雑話11「式年遷宮」
決まった年に遷宮を行うのは伊勢神宮に限りませんが、「式年遷宮」といえば伊勢神宮が代表的です。その伊勢神宮の第六十二回式年遷宮が行なわれたのは平成二十五年でした。千三百年にわたって永々と行なわれてきたと言われます。20年毎の62回目であれば1220年で計算が合いません。そこで内宮の式年遷宮の実施年と前回からの間隔を見ると下のようになります。
西暦 月 間隔 西暦 月 間隔
01 持統天皇04 690 35 興国04 1343 12 20
02 和銅02 709 19 36 天平19 1364 02 21
03 天平01 729 20 37 元中08 1391 12 27
04 天平19 747 09 18 38 応永18 1411 12 20
05 天平神護02 766 19 39 永享03 1431 12 20
06 延暦04 785 19 40 寛正03 1462 12 31
臨時 延暦11 792 07
07 弘仁01 810 09 18
08 天長06 829 09 19
09 嘉祥02 849 09 20
10 貞観10 868 09 19
11 仁和02 886 09 18
12 延喜05 905 09 19 41 天正13 1585 10 123
13 延長02 924 09 19 42 慶長14 1609 09 24
14 天慶06 943 09 19 43 寛永06 1629 09 20
15 応和02 962 09 19 44 慶安02 1649 09 20
16 天元04 981 09 19 45 寛文09 1669 09 20
17 長保02 1000 09 19 46 元禄02 1689 09 20
18 寛仁03 1019 09 19 47 宝永06 1709 09 20
19 長暦02 1038 09 19 48 享保14 1729 09 20
20 天喜05 1057 09 19 49 寛延02 1749 09 20
21 承保03 1076 19 50 明和06 1769 09 20
22 嘉保02 1095 09 19 51 寛政01 1789 09 20
23 永久02 1114 09 19 52 文化06 1809 10 20
24 長承02 1133 09 19 53 文政12 1829 09 20
25 仁平02 1152 09 19 54 嘉永02 1849 09 20
臨時 嘉応01 1169 17 55 明治02 1869 09 20
26 承安01 1171 02 56 明治22 1889 10 20
27 建久01 1190 09 19 57 明治42 1909 10 20
28 承元03 1209 09 19 58 昭和04 1929 10 20
29 安貞02 1228 09 19 59 昭和28 1953 10 24
30 宝治01 1247 09 19 60 昭和48 1973 10 20
31 文永03 1266 09 19 61 平成05 1993 10 20
32 弘安08 1285 09 19 62 平成25 2013 10 20
33 嘉元02 1304 12 19
34 元享03 1323 09 19
國學院大学日本文化研究所編『神道事典』縮刷版1999 から
内宮の遷宮を抜出し、一部臨時の遷宮を追加。さらに
前回の遷宮からの間隔を追加。
一瞥して二つの事に気付きます。一つは123年もの間、中絶していた事、もう一つは、ずっと20年に一度ではなかった事です。
中絶していた事について、『神道いろは』(平成十六年)には、「式年遷宮を再興した慶光院上人(けいこういんしょうにん)について教えて下さい。」という項目に、次のように書かれています。
この中絶は、朝廷の経済的窮乏の上に南朝と北朝の対立抗争、その後の応仁の乱と戦国時代の混乱があり、さらに加えて内宮と外宮の対立抗争もあってのことだったようです。
ここに中絶を永享六年から永禄六年までとしているのは外宮の式年遷宮をさしています。
