落語の中の言葉17「堀の内祖師」
四代目三遊亭円遊の「堀の内」より
度はずれた慌て者、友達のところで病気と同じ慌て者を治すには神信心するよりないと言われ、家に帰る早々、「おっかあ、大変な事になった。注射を頼んで医者をうってもらわないと」「どうしたんだい」「友達の家を出た途端に、片方の足が長くなった」「見せてごらん、草履と下駄を片ちんばにはいてるじゃないか」「なおるかなあ」「脱げば直るでしょ」「脱いでも直らないぞ」「草履の方を脱いでるよ、それじゃおんなじだよ」とこの調子である。「これを治す為に明日から信心する、弁当持ちで歩いてお参りするから覚悟しろ」、「何様へお参りするんだい」、「堀の内の観音様、じゃない金比羅様、じゃない水天宮様」、「堀の内ならお祖師様だろ」「ん、その様」
江戸後期には堀之内祖師はたいそう盛んであったという。
「日円山妙法寺 堀の内村にあり。日蓮宗一致派に
して、すこぶる盛大の寺院たり。宗祖日蓮大士の霊
像は世に除厄の御影と称す。日朗上人の作にして、
その先は碑文谷の妙法華寺にありしを、元禄の頃、
ゆゑありて法華寺を天台宗に改められし頃、この
霊像をば当寺に移しまゐらすといへり。(中略)
加持の符(有信の輩、三七日の間この符に対し正
念に唱題誦経すれば、寄願成就するとて、諸人こ
れを受くる。病を患ふるものはその病床のあたり、
壁上あるひは家の柱などへ貼す。ゆゑに世俗、
張御符といへり。)(中略)
当寺は遙かに都下を離れたりといへども、霊験
著きゆゑに、諸人遠きを厭はずして、歩行を運び
渇仰す。毎年七月法華千部、十月十三日御影供
を修行す。その間群参稲麻のごとし。」
(斎藤月岑編『江戸名所図会』天保五年)
しかし以前はあまり参詣する者のないところであったという。
「四ッ谷堀之内祖師、我等三十歳頃迄は、地名を知
れる人も無かりしに、近頃に至り、祖師堂は勿論、
堂宇の設も伽藍のごとくに造建し、新宿より寺の
門前迄、水茶屋、料理茶屋、其外酒食の店数百
間簷〔のき〕をならぶ、日蓮宗に限らず、諸宗の人
も尊敬して、年々月々に賑しく繁栄也、雑司ヶ谷
鬼子母神、予が若年の頃は、夥しき参詣にてあ
りしが、近頃に至り、殊之外淋しくなり、只堀の内
のみ参詣多し、仏神にも盛衰あり、不思議と言べ
し、」(小川顕道『塵塚談』文化十一年)
小川顕道は元文二年(一七三七)生まれなので三十歳頃というと明和年間。
祖師の木像の由来について十方庵敬順は二つの話を挙げている。
一つは、享保の末頃、六部躰の者が笈の内から木像を引摺出し碑文谷法華寺の藪の中へ投げ捨てて立ち去った。そのあと、法華寺の住僧が拾い上げ堂中に安置していた。宝暦年間不受不施の新儀を申しつのったうえ、女犯・肉食の廉で谷中感応寺・市ヶ谷自性院とともに取り潰しとなった。住持はそれぞれ遠島となり、寺は天台宗へ改宗のうえ東叡山寛永寺の末寺とされた。その時件の木像は同じ日蓮宗である堀の内妙法寺の願いに依って、妙法寺へ引き取られた。その木像であるという。(『遊歴雑記』初編之下 文化十一年)
いま一つは、大久保根來組同心植村伝七家に伝来の日蓮の木像であるという。根来組同心の家筋はむかし紀州根来山法恩寺(日蓮宗)の衆徒で家康に随って江戸に来て、江戸城を初めとする普請が出来るまで四五ヶ年の間、堀の内村にさし置かれた。堀の内村には道心者が住む仮初めの草庵があり、日蓮宗なので妙法庵と呼んでいた。植村伝七は拝領組屋敷へ引っ越すに際して伝来の日蓮の木像を妙法庵へ納め、庵の廻りの二百五十坪の地面を買って寄付し、日蓮の像を大切に給仕すべき旨、堀の内村庄屋年寄より連印の証文をとり、永代開基大檀那の契約をした。植村家に不幸があった時には、妙法庵の住僧は「万事を抛て自身に来りて、死人に剃刀し夜伽して菩提寺へ吊ふ事」にしていたという。(『遊歴雑記』五編之中 文政九年)
