落語の中の言葉08「川開き」
五代目古今亭志ん生の「たがや」より
両国の花火を待ちわびて橋の上は人でいっぱい。その中を本所の側から馬に乗った侍が鎗持ち・供侍三人をつれ、よれイよれイと人をどかしながらやって来る。反対に本所の方へ渡ろうと、たが屋がたがにする竹を輪にしたものを道具箱の先に引っかけて御免よと声を掛けながらやって来る。だがこちらはよけてはくれず、逆に押され押されしてよろけ、道具箱を落とす。はずみで捲いてあった竹がはずれてスルスルと伸び、馬上の殿様の陣笠をはじき飛ばしてしまう。供侍は無礼者とカンカンになり屋敷まで来いという。たが屋は平謝りするが、どうしても許してくれないため開き直って啖呵をきる。周りの見物人は騒ぎ立てる。供侍が斬りにかかるが、死にものぐるいのたが屋は刀を奪い取り、供侍を三人とも斬ってしまう。殿様も馬から下り、槍で突こうとするがたが屋の横に払った一文字に殿様の首が宙に飛ぶ。見物は「揚がった揚がった。たアが屋アー」。
江戸時代の両国の涼みについて『東都歳時記』(天保九年)は五月二十八日の条に
とある。また『守貞謾稿』には
川開きと花火について三田村鳶魚氏は
と述べている。
その間賑やかで特に川開きの花火は大変な人出だったという。
注・愼廟とは愼徳院すなわち十二代将軍徳川家慶のこと。
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両国の花火を待ちわびて橋の上は人でいっぱい。その中を本所の側から馬に乗った侍が鎗持ち・供侍三人をつれ、よれイよれイと人をどかしながらやって来る。反対に本所の方へ渡ろうと、たが屋がたがにする竹を輪にしたものを道具箱の先に引っかけて御免よと声を掛けながらやって来る。だがこちらはよけてはくれず、逆に押され押されしてよろけ、道具箱を落とす。はずみで捲いてあった竹がはずれてスルスルと伸び、馬上の殿様の陣笠をはじき飛ばしてしまう。供侍は無礼者とカンカンになり屋敷まで来いという。たが屋は平謝りするが、どうしても許してくれないため開き直って啖呵をきる。周りの見物人は騒ぎ立てる。供侍が斬りにかかるが、死にものぐるいのたが屋は刀を奪い取り、供侍を三人とも斬ってしまう。殿様も馬から下り、槍で突こうとするがたが屋の横に払った一文字に殿様の首が宙に飛ぶ。見物は「揚がった揚がった。たアが屋アー」。
江戸時代の両国の涼みについて『東都歳時記』(天保九年)は五月二十八日の条に
両国橋の夕涼み、今日より始まり八月二十八日に終はる。ならびに茶屋・看せ物・夜店の始まりにして、今夜より花火をともす。逐夜貴賤群衆す。
とある。また『守貞謾稿』には
五月二十八日 浅草川川開き 今夜初めて、両国橋の南辺において花火を上ぐるなり。諸人、見物の船多く、また陸にても群衆す。今夜より、川岸の茶店、夜半に至るまでこれあり。軒ごと、絹張り行燈に種々の絵をかきたるを釣り、茶店・食店等、小提灯を多く掛くる。茶店、平日は日暮限りなり。今日より夜を聴〔ゆる〕す。その他観場および音曲、あるひは咄・講談のよせと云ふ席等も、今日より夜行を聴す。
今夜花火ありて、後、納涼中、両三回また大花火あり。その費は、江戸中、船宿および両国辺茶店・食店よりこれを募るなり。納涼は専ら屋根船に乗じ、浅草川を逍遙し、また両国橋下につなぎ涼むを、橋間〔はしま〕にすゞむと云ふ。大花火なき夜は、遊客の需に応じて、金一分以上これを焚く。
川開きと花火について三田村鳶魚氏は
川開きというものは、陰暦の五月二十八日から八月の三十日までを、遊船期間とするのでありまして、これは享保度の定めで、その第一日に花火を揚げるようになった。花火を揚げるようになったのは後のことで、遊船期間の定めの方が早いのであります。(中略)川開きといえば、船の方の話は全くなしに、花火のように思いますが、そうではないので、川開きと花火は別々で、それを結び着けるものが、涼み船なのであります。(『江戸の春秋』)
と述べている。
その間賑やかで特に川開きの花火は大変な人出だったという。
夏月に到れば両国川の花火、又一場の賑ひを為したり、毎年五月二十八日を期して揚初と唱へ、江戸川々の屋形舟屋根舟はいふに及ばず、其外大小の舟々、橋の南北の上下に密比して、左ながら大陸の如く、又橋上には見物の人々、未だ夕ならざる比より詰掛けて、進むもならず退もならず、両岸の涼棚茶榻は所狭き迄に張り連ね、往来は押し合ひへし合ひて、殆んど人の山をなす、されば最寄酒肆茶店の込み合、押て知べし、偖此揚初の済む後は、御三卿方の花火諸侯の花火迚、今日もありあすもと引続き、川縁りに邸宅ある家には、百金も二百金も一刻の花火に費して、其宴を催す事なれば、玉屋鍵屋の二商此に其時を得て、喝采の声と共に巨利を得しなり、(玉屋は愼廟日光御社参の御留守中、火の元別て念入る可しとの命を粗略にし、自火を出したる罪を以て、居所を遂れたれば、他所に移りて業を営みしが、皆再び顧る者無なり、終に断て他業に遷れり、)……(喜多村香城『五月雨草紙』慶應四年)
注・愼廟とは愼徳院すなわち十二代将軍徳川家慶のこと。
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