落語の中の言葉250「浅草紙」
十代目 柳家小三治「お茶汲み」より
小三治師匠は咄のマクラで、「ひやかし」という言葉の語源説の一つをあげ、浅草紙について、浅草あたりでこしらえた質の悪い再生紙だと話しています。
浅草紙は鼻紙や落とし紙に使われる下級品で、はじめは浅草近辺で作られていたためそう呼ばれています。しかし漉返しがすべて粗悪品だったわけではありません。平安時代には法華経の写経に使われるばかりか、綸旨にも使われていました。もっともこれは、古代律令制が衰えて製紙原料の貢進が滞り、やむなく紙屋院で漉返し、それを役所で使ったという事情もあります。
ところで浅草紙を漉いていた場所は、はじめは浅草田原町近辺で、それがだんだん周辺部へ中心が移っていったようです。
○この紙漉き屋の所在を手元の江戸図でさがした限りでは、一番古かったのが延宝七年(一六七九)に開板した『江戸方角安見図』だった。それには浅草寿町に続く場所に「カミスキ町」とある。たぶんこのあたりが「浅草紙」の本場だったのであろう。(鈴木理生『江戸っ子歳事記』2008年)
○諸職諸商人有所
すきがゑし紙や
一浅草門跡前 同所はし場 (藤田理兵衛『江戸惣鹿子名所大全』巻の五 元禄三年1690刊)
○浅草紙 漉返し紙也。田原町三軒町の辺にて漉之。(菊岡沾凉『続江戸砂子温故名跡志』巻之一 享保二十年1735刊)
○三軒町田原町辺漉返し紙を製す、是を浅草紙といふ、今は千住にて専ら漉、又三谷(・新)鳥越にても多くいだす、(不詳『浅草志』文化初期?1804~)
田原町を支配する名主太郎右衛門の文政八年1825の書上げには次のようにあります。
一町内の字
同町二丁目のうち、東の方の横町を里俗に竈横町と唱え候。但し、これは先年より右の場所に竈拵え候職人多くこれあり、右のように申し伝え候由。
この竈は古紙を煮溶かす為のものと思われます。竈横町については、三間町と西仲町の書上げにも、次のようにあります。
三間町 西側田原町一丁目、東側三間町 この横町を里俗に竈横町と唱え申し候。
西仲町 西側田原町二丁目、東側西仲町、この横町を里俗に竈横町と唱え申し候。
浅草近辺の地図と『江戸方角安見図』(左)・切り絵図(右)を掲げます。浅草御門の外側は浅草で、田原町・三間(軒)町・橋場町等すべて、正式町名は頭に「浅草」が付きます。
田原町・三間町の地図は上が西、下が東です。地図上の縦の道(東西)が表通りでそれに直交する横の道(南北)が横町です。町方書上にある竈横町に赤の線を入れました。
幕末の『守貞謾稿』巻之六には
いつ頃から江戸で浅草紙が一般化したのかはハッキリしません。延宝八年1679の『江戸方角安見図』には「かみすき丁」とありますが、168「ぞめき」で紹介した『江戸真砂六十帖』によれば、紙屋五郎兵衛が元禄年中(1688~1703)に浅草紙を売り出した時は、江戸中に五郎兵衛一軒で「其節の漉返し紙を遣ふ者は、あれ浅草紙を遣ふとて、乞食、非人の様に笑ふ」という状態だったとも云います。
漉返しの原料は紙屑買い(商人)と紙屑拾い(非人)が集めていました。これは84「屑屋」で紹介しました。
天保期には江戸の紙屑が周辺に流出し、原料不足から浅草紙の値段が上昇したため、対策が取られています。その中に、紙屑問屋が紙屑買いや非人小屋(紙屑拾いが拾い集めたもの)から買い取った紙屑を、「白紙」「反古」「下物」に区分していたことが出てきます。
「白紙」「反古」「下物」の一貫目当たりの値段、そこから漉返される紙の枚数、その重さなどが知られます。なお「九六百枚」とあるのは96枚を一束にしてそれを100枚としていることを示しています。江戸では銭を銭緡(ぜにさし)に96文通して100文として通用しました。それが銭以外の物にも波及したようです。