また、御張御符については次のような話がある。
御張御符を貰うものに対して、別当所は他の神仏の御札は勿論のこと薬も用いては御張御符の効果はないと教えていた。そのため大病にいたるものや死ぬものもあり、雨森春英という傷寒医師は甚だ悪んでいた。ある時この別当の和尚が傷寒を病み、何人かの医者にかかったが良くならず、この老医を頼んだ。寺まで来たものの、納所で応接するものに、ここの病人は私が治療すべきものでないからといって帰ろうとする。納所は驚き和尚にも告げて強いて診察させて、理由を尋ねた。老医は「此祖師世人の病をさへ除く、況や別当の其許をや、これ予が薬を用ふるにおよばず、足下もすみやかに御張御符をして癒されよ、しかし、我足下の病を見るに、もし予が薬を飲しめば、一七日に湯に入らしむべし、されど、眼前に祖師の加護あれば、曾て予が薬には及べからず」といって帰ろうとする。和尚は驚き強いて薬を求めると、老医は御張御符を求めるものに今後は薬をとどめないという証文を出せという。そんな一札を出してはこの祖師の御利益が落ちることになるからと断ると、では納所が一札を出し和尚が奥印をすれば薬を盛ろうというと、和尚もやむを得ず同意する。老医は薬を調え与えて、もしこれ以降も薬を止めることがあれば、「 其時は此証文を上木して、すみやかに医師仲間へ、一統に配るべし、といひければ、和尚大におそれて諾す」(片山賢『寐ぬ夜のすさび』文政五年から弘化三年まで年月順に記す)
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度はずれた慌て者、友達のところで病気と同じ慌て者を治すには神信心するよりないと言われ、家に帰る早々、「おっかあ、大変な事になった。注射を頼んで医者をうってもらわないと」「どうしたんだい」「友達の家を出た途端に、片方の足が長くなった」「見せてごらん、草履と下駄を片ちんばにはいてるじゃないか」「なおるかなあ」「脱げば直るでしょ」「脱いでも直らないぞ」「草履の方を脱いでるよ、それじゃおんなじだよ」とこの調子である。「これを治す為に明日から信心する、弁当持ちで歩いてお参りするから覚悟しろ」、「何様へお参りするんだい」、「堀の内の観音様、じゃない金比羅様、じゃない水天宮様」、「堀の内ならお祖師様だろ」「ん、その様」
江戸後期には堀之内祖師はたいそう盛んであったという。
「日円山妙法寺 堀の内村にあり。日蓮宗一致派に
して、すこぶる盛大の寺院たり。宗祖日蓮大士の霊
像は世に除厄の御影と称す。日朗上人の作にして、
その先は碑文谷の妙法華寺にありしを、元禄の頃、
ゆゑありて法華寺を天台宗に改められし頃、この
霊像をば当寺に移しまゐらすといへり。(中略)
加持の符(有信の輩、三七日の間この符に対し正
念に唱題誦経すれば、寄願成就するとて、諸人こ
れを受くる。病を患ふるものはその病床のあたり、
壁上あるひは家の柱などへ貼す。ゆゑに世俗、
張御符といへり。)(中略)
当寺は遙かに都下を離れたりといへども、霊験
著きゆゑに、諸人遠きを厭はずして、歩行を運び
渇仰す。毎年七月法華千部、十月十三日御影供
を修行す。その間群参稲麻のごとし。」
(斎藤月岑編『江戸名所図会』天保五年)
しかし以前はあまり参詣する者のないところであったという。
「四ッ谷堀之内祖師、我等三十歳頃迄は、地名を知