次ぎに式年遷宮の間隔については、第三十四回までは19年毎で、20年毎になったのは江戸時代の寛永六年第四十三回からです。「二十年に一度」という時の20年は、現在と昔とでは数え方が違っています。昔は年齢の「数え年」と同じく遷宮のあった年から1年、2年と数えています。信州善光寺の御前立本尊の開帳も「七年に一度」と云いわれていますが、丑年と未年の開帳ですから、今風に云えば六年に一度になります。従って、寛永六年第四十三回からを昔と同じ数え方をすると「二十一年に一度」となります。
『旬一百問答』正徳三年1713九月の旬一講会の筆録には次のようにあります。
問曰、両宮遷宮式年為二十年、時代如何
答曰、人王四十代天武天皇朱雀(鳥)三年始式年、蓋近世以降遂成二十一年、
問曰、聞近世遷宮有廃絶、当何時耶、
答曰、内宮自後花園天皇寛正三年至正親町天皇天正十三年百二十四年断絶也、 外宮自後花園天皇永享六年至正親町天皇永禄六年而百三十年断絶也、
「本書は豊宮崎文庫に於て催されし旬一講会に試みたる問答中、百ヶ条を採択収載せしものなり。旬一講会とは、正徳二年十月豊受大神宮禰宜度會智彦、同高彦、及び度會常直、橘成胤等が、神籍古典の講建究を目的として設立せし會合にて、毎旬必ず一の日を期し集會せるが故にこの名あり。本書に収録する所は簡単な問答なるも、当時に於ける祠官が抱ける思想、攷究の態度、及び伊勢神道に対する観念などを窺ふに足るべきもの多し」
第五十九回は昭和二十四年に当たりますが戦後の混乱期で四年延びています。その4年は取り返されることなく、前回の遷宮から20年後(昔流に云えば二十一年に一度)となっています。一方第三十四回までは何回か「二十年に一度」でないものがありますが、一つのケースを除きすべてその後に調整されています。二十年に一度ということが重要であると考えられていたためと思われます。唯一の例外は第七回で、延暦四年から25年後と6年延びていて、その遅れは取り返されていません。延暦十一年の臨時の遷宮は、その前年延暦十年に火災で内宮が焼失いたためです。
延暦十年八月辛卯、夜有盗。焼伊勢太神宮正殿一宇。財殿二宇。御門三間。瑞籬一重。(『続日本紀』)
なぜ、二十年に一度なのか、その理由についてはいくつかの説があります。例えば
二十年に一度の理由には、朔旦冬至説もあります。
また、渡邊敏夫『日本の暦』(昭和五一年)には次のように書かれています。
来年の暦が出来ると
延暦三年 十一月戊戌朔、勅曰。十一月朔旦冬至者。是歴代之希遇。而王者之休祥也。朕之不徳。得値於今。思行慶賞共悦嘉辰。王公已下宜加賞賜。京畿当年田租並免之(『続日本紀』)
朔旦冬至が初めて祝われたのは延暦三年784ですが、暦は推古十二年604から用いられており、天武天皇四年675には占星臺も作られています。
日本書紀巻第二十九
天武天皇四年675春正月丙午朔、大学寮諸学生・陰陽寮・外薬寮、及舎衛女・堕羅女・百済王善光・新羅仕丁等、捧薬及珍異等物進。(中略)
庚戌(五日)、始興占星臺。(以下略)
自然の周期的変化には一日、ひと月、一年があります。一日と一年は太陽に基づき、ひと月は太陰(月)に基づきます。その周期のスタートは、太陽・太陰の力が最も弱くなった時、即ちその時を境に太陽・太陰が復活再生をする時と考えられていたようです。一日の始めは太陽が真北に来た時、一年の始めは昼間の時間が最も短くなる時(冬至)、ひと月の始めは月が最も欠けた時すなわち朔です。そして太陽が復活する冬至と太陰が復活する朔が重なるのが朔旦冬至です。太陰太陽暦では19年毎に起こります。この19年間を「章」といいます。
礎石の上に柱を立て、瓦葺きにすることで数百年保たせる技術がありながら、敢えて掘立柱、茅葺きを採用したのは、定期的に建替えることを前提としている訳です。太陽や月と同様に定期的に更新(再生復活)することに永遠性を求めたのではないかと思います。朔旦冬至説が最も説得力があるように私には思われます。
