落語の中の言葉14「無礼討ち」
五代目柳家小さんの「首提灯」より
酔っぱらった職人が、道を尋ねた田舎侍に雑言を重ねたあげく、首を斬られる。腕のたつ侍と見えて、斬られたのが分からない。鼻歌を歌いながら歩いてゆくうちに、首が落っこちそうになり初めて斬られたことに気づく。間の悪いことに火事があり、野次馬などが大勢やって来る。首を落としては大変と、提灯のように両手で前に出し、「はい、御免、はい、御免、」
江戸時代、武士には切捨御免の特権が認められていた。一方、江戸は特に武士の多い町であり、また江戸っ子の中には江戸自慢から田舎者を馬鹿にする風があった。参勤に従って江戸へ出てきた侍を「浅黄裏」と呼んで軽蔑している。
切捨御免について御定書百箇条の七十一条には次のようにある。
前々よりの例
一 足軽体に候とも、軽き町人百姓の身として、
法外の雑言等不届の仕方、やむことをえず切殺し候もの
吟味の上紛なきにおいては
構いなし、
江戸府内のことではないが、宝暦五年(1755)八月、大和郡山藩士三人が江戸から郡山へ向かう途中、品川宿のさき大井村で荷駄宰領の足軽後藤重蔵が馬士新助を無礼討ちにした。馬士新助がねだりがましいことを言いかけ、トラブルになったもの。藩邸は道中奉行に届書を出し、また月番老中と大井村を管轄する代官にも届けを出す。現場検証等の捜査は代官が行い、裁きは道中奉行が行った。
「我慢を重ねた結果の慮外討ちであることが明白なので、
後藤は「御構いなし」であった。一方、品川宿の問屋
から遣わされた馬士の九右衛門には、新助を止めなか
ったことなどの理由で「手鎖・所預け」に処せられた。
(中略)このように、筋を通せば武士の方が厚遇される
のだが、事なかれ主義に凝り固まった諸藩では、いろ
いろと理不尽な要求にも屈することが多かったことを
推測させる事件である。」(山本博文『参勤交代』)
また、藩のほうでは藩士が町人と問題を起こすことのないよう命じていた。
例えば、水戸藩から二万石を分与されて成立した守山藩では、
「貞享三年(1686)十二月二十六日には、これはとく
に供割について述べたものではないが、公用私用で
外出した際には、「下々他所の者と口論仕るまじく候、
先より口論申懸候はば、此方より丁寧に挨拶致し無事
に仕るべく候」と申し渡された。相手がどんなに口論
をふっかけてきても、当方はあくまで丁寧に対応して
ことを起こすなというのだろう。」
(氏家幹人『江戸藩邸物語』)
ところで御定書百箇条にある「足軽」だが、足軽というと戦国時代農民等からかき集められた雑兵のイメージがあるが、江戸時代には侍である。
「町人・百姓には苗字がなかったのみならず、武家の奉
公人でも、中間〔ちゅうげん〕や小者は苗字がない。中
間というのは、侍の下、小者の上であるからの呼称だ。
折助と渾名されたのも、中間であって足軽ではない。
足軽は大小を帯し、羽織を着ている。中間は紺看板に
梵天帯、木刀一本という拵えのものだ。
武家の奉公人では、小者が最下級なのだ。この小者、
勿論中間も軍役の員外であるが、足軽は兵卒であるか
ら正しい戦闘員なのだ。軍役の人数に数えられている。
しかし、中間とても戦場の役目はあった。旗持ち、纏・
馬印・楯持、または馬の口取り等を受け持つ。ただ、
中間は決して武器を執って敵対することがない。それ
故に、足軽と違って、武芸の素養を必要とせぬ。」
(三田村鳶魚『武家の生活』)
ところで、酒に酔った職人が武士に悪態をつくなかで使っている「サンピン」という言葉については
「最初にサンピン侍というやつ、これは三両一人扶持で、
中小姓という--やはり士です。--江戸時代にも差
別はありましたが、明治になっては、士族と卒族と分
けました。二本さしさえすれば、大略サムライとした。
これは士と民と相対していう時の大別でしょう。--
三両一人扶持と申したのは享保くらいの話で、文政度
には四両になっている。従って、文政には四ピンのわ
けなのですが、昔からの言い慣わしで、サンピンとい
っておりました。これより安い士はないので、こういう
言葉が出来たのです。」(三田村鳶魚『武家の生活』)
(引用者注)三両というのは一年間の俸禄。扶持というのは、一人一日玄米五合(一食二合五勺として二食分)の割で毎月支給された。