紙屑拾いが拾い集めるものもかなりの量になったようです。拾える場所が個人ごとに決められていましたから場所によってはその収入もかなりになったと云われています。
『江戸町方の制度』には非人について次のように書かれています。
非人小屋は一カ所にまとまっていたわけではなく江戸内に散在していました。
南和男氏は「江戸の下層社会」(『江戸町人の研究』第三巻)の中で、寛政十二年の非人小屋数を「寛政享和撰要類集」六から次の表にまとめています。
寛政十二年 非人小屋数
非人頭 小屋数
浅草非人頭手下 368
品川非人頭手下 236
深川非人頭手下 73
代々木村非人頭手下 50
木下川村非人頭手下 7
合 計 734
そして次のように書かれています。
浅草にあった車善七の小屋の場所にはそれなりの数の小屋が集まっていたようで、かなりの広さ(900坪)でした。新吉原のお歯黒どぶのすぐ南にありました。
それで、こんな笑い話があります。
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小三治師匠は咄のマクラで、「ひやかし」という言葉の語源説の一つをあげ、浅草紙について、浅草あたりでこしらえた質の悪い再生紙だと話しています。
浅草紙は鼻紙や落とし紙に使われる下級品で、はじめは浅草近辺で作られていたためそう呼ばれています。しかし漉返しがすべて粗悪品だったわけではありません。平安時代には法華経の写経に使われるばかりか、綸旨にも使われていました。もっともこれは、古代律令制が衰えて製紙原料の貢進が滞り、やむなく紙屋院で漉返し、それを役所で使ったという事情もあります。
(壒嚢抄)又曰、紙屋紙。昔は大内の紙屋にて調ぜしなり。故に名づく。紙屋川は此紙を漉く川なり。故に名を得たり。又宿紙と名づく。紙屋において、結番宿直して造之なり。或云、宿紙即、延喜式、部省式、所謂熟紙也。綸旨に此紙を用ふ。故俗綸旨紙といふ。薄墨色なり。今漉返しといふ是也。源氏物語に、所謂陸奥紙は檀紙也。始出二于陸奥一。故に名を得たり。俗引合せといふ。按、或云、紙屋紙。一名水雲紙、〔割註〕和名抄云、水雲、和名もつく。」一名宣旨紙、古昔以二艶書類一、潰二紙屋川一、漉レ之、故色淡墨也。経レ宿之故又宿紙と名づく。今亦有二漉返之名一。予おもふに、漉返は西人所レ謂反魂紙是也。光孝紀云、清和天皇女御藤原朝臣多美子、天皇晏駕の後、生前に賜ひし御筆の手書を取りあつめ給ひ、紙に漉せてその紙をもて法華経を書写し給ひしとぞ。此けだし漉返の史にあらはれしものなり。(以下略)(谷川士清『鋸屑譚』 士清は安永五年1776歿)
ところで浅草紙を漉いていた場所は、はじめは浅草田原町近辺で、それがだんだん周辺部へ中心が移っていったようです。
○この紙漉き屋の所在を手元の江戸図でさがした限りでは、一番古かったのが延宝七年(一六七九)に開板した『江戸方角安見図』だった。それには浅草寿町に続く場所に「カミスキ町」とある。たぶんこのあたりが「浅草紙」の本場だったのであろう。(鈴木理生『江戸っ子歳事記』2008年)
○諸職諸商人有所
すきがゑし紙や
一浅草門跡前 同所はし場 (藤田理兵衛『江戸惣鹿子名所大全』巻の五 元禄三年1690刊)
○浅草紙 漉返し紙也。田原町三軒町の辺にて漉之。(菊岡沾凉『続江戸砂子温故名跡志』巻之一 享保二十年1735刊)
○三軒町田原町辺漉返し紙を製す、是を浅草紙といふ、今は千住にて専ら漉、又三谷(・新)鳥越にても多くいだす、(不詳『浅草志』文化初期?1804~)
田原町を支配する名主太郎右衛門の文政八年1825の書上げには次のようにあります。
一町内の字
同町二丁目のうち、東の方の横町を里俗に竈横町と唱え候。但し、これは先年より右の場所に竈拵え候職人多くこれあり、右のように申し伝え候由。