最初に式年遷宮が行なわれたのは持統天皇四年690です。その前年が朔旦冬至の年です。第一回の式年遷宮が何月に行なわれたのかはわかりませんが、「延喜式」の通りその後と同じ九月だったのではないかと思われます。朔旦冬至の年である持統天皇三年689の九月はまだ太陽は衰弱期にあります。十一月朔日が冬至と重なる日をもって太陽と太陰が復活再生するのですから、新しい「章」に入って最初の九月は翌年690年九月になります。第六回延暦四年785までは同様です。第三回は一年遅れていますが、これは前年に行うべきところ皇太子がその年の九月、遷宮直前に夭折したため一年延期したものと思われます。その遅れは第四回に修正して新章最初の九月に戻しています。
朔旦冬至後の最初の九月でなくなるのは第七回弘仁元年の遷宮です。六年遅れで、その後はこの遷宮から19年後となっています。第九回は一年遅れですが十一回に遅れを取り戻しています。「二十年に一度」(今日の数え方では19年に一度)は記録に残されています。ところがなぜ二十年に一度なのかは記録に残されていません。それで第一回遷宮から百年以上たった弘仁頃には、なぜ二十年に一度なのかという内容が失われ、記録にある「二十年に一度」とう形式だけが忠実に守られて来たのではないかと思われます。
○『延喜式』(康保四年967施行)巻四 神祇四 伊勢太神宮
凡太神宮廿年一度造替正殿寶殿及外幣殿。(度會宮。及別宮餘社造神殿之年限准此)皆操新材搆造。自外諸院新舊通用。云々
九月十四日粧餝度會宮。十五日奉徙御像。同日粧餝太神宮。十六日奉徙御像。云々
註:度會宮=外宮、太神宮=内宮
○『続日本紀』
(神亀四年727)閏九月丁卯、皇子誕生焉
(神亀五年728八月)甲申。勅。皇太子寝病。経日不癒。一日行道。縁此功徳。 欲得平復。云々
(神亀五年728)九月丙午(十三日)、皇太子薨 壬子(十九日)葬於那富山 時年二。
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西暦 月 間隔 西暦 月 間隔
01 持統天皇04 690 35 興国04 1343 12 20
02 和銅02 709 19 36 天平19 1364 02 21
03 天平01 729 20 37 元中08 1391 12 27
04 天平19 747 09 18 38 応永18 1411 12 20
05 天平神護02 766 19 39 永享03 1431 12 20
06 延暦04 785 19 40 寛正03 1462 12 31
臨時 延暦11 792 07
07 弘仁01 810 09 18
08 天長06 829 09 19
09 嘉祥02 849 09 20
10 貞観10 868 09 19
11 仁和02 886 09 18
12 延喜05 905 09 19 41 天正13 1585 10 123
13 延長02 924 09 19 42 慶長14 1609 09 24
14 天慶06 943 09 19 43 寛永06 1629 09 20
15 応和02 962 09 19 44 慶安02 1649 09 20
16 天元04 981 09 19 45 寛文09 1669 09 20
17 長保02 1000 09 19 46 元禄02 1689 09 20
18 寛仁03 1019 09 19 47 宝永06 1709 09 20
19 長暦02 1038 09 19 48 享保14 1729 09 20
20 天喜05 1057 09 19 49 寛延02 1749 09 20
21 承保03 1076 19 50 明和06 1769 09 20
22 嘉保02 1095 09 19 51 寛政01 1789 09 20
23 永久02 1114 09 19 52 文化06 1809 10 20
24 長承02 1133 09 19 53 文政12 1829 09 20
25 仁平02 1152 09 19 54 嘉永02 1849 09 20
臨時 嘉応01 1169 17 55 明治02 1869 09 20
26 承安01 1171 02 56 明治22 1889 10 20
27 建久01 1190 09 19 57 明治42 1909 10 20
