は午前一時、丑の二刻は午前一時半で丑の三刻は午前二時となる。 (橋本万平『日本の時刻制度増補版』による)

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