この竈は古紙を煮溶かす為のものと思われます。竈横町については、三間町と西仲町の書上げにも、次のようにあります。
三間町 西側田原町一丁目、東側三間町 この横町を里俗に竈横町と唱え申し候。
西仲町 西側田原町二丁目、東側西仲町、この横町を里俗に竈横町と唱え申し候。
浅草近辺の地図と『江戸方角安見図』(左)・切り絵図(右)を掲げます。浅草御門の外側は浅草で、田原町・三間(軒)町・橋場町等すべて、正式町名は頭に「浅草」が付きます。
田原町・三間町の地図は上が西、下が東です。地図上の縦の道(東西)が表通りでそれに直交する横の道(南北)が横町です。町方書上にある竈横町に赤の線を入れました。
幕末の『守貞謾稿』巻之六には
還魂紙(かんこんし)売り 江戸にては浅草紙と云ふ。今は千住駅辺にこれを製す。大坂は高津新地にてこれを製す。漉返し紙は、紙屑を再び漉き成すなり。価大略百枚百文。簣(あじか)にて担ひ巡る。圊(かわや)紙・鼻紙等に用ふ。京坂にて売り巡るは近年なり。とあります。
いつ頃から江戸で浅草紙が一般化したのかはハッキリしません。延宝八年1679の『江戸方角安見図』には「かみすき丁」とありますが、168「ぞめき」で紹介した『江戸真砂六十帖』によれば、紙屋五郎兵衛が元禄年中(1688~1703)に浅草紙を売り出した時は、江戸中に五郎兵衛一軒で「其節の漉返し紙を遣ふ者は、あれ浅草紙を遣ふとて、乞食、非人の様に笑ふ」という状態だったとも云います。
漉返しの原料は紙屑買い(商人)と紙屑拾い(非人)が集めていました。これは84「屑屋」で紹介しました。
天保期には江戸の紙屑が周辺に流出し、原料不足から浅草紙の値段が上昇したため、対策が取られています。その中に、紙屑問屋が紙屑買いや非人小屋(紙屑拾いが拾い集めたもの)から買い取った紙屑を、「白紙」「反古」「下物」に区分していたことが出てきます。
一紙脣
白壱貫目ニ付 代銭七百四拾文
漉手間諸掛 同 三百六文
右漉立 九六百枚ニ付
紙数 千弐百枚
此目方九百目
一同
反古壱貫目ニ付 代銭五百三拾文
漉手間諸掛 同 弐百廿四文
右漉立 九六百枚ニ付
紙数 八百四拾八枚
此目方八百七匁五分
一同
下物壱〆目ニ付 代銭三百三拾文
漉手間諸掛 同 弐百拾六文
右漉立 九六百枚ニ付
紙数 六百四拾八枚
此目方六百四拾八匁
一白屑漉立 但、元直段壱〆文ニ付
竪九寸 拾壱把ニ替
盤尺
横壱尺壱寸
小売九六百枚ニ付百文
売徳七文
一反古同 但、右同断
右同断
一下物同 但、元直段壱〆文ニ付
拾壱把半替
右同断
小売九六百枚ニ付百文
売徳拾弐文
前書直段之儀は是迄紙屑格別高直ニ致売買候ニ付、引下ヶ方被仰付、当分之内右之通取極、此上情々直段引下ヶ候様銘々心掛、下直ニ相成候得は右準し引下ヶ売買可致、尤右直段ゟ聊ニ而も高直ニ売買致間敷候、銘々差働ヲ以右直段ゟ下直ニ売捌候は勝手次第之事
右は南御番所ニ而被仰渡候間、此段御達申候、以上
(天保十三年)寅十二月廿七日 組合世話褂
「白紙」「反古」「下物」の一貫目当たりの値段、そこから漉返される紙の枚数、その重さなどが知られます。なお「九六百枚」とあるのは96枚を一束にしてそれを100枚としていることを示しています。江戸では銭を銭緡(ぜにさし)に96文通して100文として通用しました。それが銭以外の物にも波及したようです。
紙屑拾いが拾い集めるものもかなりの量になったようです。拾える場所が個人ごとに決められていましたから場所によってはその収入もかなりになったと云われています。
『江戸町方の制度』には非人について次のように書かれています。