れる人も無かりしに、近頃に至り、祖師堂は勿論、
堂宇の設も伽藍のごとくに造建し、新宿より寺の
門前迄、水茶屋、料理茶屋、其外酒食の店数百
間簷〔のき〕をならぶ、日蓮宗に限らず、諸宗の人
も尊敬して、年々月々に賑しく繁栄也、雑司ヶ谷
鬼子母神、予が若年の頃は、夥しき参詣にてあ
りしが、近頃に至り、殊之外淋しくなり、只堀の内
のみ参詣多し、仏神にも盛衰あり、不思議と言べ
し、」(小川顕道『塵塚談』文化十一年)
小川顕道は元文二年(一七三七)生まれなので三十歳頃というと明和年間。
祖師の木像の由来について十方庵敬順は二つの話を挙げている。
一つは、享保の末頃、六部躰の者が笈の内から木像を引摺出し碑文谷法華寺の藪の中へ投げ捨てて立ち去った。そのあと、法華寺の住僧が拾い上げ堂中に安置していた。宝暦年間不受不施の新儀を申しつのったうえ、女犯・肉食の廉で谷中感応寺・市ヶ谷自性院とともに取り潰しとなった。住持はそれぞれ遠島となり、寺は天台宗へ改宗のうえ東叡山寛永寺の末寺とされた。その時件の木像は同じ日蓮宗である堀の内妙法寺の願いに依って、妙法寺へ引き取られた。その木像であるという。(『遊歴雑記』初編之下 文化十一年)
いま一つは、大久保根來組同心植村伝七家に伝来の日蓮の木像であるという。根来組同心の家筋はむかし紀州根来山法恩寺(日蓮宗)の衆徒で家康に随って江戸に来て、江戸城を初めとする普請が出来るまで四五ヶ年の間、堀の内村にさし置かれた。堀の内村には道心者が住む仮初めの草庵があり、日蓮宗なので妙法庵と呼んでいた。植村伝七は拝領組屋敷へ引っ越すに際して伝来の日蓮の木像を妙法庵へ納め、庵の廻りの二百五十坪の地面を買って寄付し、日蓮の像を大切に給仕すべき旨、堀の内村庄屋年寄より連印の証文をとり、永代開基大檀那の契約をした。植村家に不幸があった時には、妙法庵の住僧は「万事を抛て自身に来りて、死人に剃刀し夜伽して菩提寺へ吊ふ事」にしていたという。(『遊歴雑記』五編之中 文政九年)
また、御張御符については次のような話がある。
御張御符を貰うものに対して、別当所は他の神仏の御札は勿論のこと薬も用いては御張御符の効果はないと教えていた。そのため大病にいたるものや死ぬものもあり、雨森春英という傷寒医師は甚だ悪んでいた。ある時この別当の和尚が傷寒を病み、何人かの医者にかかったが良くならず、この老医を頼んだ。寺まで来たものの、納所で応接するものに、ここの病人は私が治療すべきものでないからといって帰ろうとする。納所は驚き和尚にも告げて強いて診察させて、理由を尋ねた。老医は「此祖師世人の病をさへ除く、況や別当の其許をや、これ予が薬を用ふるにおよばず、足下もすみやかに御張御符をして癒されよ、しかし、我足下の病を見るに、もし予が薬を飲しめば、一七日に湯に入らしむべし、されど、眼前に祖師の加護あれば、曾て予が薬には及べからず」といって帰ろうとする。和尚は驚き強いて薬を求めると、老医は御張御符を求めるものに今後は薬をとどめないという証文を出せという。そんな一札を出してはこの祖師の御利益が落ちることになるからと断ると、では納所が一札を出し和尚が奥印をすれば薬を盛ろうというと、和尚もやむを得ず同意する。老医は薬を調え与えて、もしこれ以降も薬を止めることがあれば、「 其時は此証文を上木して、すみやかに医師仲間へ、一統に配るべし、といひければ、和尚大におそれて諾す」(片山賢『寐ぬ夜のすさび』文政五年から弘化三年まで年月順に記す)
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