28 承元03 1209 09 19 58 昭和04 1929 10 20
29 安貞02 1228 09 19 59 昭和28 1953 10 24
30 宝治01 1247 09 19 60 昭和48 1973 10 20
31 文永03 1266 09 19 61 平成05 1993 10 20
32 弘安08 1285 09 19 62 平成25 2013 10 20
33 嘉元02 1304 12 19
34 元享03 1323 09 19
國學院大学日本文化研究所編『神道事典』縮刷版1999 から
内宮の遷宮を抜出し、一部臨時の遷宮を追加。さらに
前回の遷宮からの間隔を追加。
一瞥して二つの事に気付きます。一つは123年もの間、中絶していた事、もう一つは、ずっと20年に一度ではなかった事です。
中絶していた事について、『神道いろは』(平成十六年)には、「式年遷宮を再興した慶光院上人(けいこういんしょうにん)について教えて下さい。」という項目に、次のように書かれています。
さて、鎌倉時代末まで式年でおこなわれてきた御遷宮も、室町時代中期頃からその制度が中絶し、正遷宮(新たな社殿を造営する御遷宮)ではなく、仮殿に遷御して元の社殿を修理する仮殿遷宮のみとなってしまいました。
こうした中、天正十三年(一五八五)、内宮の正遷宮が百二十四年ぶりに、また永禄六年(一五六三)、外宮の正遷宮が百三十年ぶりに再興されるにあたり、力を尽くしたのが慶光院上人でした。
この中絶は、朝廷の経済的窮乏の上に南朝と北朝の対立抗争、その後の応仁の乱と戦国時代の混乱があり、さらに加えて内宮と外宮の対立抗争もあってのことだったようです。
皇祖神を祀る内宮のほうが外宮よりも上位に立ったが、鎌倉時代に入ると、この関係に異変が生じた。下位にみられていた外宮が内宮との対等あるいはそれを上回る地位を公然と主張しはじめたのだ。外宮側の根拠は、「豊受大神は、天地開闢の根源神である天之御中主神と同体である」というものだった。つまり、外宮が祀っているのは、天照大神に先行する神であり、皇祖神の大元なのだという主張である。
これを機に両宮の反目が表面化し、室町時代にはついに争乱が生じた。
文明十八年(一四八六)、内宮門前の宇治の御師(下級神職)たちが、外宮門前の山田に攻め入り、町が焼き払われた。追い込まれた外宮側の御師たちは外宮正殿に火を放って応戦した(『皇代記附年代記』)。正殿の建つ瑞垣内で自刃する者もいたという。聖域が、神道で最も忌むべき血で穢されたのだ。三年後には、外宮側の御師たちが宇治の町を焼き、その火は内宮境内にまで及んだ(『大乗院寺社雑事記』)。斬り合いも起こり、内宮の正殿も血で穢された。こうした混乱により、永享六年(一四三四)から永禄六年(一五六三)までの百二十九年間、式年遷宮も中絶している。(新谷尚紀監修 古川順弘執筆『神社に秘められた日本史の謎』2015)
ここに中絶を永享六年から永禄六年までとしているのは外宮の式年遷宮をさしています。
次ぎに式年遷宮の間隔については、第三十四回までは19年毎で、20年毎になったのは江戸時代の寛永六年第四十三回からです。「二十年に一度」という時の20年は、現在と昔とでは数え方が違っています。昔は年齢の「数え年」と同じく遷宮のあった年から1年、2年と数えています。信州善光寺の御前立本尊の開帳も「七年に一度」と云いわれていますが、丑年と未年の開帳ですから、今風に云えば六年に一度になります。従って、寛永六年第四十三回からを昔と同じ数え方をすると「二十一年に一度」となります。
『旬一百問答』正徳三年1713九月の旬一講会の筆録には次のようにあります。
問曰、両宮遷宮式年為二十年、時代如何
答曰、人王四十代天武天皇朱雀(鳥)三年始式年、蓋近世以降遂成二十一年、
問曰、聞近世遷宮有廃絶、当何時耶、
答曰、内宮自後花園天皇寛正三年至正親町天皇天正十三年百二十四年断絶也、 外宮自後花園天皇永享六年至正親町天皇永禄六年而百三十年断絶也、