紙屑拾ひを定業とするもの最も多く、一定の食料一日四十八文を小屋頭の家に納めて、ここに寄宿したり。されば小屋頭の家には三人五人の食客を畜はざるなく、これを置けば必らず車善七もしくは松右衛門に乞ふて左の如き鑑札を受け紙屑拾の免許を得たるなり。(鑑札の図は省略)
紙屑拾ひの業は右の鑑札をさへ受くれば何地にても稼ぎ歩行ことを得るやと云ふに決して然らず、これもまた役得勧進場と同じく一定の区域ありて、これを超ゆるを許さゞるのみならず、拾ひ獲たる紙屑は必ず控へ檀那に持ち往きて売渡さゞるを得ざるの制なりき。控かへ檀那とは非人等の拾ひたる紙屑の元締とも称すべき役柄にて、以前に掲げたる各部署中に於て幾多の小屋頭順次月番を以て之れを務む。今紙屑の授受法を聞くに非人等が毎日拾ひ獲たる紙屑を彼の控へ檀那に持ち往けば、檀那は自分勝手にこれを貫目に掛け、もし紙屑の外手拭、犢鼻褌(ふんどし)の類あればこれを別にしそれぞれ通帳に記入して受取りたる証を与へ置き、月末に至りてその月の拾ひ高を〆め時の相場にて代価を交附するなり。ただし時の相場を取るには立場と称する紙屑問屋(是は平人)をして入札せしむ。一応好き手順の如くなれどもかの貫目の記入は勿論入札の相場も皆檀那の手加減に存したれば、その間檀那の利する所少なからざりしなるべし。因みにいふ烏を(ママ)鷺と称して紙の黒白を選り分くるといふは、立場なる問屋に渡りて後にこそあれ、非人の方にてはこの区別をなさゞりしと云ふ。
されど紙屑拾ひの所得また決して少なからず、通じて月に一、二両の金を獲たりとなり。(以下略)
非人小屋は一カ所にまとまっていたわけではなく江戸内に散在していました。
南和男氏は「江戸の下層社会」(『江戸町人の研究』第三巻)の中で、寛政十二年の非人小屋数を「寛政享和撰要類集」六から次の表にまとめています。
寛政十二年 非人小屋数
非人頭 小屋数
浅草非人頭手下 368
品川非人頭手下 236
深川非人頭手下 73
代々木村非人頭手下 50
木下川村非人頭手下 7
合 計 734
そして次のように書かれています。
天保十五年(一八四四)日本橋・霊岸橋川筋の浚・普請、南新堀一町目入堀の埋立などのため、右川中や入堀の端にあった非人小屋一九軒が取払いとなっている。同十三年には本銀町より元数寄屋町までの堀端や橋台五間の内にあった非人小屋一一軒も取払われ、合計三〇の替地と小屋引料として銭九七貫五〇〇文が支給されている。以上のように江戸の非人小屋は、非人頭の居住地にはそれぞれの勢力の大小によりある程度の非人小屋が集まっていたようであるが、残りは市内各地に、おもに河岸地などに散在していた。
浅草にあった車善七の小屋の場所にはそれなりの数の小屋が集まっていたようで、かなりの広さ(900坪)でした。新吉原のお歯黒どぶのすぐ南にありました。
それで、こんな笑い話があります。
車善七が火事
過にしころ、善七がところに火事のいできけるに、おびたゞしく見ゆる、米がしのわかきものども、おほく出て見けるに、此火事はまさしく吉原にきはまった、といふ、その中に、上ろうにふかくあいけるもの申けるは、さあらば、かけつけて、せめてくしばこの一つものけてやらん、とてひとついきに成て、ともはふたりづれにてかけつけたり、浅くさこまがたにて、ことの外いきのきれければ、ひとりのいひけるは、しばらくまち給へ、水なりとものみてかけん、といふ、いや、もはやいかずとよし、といふ、是まできたりて、なぜに、ととへば、まさしく是は善七であらふ、といふ、こゝにてなにがしれん、といへば、いやいや、善七にきはまつた、吉原ならばきやらくさかろふが、かんこくさい(紙子臭い)ほどに、ちりがみに火がついづら、といふ、あんのごとく善七であった、はなのきいたやつの、(鹿野武左衛門『鹿の巻筆』貞享三年1686)
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