落語の中の言葉09「四万六千日」

      十代目柳家小三治の「船徳」より

 道楽が過ぎて勘当された徳さん、船宿に厄介になっているが、親方に頼み込んで船頭にしてもらう。このくらい教えてもらったからと自分では一人前のように思ってもまだまだ半人前。暑い盛りの四万六千日の日に、炎天下埃をかぶって歩くのに閉口した二人連れ、馴染み客である一人が船は嫌いだというもう一人を引っ張って船宿へ来る。大桟橋まで船を頼むが、あいにく出払っているという。徳さんが居るのを見て、約束の客を待っているものと思いこみ、大桟橋に着いたらすぐに返すからといい、徳さんも大丈夫だから行かしてくれというので、おかみさんも心配しながらも行かせる。ところが、棹を流したり、石垣に付けてしまったりとさんざん。挙げ句にはもう少しで大桟橋という所で止まってしまい、これ以上は漕げないという。嫌がる友達を無理に引っ張ってきた方の男は、仕方なくその友達を負ぶって川に入り大桟橋へ上がるが、徳さんは船でへたり込んでいる。「おウ、若え衆、大丈夫か」「すいません船頭を一人雇ってください」

 この噺の舞台になる四万六千日であるが、今日では「浅草のほうずき市」と呼ばれることが多い。しかし、江戸時代後期にはホオズキではなくもっぱら赤いとうもろこしが売られていたという。
四万六千日 当月(七月)九日は観世音菩薩千日参りなり。これを世俗四万六千日といいて、この日観世音へ参詣する時は、四万六千日詣ずるに同じ功徳なりという。今明両日参詣多き所は、浅草金竜山正観世音・本所回向院一言観音・三田魚藍・四ッ谷南寺町汐干観音・青山梅窓院泰平観音・麹町八丁目栖岸院・牛込神楽坂行元寺襟かけ観音・大塚護国寺・駒込光源寺大観音等、皆縁日商人露店を張り出し群衆なす。中にも浅草金竜山を第一とす。当所当日の売り物、赤玉蜀黍は雷除けとて、人皆求めぬものはなかりける。」(菊池貴一郞『絵本江戸風俗往来』明治三十八年)

また、『守貞謾稿』にも次のようにある。
七月十日江戸浅草浅草寺観世音四万六千日詣で(昔は諸所観音に詣ず。今は浅草にのみ大群詣す)観音欲日(参)と号して、毎月一日これあり。あるひは百日に当り、あるひは幾千日と、毎月同じからず、また毎月十日にあらず。その中今日のみ四万六千日に当り、故に今は今日のみを知りて、他月を知る人稀なり。
 文化季以来、境内において、専ら赤色の玉蜀黍を(江戸にて、とうもろこしと云ふ。京坂に云ふ南蛮黍なり。けだし京坂赤色の物を見ず。江戸も平日これを用ひず。赤色の物は、ただ今日これを売るのみ)世俗これを買ひて天井に挟まば、雷を免る呪と云ふ。妄説なり。昔は、今日、境内において茶筌を売る(茶筌も今の黍のごとく、数店を出し賈〔あきな〕へり。鄙客専らこれを買ふなり。これ昔は、平日も挽茶を専用する故なり)。寛政に至り、自づからこれを廃す。

ちなみに観音欲日については、『江戸鹿子』のあるという。
七月十日を四万六千日と名附けて観世音に詣づるは、何れの典記にか出たる。百年三万六千日に一万日を添たるもおかし。もとより仏説にも聞しことなし。貞享四年作者藤田理章とありて、板本の江戸鹿子五巻に
     観音縁日
    正月元日 向百日 二月晦日 向九十日 三
    月四日 向百日 四月十八日 向百日 五月
    十八日 向四百日 六月十八日 向四百日 
    七月十日 向四万六千日 八月二十四日 向
    四千日 九月二十日 向四千日 十月九日 
    向四百日 十一月七日 向六千日 十二月十
    九日 向四千日、
是又何に見へしにや、丹桂籍に見へし十王の誕辰と同日頃なるべし (大田南畝『金曾木』文化七年)

ところで、いつからほおずきそれも赤いほうずきが売られるようになったものであろうか。
 芝愛宕山権現の千日参りも四万六千日と呼ばれており、そこでは青いほうずきが売られていたという。なにか関係でもあるのだろうか。
(六月)二十四日 芝愛宕権現社、千日参り(別当、円福寺。世俗、四万六千日ともいふ。この日に詣すれば、この日数に向かふといふ。朝よ り夕まで貴賤群衆して稲麻のごとし。境内にて青酸漿を售〔あきな〕ふ。詣人これを服して、癪あるいは小児の虫の根を切るといふ。以下略)  (『東都歳時記』)

芝愛宕山権現の青ほおずきについては、次のような話もある。
浅草観世音、毎年七月十日を四万六千日とて、参詣群をなす。此事昔はなかりし、と古老いへり、さて又、此日、此山内にて、赤き唐もろこしを雷除也とて商ふ、俗子買ざるはなし、そもそも赤き唐もろこしは、近き文化のはじめ、何国に産せしにや、其以前はなかりし物也、本草家栗本随仙院に尋しが、書物には見えず、近来変生の物也といへり、されば文化年中よりの品物なるべし、雷除也とは、何に拠るにや、芝愛宕山の四万六千日は、毎年六月廿四日也、此日、御夢想の虫の薬也とて、青酸漿を商ふ、用ひやうは、水にて鵜呑になす也、参詣の諸人争ひて是を買ふ、此事の起りしは、明和年中、愛宕の下青松寺前なる倉橋内匠或井上助之進家来とも云が中間、此四万六千日の日、主人の庭掃除より青ほうづきを取り来り、今日是を丸呑にすれば、大人は癪の根を切、小児は虫気を去る、愛宕の御夢想也とて、戯れに家中の者をだましけるより起りし事と、其辺りの老人いへり、かの赤き唐もろこしも、此たぐひなるべし、(山東京山『蜘の糸巻』弘化三年)

 この赤とうもろこしも明治初期から売られなくなったという。
文化年間(1804-18)境内に赤とうもろこしを売る店が多く、雷除けのまじないに参詣者が買ったのが慣例となったが、明治初期赤とうもろこしが不作で店にでなかったため、それに代わって三角形の札が売られ、現在に及んでいる。これらの市は、明和年間(1764-72)頃すでにあったようで、ほおずきは当時は漢方薬としての効目から、厄除けにひっかけて売られたようである。(台東区教育委員会『台東区の歴史散歩』昭和五八年)


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