「本書は豊宮崎文庫に於て催されし旬一講会に試みたる問答中、百ヶ条を採択収載せしものなり。旬一講会とは、正徳二年十月豊受大神宮禰宜度會智彦、同高彦、及び度會常直、橘成胤等が、神籍古典の講建究を目的として設立せし會合にて、毎旬必ず一の日を期し集會せるが故にこの名あり。本書に収録する所は簡単な問答なるも、当時に於ける祠官が抱ける思想、攷究の態度、及び伊勢神道に対する観念などを窺ふに足るべきもの多し」
第五十九回は昭和二十四年に当たりますが戦後の混乱期で四年延びています。その4年は取り返されることなく、前回の遷宮から20年後(昔流に云えば二十一年に一度)となっています。一方第三十四回までは何回か「二十年に一度」でないものがありますが、一つのケースを除きすべてその後に調整されています。二十年に一度ということが重要であると考えられていたためと思われます。唯一の例外は第七回で、延暦四年から25年後と6年延びていて、その遅れは取り返されていません。延暦十一年の臨時の遷宮は、その前年延暦十年に火災で内宮が焼失いたためです。
延暦十年八月辛卯、夜有盗。焼伊勢太神宮正殿一宇。財殿二宇。御門三間。瑞籬一重。(『続日本紀』)
なぜ、二十年に一度なのか、その理由についてはいくつかの説があります。例えば
二十年に一度遷宮が行われる理由については、いくつかの学説がある。掘立て形式の社殿の耐用年数がおおよそ二十年とする説。建築・神宝・装束等の作成技術や祭式の継承が、当時の寿命から考えて、二十年を限界とする説。造替の経済的基盤となる糒(ほしい)の蓄積貯蔵年限が二十年であるので、二十年に一度遷宮を行うようになったとする説。毎年の神嘗祭と二十年に一度の遷宮祭との関係は、宮中祭祀における毎年の新嘗祭と一代一度の大嘗祭との関係に比定でき、その間隔がおおよそ二十年とする説。いろいろな視点から、その理由が考えられている。
こうした遷宮はいつ頃開始されたのか。これについて、『日本書紀』は沈黙して語らない。前述のように、皇室の始祖神天照大神を奉祀する神今食は、天皇にとってきわめて重要な内々の祭祀であった。にもかかわらず、正史や律令には記録されていない。理由は天皇の内々の始祖神祭であったためと思われる。遷宮も神今食同様、天皇の内々の神事と認識され、国家の歴史が記された『日本書紀』にはあえて記されなかったものと考えられる。
遷宮の起源に関しては、同時代の史料に見いだすことはできない。時代は降るが、院政期までに成立したと考えられている神宮の記録「太神宮諸雑事記」に記されているのみである。
持統女天皇即位四年庚寅、太神宮御遷宮。
同六年壬辰、豊受太神宮御遷宮。何れも東御宮地、
始めて遷御なり。
持統四年(六九〇)第一回内宮遷宮が、二年後外宮遷宮が開始された。(藤森馨「律令国家と祭祀」 岡田荘司編『日本神道史』2010)
二十年に一度の理由には、朔旦冬至説もあります。
問て云。
此月(十一月)とうじと申事の侍るは何のゆへにて侍ぞや。
答。白虎通に周の世には十一月を正月とす。これを暦家に天正月といふ。殷の世には十二月を正月とす。地正月とす。夏の世には今の正月を正月とす。人正月といへり。十一月は陽はじめて生る月なれば。冬至の日より日かげのながくなると申也。陰陽道の暦数をかんがへて十一月に奉るなり。朔旦冬至と申は。十一月一日の冬至に廿年に一度づつまはるを申なり。いとめでたき祥瑞なれば。異国にも我朝にも御門賀辞をうけ給なり。誠に目出度事にて侍る也。 (藤原兼冬『世諺問答』天文十三年1544)
また、渡邊敏夫『日本の暦』(昭和五一年)には次のように書かれています。
来年の暦が出来ると
陰陽寮は十一月一日中務省に申し送りする。中務省は陰陽寮を率いて十一月一日に具注御暦・頒暦を奏進する。この日天皇は南殿に出御あり、儀式が行われる。これを「御暦の奏」と呼び、厳盛な宮中の行事であった。
(中略)
往時においては、御暦の奏は盛大に行われたものであった。天皇出御のない場合は、奏進の暦の櫃を内侍に付するにとどまった。この儀式は後世になるにしたがって簡略となり、朝廷の式微によりついには絶えることもあった。