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酔っぱらった職人が、道を尋ねた田舎侍に雑言を重ねたあげく、首を斬られる。腕のたつ侍と見えて、斬られたのが分からない。鼻歌を歌いながら歩いてゆくうちに、首が落っこちそうになり初めて斬られたことに気づく。間の悪いことに火事があり、野次馬などが大勢やって来る。首を落としては大変と、提灯のように両手で前に出し、「はい、御免、はい、御免、」
江戸時代、武士には切捨御免の特権が認められていた。一方、江戸は特に武士の多い町であり、また江戸っ子の中には江戸自慢から田舎者を馬鹿にする風があった。参勤に従って江戸へ出てきた侍を「浅黄裏」と呼んで軽蔑している。
切捨御免について御定書百箇条の七十一条には次のようにある。
前々よりの例
一 足軽体に候とも、軽き町人百姓の身として、
法外の雑言等不届の仕方、やむことをえず切殺し候もの
吟味の上紛なきにおいては
構いなし、
江戸府内のことではないが、宝暦五年(1755)八月、大和郡山藩士三人が江戸から郡山へ向かう途中、品川宿のさき大井村で荷駄宰領の足軽後藤重蔵が馬士新助を無礼討ちにした。馬士新助がねだりがましいことを言いかけ、トラブルになったもの。藩邸は道中奉行に届書を出し、また月番老中と大井村を管轄する代官にも届けを出す。現場検証等の捜査は代官が行い、裁きは道中奉行が行った。
「我慢を重ねた結果の慮外討ちであることが明白なので、
後藤は「御構いなし」であった。一方、品川宿の問屋
から遣わされた馬士の九右衛門には、新助を止めなか
ったことなどの理由で「手鎖・所預け」に処せられた。
(中略)このように、筋を通せば武士の方が厚遇される
のだが、事なかれ主義に凝り固まった諸藩では、いろ
いろと理不尽な要求にも屈することが多かったことを
推測させる事件である。」(山本博文『参勤交代』)
また、藩のほうでは藩士が町人と問題を起こすことのないよう命じていた。
例えば、水戸藩から二万石を分与されて成立した守山藩では、
「貞享三年(1686)十二月二十六日には、これはとく
に供割について述べたものではないが、公用私用で
外出した際には、「下々他所の者と口論仕るまじく候、
先より口論申懸候はば、此方より丁寧に挨拶致し無事
に仕るべく候」と申し渡された。相手がどんなに口論
をふっかけてきても、当方はあくまで丁寧に対応して
ことを起こすなというのだろう。」
(氏家幹人『江戸藩邸物語』)
ところで御定書百箇条にある「足軽」だが、足軽というと戦国時代農民等からかき集められた雑兵のイメージがあるが、江戸時代には侍である。
「町人・百姓には苗字がなかったのみならず、武家の奉
公人でも、中間〔ちゅうげん〕や小者は苗字がない。中
間というのは、侍の下、小者の上であるからの呼称だ。
折助と渾名されたのも、中間であって足軽ではない。
足軽は大小を帯し、羽織を着ている。中間は紺看板に
梵天帯、木刀一本という拵えのものだ。
武家の奉公人では、小者が最下級なのだ。この小者、
勿論中間も軍役の員外であるが、足軽は兵卒であるか
ら正しい戦闘員なのだ。軍役の人数に数えられている。
しかし、中間とても戦場の役目はあった。旗持ち、纏・
馬印・楯持、または馬の口取り等を受け持つ。ただ、
中間は決して武器を執って敵対することがない。それ
故に、足軽と違って、武芸の素養を必要とせぬ。」
(三田村鳶魚『武家の生活』)
ところで、酒に酔った職人が武士に悪態をつくなかで使っている「サンピン」という言葉については
「最初にサンピン侍というやつ、これは三両一人扶持で、
中小姓という--やはり士です。--江戸時代にも差
別はありましたが、明治になっては、士族と卒族と分
けました。二本さしさえすれば、大略サムライとした。
これは士と民と相対していう時の大別でしょう。--
三両一人扶持と申したのは享保くらいの話で、文政度
には四両になっている。従って、文政には四ピンのわ
けなのですが、昔からの言い慣わしで、サンピンとい
っておりました。これより安い士はないので、こういう
言葉が出来たのです。」(三田村鳶魚『武家の生活』)
(引用者注)三両というのは一年間の俸禄。扶持というのは、一人一日玄米五合(一食二合五勺として二食分)の割で毎月支給された。
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