〔朔旦冬至〕 この儀式が朔旦冬至の賀と重なった場合には、両者一緒に取り行われた。朔旦冬至というのは十一月朔日が冬至に当たることで、太陰太陽暦法上では、一章十九年を周期として循環するもので、これを佳節として賀したものである。本邦においては、桓武天皇延暦三年(七八四)十一月朔旦冬至に最初の賀を開かれたのに始まり、以後章首に会うごとに天皇は南殿に出御あって、群臣に宴を賜い、群臣は賀表を奉り、賀礼が行われた。赦を行い、租を免じ、官に在る者には叙位を進め、物を賜わったものである。
延暦三年 十一月戊戌朔、勅曰。十一月朔旦冬至者。是歴代之希遇。而王者之休祥也。朕之不徳。得値於今。思行慶賞共悦嘉辰。王公已下宜加賞賜。京畿当年田租並免之(『続日本紀』)
朔旦冬至が初めて祝われたのは延暦三年784ですが、暦は推古十二年604から用いられており、天武天皇四年675には占星臺も作られています。
日本書紀巻第二十九
天武天皇四年675春正月丙午朔、大学寮諸学生・陰陽寮・外薬寮、及舎衛女・堕羅女・百済王善光・新羅仕丁等、捧薬及珍異等物進。(中略)
庚戌(五日)、始興占星臺。(以下略)
自然の周期的変化には一日、ひと月、一年があります。一日と一年は太陽に基づき、ひと月は太陰(月)に基づきます。その周期のスタートは、太陽・太陰の力が最も弱くなった時、即ちその時を境に太陽・太陰が復活再生をする時と考えられていたようです。一日の始めは太陽が真北に来た時、一年の始めは昼間の時間が最も短くなる時(冬至)、ひと月の始めは月が最も欠けた時すなわち朔です。そして太陽が復活する冬至と太陰が復活する朔が重なるのが朔旦冬至です。太陰太陽暦では19年毎に起こります。この19年間を「章」といいます。
礎石の上に柱を立て、瓦葺きにすることで数百年保たせる技術がありながら、敢えて掘立柱、茅葺きを採用したのは、定期的に建替えることを前提としている訳です。太陽や月と同様に定期的に更新(再生復活)することに永遠性を求めたのではないかと思います。朔旦冬至説が最も説得力があるように私には思われます。
最初に式年遷宮が行なわれたのは持統天皇四年690です。その前年が朔旦冬至の年です。第一回の式年遷宮が何月に行なわれたのかはわかりませんが、「延喜式」の通りその後と同じ九月だったのではないかと思われます。朔旦冬至の年である持統天皇三年689の九月はまだ太陽は衰弱期にあります。十一月朔日が冬至と重なる日をもって太陽と太陰が復活再生するのですから、新しい「章」に入って最初の九月は翌年690年九月になります。第六回延暦四年785までは同様です。第三回は一年遅れていますが、これは前年に行うべきところ皇太子がその年の九月、遷宮直前に夭折したため一年延期したものと思われます。その遅れは第四回に修正して新章最初の九月に戻しています。
朔旦冬至後の最初の九月でなくなるのは第七回弘仁元年の遷宮です。六年遅れで、その後はこの遷宮から19年後となっています。第九回は一年遅れですが十一回に遅れを取り戻しています。「二十年に一度」(今日の数え方では19年に一度)は記録に残されています。ところがなぜ二十年に一度なのかは記録に残されていません。それで第一回遷宮から百年以上たった弘仁頃には、なぜ二十年に一度なのかという内容が失われ、記録にある「二十年に一度」とう形式だけが忠実に守られて来たのではないかと思われます。
○『延喜式』(康保四年967施行)巻四 神祇四 伊勢太神宮
凡太神宮廿年一度造替正殿寶殿及外幣殿。(度會宮。及別宮餘社造神殿之年限准此)皆操新材搆造。自外諸院新舊通用。云々
九月十四日粧餝度會宮。十五日奉徙御像。同日粧餝太神宮。十六日奉徙御像。云々
註:度會宮=外宮、太神宮=内宮
○『続日本紀』
(神亀四年727)閏九月丁卯、皇子誕生焉
(神亀五年728八月)甲申。勅。皇太子寝病。経日不癒。一日行道。縁此功徳。 欲得平復。云々
(神亀五年728)九月丙午(十三日)、皇太子薨 壬子(十九日)葬於那富山 時年二。
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